第11話 危機一髪

 衝撃の発生源は……正一爺! 

 

 正一爺が、丸めた体を宙に浮かせ、まるで弾丸のような勢いで、こちらに向かって突進してきたのだ。

 

 一体なぜ?

 

 すると、正一爺の背後、ついさっきまで俺がいた場所に、巨大な影がヌッと現れた。

 巨大な影は、一瞬、その姿を見せたかと思うと、正体を看破する前に、夕闇に溶け込むようにしてあっという間に蒸発してしまう。


「怪我はないか?」


「は、はい……」


 ザッザッザ。何者かが駆けて、葉っぱを踏み荒らす音が聞こえる。

 

 俺は素早く音の方を見遣った。

 

 ……いた。先の巨大な影が、立ちはだかる草木をなぎ倒しながら、走り去っていくのが見えた。

 

 ふいに木々の合間から差し込んだ夕陽が、こびりついた影を洗い流す。

 

 茶黒い毛に覆われた丸い背中。細い割には筋肉質な、短い後ろ足。

 あれは……なにかの動物だろうか。

 まるで、ゴツゴツとした大きな岩みたいな見た目だ。

 

 ああ、その後ろ姿は、不吉を運ぶ疫病神と呼ぶに相応しい、身の毛もよだつ威圧感を放っていた。

 

 それに加えて、あの俊敏性。間違いない。

 正一爺の助けがなければ、俺は今頃、肉弾の衝撃によって骨が木端微塵に粉砕され、帰らぬ人となっていただろう。


「……イノシシだ。奴ら、いくらなんでも、あそこまで凶暴ではなかったのだが」


 正一爺は、老いを知らぬ屈強な足腰で俺を立たせてくれると、困惑したようにぼそり呟いた。


 たしかに、先のイノシシの影からは、食料を得るために転倒させる目的とは程遠い、明らかな濃い殺意のようなものを、肌身で感じることができた。


 イノシシは、既に姿の見えぬほど遠くへ逃げ去っていた。

 あとに残されたのは、イノシシの力強さを誇示するようなくっきりとした獣道と、落ち着かぬ葉のさざめきだけだった。


「あのイノシシ、どうして再び襲いかかってこなかったんでしょうか。そうなっていたら、武器も持たない俺達には、どうしようもありませんでしたね」


「……またあんなのに出くわさないうちに、早く森を出よう」


 そう言うと正一爺は、ばつの悪そうな顔をして、イノシシが行った方向とは逆のほうへ歩き始めた。俺は黙って正一爺の後をつけた。


 古民家へ帰ると、梅子婆が風呂を沸かして待っていた。


 俺は、樽に張った温かい湯に体を沈めながら、どこまでも澄み切った夜空に輝く星々を、ただぼうっと眺めた。


 異世界に転生してから、まだたった一日しか経っていない。

 たった一日。それでも、一週間、一か月、いや、それ以上の時間が経ったように感じられるほど、色々なことがあったように思える。

 

 自然に囲まれた長閑な田舎の風景。

 地球の都会人とはまるで対極の位置に存在するかのような、心優しい爺と婆との出会い。

 

 俺が地球にいた頃の、抑圧され廃れ切った学生生活とは、いったい何だったのだろう。

 一体なんの意味があって、あんな碌でもない連中と、学校という檻の中に閉じ込められなければならなかったのだろう……。

 

 そんな思案を悶々と巡らせながら、俺は、異世界での夜を明かした。

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