第39話 精神地獄

 ザッザッザッザッ……。

 あたりには、落ち葉を踏む踏む乾いた音と、バケツが激しく揺れて軋む音、それから俺の荒い息遣いだけが響いていた。

 

 裸足から伝わる森の地肌の感触が、痛いくらいに冷たく、嫌にザラついて、俺の気力を徐々に蝕み奪っていく。

 

 ━━音と匂い。そんな意味深な言葉を投げかけられ、俺の五感は意識せずとも自然に、過敏に研ぎ澄まされていった。

 

 脚と腕は、体が斜面に転がり落ちないよう懸命に動かして、耳と鼻だけは、常にアンテナを張って周囲に注意を向ける。

 

 湿った土の匂いと、枯れた苔の焼けるような匂いが、かすかに風に乗って漂ってくる。 

  ツンと耳を澄ますと、俺の足音の他に、虫が落ち葉をかき分け地を這いずりまわる音や、小鳥が枝を蹴り飛び立っていく音が聞こえてくる。

 

 森は、たった五種の感覚だけでは測り切れぬほど、複雑で多層な調和に溢れている……。

 

 ズッリイィィ。次の瞬間、右のかかとが空を向く。上半身がピンと突っぱね、後ろに移動した重心が、体を地面へ引きずり下ろす。

 俺の視界は、浅瀬の海みたいなブルー・スカイで一杯になった。

 

 まずいぃ、足を滑らしたっ!

 このまま背中で着地すれば、成す術もなく、山の端まで滑り落ちていくに違いない!

 

 本能的にそう悟った俺は、力の限り上体を捻って、素早く身を翻す。

 

 ズサッ! ……なんとか地面と正対して着地できた。

 べチンと叩きつけられた衝撃で跳ね返り浮いた体を、両腕で制して、落下の勢いを相殺する。

 

 ……あぶねえ。心臓が爆音を鳴らす。開き切った毛穴から、脂汗が滲みだす。

 恐怖の余韻が、俺の顔を引きつらせ、とんでもない表情を作りあげていることだろう。


「ふうぅ。ぼうっとしてちゃ、いけない、いけない……」 


 安堵のあまり、間抜けな独り言が口から漏れる。


 なにはともあれ、咄嗟の判断で、なんとか滑落を防ぐことができた。


 ふと、両手を見る。無い! バケツが無いっ!!


 素早くあたりを見回す。

 少し離れた場所、木の根元に、引っかかるようにしてバケツが一個、落ちていた。

 

 急いでバケツを回収すると、残りのもう一個を探す。

 

 ダメだ。どうやったって、見つかりそうにもない。

 転倒して、すったもんだしている間に、もう一個のバケツは、山の下の方へ遠く遠く、コロコロ転がって行ってしまったのだろう。

 

 ここは仕方なく諦めるしかない。こうしているうちにも、起爆の秒針は、着々とタイムリミットへ迫っているのだ。

 

 一個を回収できただけでもラッキーと納得して、先へ進むしかない……。

 

 ……ぼうっと他のことを考えていたら、容易く足元をすくわれ、たちまち下へ真っ逆さまに転落する。山の森は、心に生じた僅かな隙をも見逃してはくれないのだ。

 

 最序盤だというのに、既に俺の精神は、かなりのダメージを負っていた。

 

 ああ、この試練、想像以上に、厳しく辛いものだ。

 

 下を見れば、蛇、毒虫、足場の悪いぬかるみ、腐った落ち葉が、俺の<安全>を虎視眈々とつけ狙っている。

 かといって上を向けば、果てしなく続く斜面と、木々のつくり出す先の見えない闇が、俺の精神をグウゥと苦しく絞り上げる。

 

 まるで、山の森全体が、試練のために用意された、巨大な拷問装置みたいじゃないか。

 

 慣れない登山は、必要以上に精神と体力を消耗する。

 加えて、ふんどし一丁の丸裸ゆえに、たった一度の転倒でも、致命傷となる恐れがある。

 これにより、登山中は、絶えず逼迫した緊張感がつきまとう。タイムリミットに追われ、片時も気が休まらない。

 

 精神で楽をしようとすれば、体力が苦しくなる。反対に、体力で楽をしようとすれば、精神が苦しくなる。

 

 精神と体力がきつく首輪で繋がれ、背後から果てしない脅威が迫ってくるような……。

 

 この試練は、強靭な体力、研ぎ澄まされた五感、そしてなにより、多大な集中力を要する、巧妙に考え出された、地獄のような試練なのだ。

 

 俺は、ここにきてようやくこの試練の全貌を知り、計り知れない恐怖に駆られた。

 

 感覚器を過敏に働かせ、音と匂いに細心の注意を払いながら、ふんどし一丁の姿で、慎重に山を登っていく。

 

 だがしかし……。この時の俺はまだ、知る由もなかった。

 

 山を越えた先に、さらなる試練が待ち受けていることを。この世界にまつわる、真の『厳しさ』を、垣間見ることになることを。

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