第20話 戦わずして勝つ
「まさか、薪の火が原因になっていたとは。なんだか、やるせない気持ちだわい。森の奴らに、悪いことをしたなあ。ワシは、森の奴らに一人ずつ頭を下げて、謝らないといけない。謝らなければっ……」
畑の被害の原因を一通り説明を終えた俺は、ぶつぶつ独り言をつぶやく正一爺、もふもふと一緒に、ふたたび山を登っていた。
もふもふが、ヘエヘエ唾を垂らしながら、俺の手元をじっと見てくる。
それもそのはず。優しく包んだ両手には、畑の大樹から虫取り網で取っ捕まえた、白い羽を何枚も背中に生やした例の芋虫が握られていたのだ。
「こいつ、旨そうか?」
「……ば、ば、バウバウ!!」
もふもふが舌をべろべろ垂らしながら、俺の手元めがけてジャンプしてくる。
芋虫は顔をホックホクさせ、よく肥えた身を震わせる。
なるほど、もふもふは、自然と精霊を見ることができるらしい。
「ワシは、自分には甘いが、自然には厳しかった。本当にすまぬことを……あ、そろそろ着いたぞ」
正一爺は、いじけて縮んだ背中をしゃんと伸ばすと、目の前を指さした。
そこは、つい昨日、木の伐採を手伝い、イノシシに襲われた、視界の開けた比較的斜面のなだらかな場所だった。
「よし、ここならば、イノシシが餌を確保するには十分の広さがあります」
「着いたはいいが……ここはもう木を狩り尽くしてしまって、仕事の用はないぞ。一体ここで、なにを始めようというのだ? ……それに、どうしてさっきから、手をまあるく包んでおるのだ?」
「バウ、バウゥ?」
正一爺ともふもふは、揃って不思議そうに首を傾げる。
「正一爺さんは、誤って食べてしまわないように、もふもふを見張っていて下さい」
「食べる、一体なにをだ?」
「まあ、見ていてください」
俺は、切り株の上に地面の葉っぱを一枚のせて、その上に、芋虫の精霊を放した。
「さあ、芋虫の精霊よ。自然の力を呼び起こして、ここをイノシシの餌場にするのだっ!」
「……」
芋虫は、背中に何枚も生えた羽を、吞気にパタパタさせて見せる。
「はあ、まったく」
俺は、人差し指で芋虫をこずいて、多少の刺激を加えてやる。
すると、俺の目論見通りに、芋虫の穏やかな顔面が一変、真っ赤に膨れ上がり始めた。
「フ、フ、フンヌッ」
憤怒?
たちまち、切り株から青々とした葉を付けた枝が伸びて……もの寂しい切り株は、あっという間に、生命を漲らせる大樹へと成長を遂げた!
「す、すごいのう。これは、あなた様の力だったのかあ……」
正一爺は、大樹の巨影を呆然と見上げながら、嘆息をした。
「まだだっ! お前の力はこんなものか? 俺は貴様が大嫌いだっ! キモイッ、クサイッ、芋虫なんて消えちまえっ!!」
「フ、フ、フンヌゥ……フンヌ、フンヌッ!!!」
大樹のてっぺんから、すすり泣くような声が聞こえると。
あたりに点在した切り株が、みるみるうちに太い幹を伸ばしてゆく。
芋虫の精霊の、ちっぽけな怒りがおさまる頃には……荒涼とした木の伐採場は、薪火の黒煙の影響をものともしない、緑生い茂る自然由来のビオトープと化していた!
空気が美味しい。草木の心地いい香りが、神田の頬を撫でる。
栄養の行き届いた土の中から、イノシシの餌となる昆虫たちが顔を覗かせる。
あたりに漂う森の精霊たちにも、活気があるように見えた。
これでもうイノシシは、餌場に困りはて、飢えに苦しむこともないだろう。
ガサ、ガサ、ガサアッ……。
すると、安堵も束の間、影になった茂みの奥から、激しく木々が揺さぶられる音が聞こえてくる。
姿も見えぬのに、肌身で感じることのできる、この威圧感……。
ああ、間違いない。アイツがやって来たのだ。
急になった斜面の方、細い木を押し倒しながら、王者の風格を携えて、ついにアイツは、その姿を露わにした。
深く彫りのある大きな顔面。
口元から巨木のように生え出た、四本の鋭い牙。
暗く赤い炎を宿した、ビロードのような瞳。イノシシのモンスターだ。
すでに分っていながらも、山を削り出した岩のようなその迫力に、俺は思わず数歩、後ずさってしまう。
イノシシは、太く発達した手足を這わせるように動かして、余裕のある歩みで、こちらに向かってくる。
鼻から水蒸気を噴き出しながら、一歩、一歩、着実にその距離を縮めてゆく。
もし本気で襲い掛かってくれば、俺にはどうすることもできない……。
イノシシが顎を下げ牙の先端をこちらに向けて、土煙をまき散らしながら、一直線に走り込んできた!
正一爺が腰を低く据え、頭を地面スレスレまで落とし込み、不思議な構えを取った。
その時。
ドッカン!
真正面から大樹にぶつかると、なぜだかイノシシは、それきり攻撃を止めてしまった。
ボトボトボト……。
シェイクされた大樹の葉から、木の実やら小さな昆虫やらが、豪雨のように降ってくる。
イノシシは、敏感な嗅覚でそれらの位置を嗅ぎ取ると、パクリパクリと器用に口の中へ運んでゆく。
あたりの餌を一通り食べ尽くすと、満足そうに腹を揺らしながら、イノシシはのそのそと森の奥へ帰っていった。
その貫禄ある後ろ姿からは、もはや敵意や殺意などは、微塵も感じ取ることができない。
そこにあったのは、山の森を一身に背負い、長らく守り続けたという、疲れと自負の入り混じった、積もり積もった老いの表情だけ……。
「一滴も血を流さず、問題を解決してしまった。あんたさんは、戦わずして、戦いに勝利しちまったんだ」
正一爺は、満足げに立ち去ってゆく山のあるじ様を見送りながら、呟くようにそう言った。
森には、小鳥のさえずりと、興奮したもふもふの荒い呼吸音だけが響いていた。
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