第12話 襲来

「おはようございます。よく眠れましたか」

 

 梅子婆の朗らかな声で、心地よく目を覚ました。


「ええ、お陰様で」


「それはそれは、よかったです」


「ウーン、ばうばうっ!」


「と……とつぜん何を仰るんじゃ!」


「あ、俺じゃなくて、もふもふが鳴いたんです」


 枕代わりにしていたもふもふが、俺の頭の形にへっこんだ腹の白い毛を、ブルブルとさせて逆立たせる。


 梅子婆が聞き間違えるのも無理はない。

 たった一晩で、もふもふは驚くほど俺になつき、なんと声質まで似てしまっていたのだ。


「米が焚けております。いつでも朝食にいらしてください」


 梅子婆は、客を手厚くもてなすのに、すっかりやりがいを感じていると見え、旅館の女将風に両手を揃え、ペコっと頭を下げて襖を閉めた。


「絶品メシッ! 絶品メシッ!」


「ばう、ばう、ばうぅ!!」


 梅子婆が畑から採れた野菜でつくった昨晩の夕餉に味をしめてしまった俺は、なんだかよく分からないが一緒になって喜ぶもふもふと、狂喜の小躍りをおどった。


 リズムを刻むみたいに畳の床がミシミシと揺れた。


 腹ごしらえを済ませた俺は、今度は梅子婆の仕事を手伝いに、広大な敷地面積の畑へと向かった。


「……こうやって、捻りながら、ポンッと千切るんじゃ」


 梅子婆は、赤々と熟れたトマトの採り方を、身振り手振り丁寧に教えてくれる。

 俺も真似してみる。

 グチャア……。ああ、指先に力が入りすぎて、さっそくトマトをケチャップに変えてしまった。


「違う、違う。こうやって、若いおなごの乳房を揉みしごくかのように、やさしい手つきで触れるのじゃ。ハンサムなあなたなら、よおく知っているでしょう?」


「童貞です」


「……」


「……」


 ただよう変な沈黙も、さんさんと降り注ぐ太陽の光があれば、特に気にはならなかった。


 そうして、日に焼けながら、プチリプチリと畑に育った作物を採ってゆくうちに、土まみれになった俺と梅子婆は、気づけば、ほとんどすべての仕事を終えてしまっていた。


「フウ、二人でやると、断然効率が違うねえ。手伝ってくれて、ありがとうね」


「おやすい御用です」


「そうじゃ、せっかくだから、畑を耕すのも手伝ってもらおうか」


「ええ、勿論です!」


 ヨイショヨイショと鍬をかかえて、畑の最端まで移動すると、俺はふとあることに気づいた。

 畑と山の間が、鉄条網のようなもので、隙間なくグルっと囲まれている。

 ピカピカに光る鉄線は、張られてから、まだあまり時間が経っていないように見える。

 その一部が、まるで魚にでも食い破られたかのように、ズタズタに壊されているのだ。


「あの場所、壊されてしまっていますね」


「イノシシじゃよ」


「え、イノシシが?」


 昨日の夕方、山で見た、岩のようなイノシシの後姿が、神田の脳裏に浮かんだ。


「そうじゃ。あの柵全体には、高電圧の電流がながれている。ゆえに、動物は勿論のこと、山向こうの峠のモンスターでさえも、畑には近づかなかった。いや、近づくことができなかったんじゃ。だが、ある時、大きな体をしたイノシシが、ついに柵を突破して、畑へ入り込んできた。我が物顔で畑に侵入したイノシシは、畑の作物を喰らい尽くし、満腹で膨れ上がった腹を揺らしながら、ノソノソ山へ帰っていったわい。……なんとか今は、畑をここまで治すことができたが、電気の柵が効かないとなると、はてどうしたものか。本当に困ったものじゃ」


 言い終わると梅子婆は、暗いため息を吐いて、悲しい目で壊れた鉄条網を眺めた。


 そうだったのか。巨大イノシシの魔の手は、登山者にとどまらず、二人の畑にまで及んでいるのだ。


 これだけ手塩にかけて育てた作物たちが、一瞬にして食い荒らされてしまっては、堪ったものではないだろう。

 

 畑の作物や狩った肉、森に植生する木の実だけで自給自足の暮らしをする二人にとって、これは、死活問題なのだ。

 

 ━━突然、風のざわめきが鎮まった。

 

 向かいの山が、不気味なほどに静寂に包まれる。

 

 全身がザーッと粟立つ。思わず身構えてしまう。

 

 それはまるで、嵐の前の静けさ……。

 

 森の木々が激しく揺れ始める。

 ガサッ、ガサガサッ。

 木をなぎ倒しながら、物凄いスピードで、強大な何かがこちらにやって来る。

 

 危険を察知した鳥が、一塊の群れとなり、晴れ渡る青空へ一斉に羽ばたいた。

 

 ……嵐が来る。

 

 この広い畑の上に、もはや逃げ場はない。俺と梅子婆は、石像のように、その場で立ち尽くすことしかできなかった。

 

 ああ、木の葉をまき散らしながら、森の影から現れたのは……。


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