第10話 山のおそろしさ
「このあたりの山にはよく、でけえイノシシが現れる。イノシシっていっても、そいつらは、やけに小賢い奴らでな。音もなく背後から近寄って来て、ドカンと巨体をぶつけて、登山者を転ばせてしまう」
「悪戯好きなイノシシさんですね」
「そんな可愛いもんじゃねえ。奴らには、奴らなりのれっきとした目的がある」
「目的?」
「食料だ。奴らは、いっぺん人の食い物の味を知ってしまってから、食い物を持っていそうな人間を襲うようになったんだ。そうして、登山者を転ばせて、あたりに散らばった所有物から、得意の嗅覚で食い物を探し当て、またたくまに盗み去ってしまう。あんたも自分の背中には注意するんだ」
正一爺は、山に入った途端、急に男らしい、嵐の海のような荒々しい口調に変わった。
彼にとって、この山は、聖域のような、なにか特別な意味を持った場所なのかもしれない。
「はい、気を付けます」
俺はというと、木々の根によって支えられた山の斜面を懸命にのぼりながら、正一爺の注意を真面目に聞いていた。
遠くから、渓谷を流れる小川のせせらぎが、湿った風に乗って、うっすら聞こえてくる。
田園を抜け、まだ山の入口に差し掛かったばかりだというのに、既に俺の息は、切れてしまっていた。
「この山で危険なのは、イノシシだけじゃない。山を越えたふもとのあたりに、モンスターの巣窟がある」
「モンスター?」
正一爺の口から飛び出た、予想外の単語に、俺は思わず驚き聞き返した。
「鋭い爪を持った、獰猛で危険な奴らだ。あんた一人では、手に負えんだろう。絶対に一人で山を越えようとしてはならぬ」
ふと、服の袖の下から、正一爺の筋骨隆々な右腕に、幾筋かの傷跡が走っているのが見えた。
痛々しい古傷。もしや、そのモンスターとの戦闘で負った傷ではないだろうか……。
俺は、聞くに聞けず、年にしては立派な正一爺の広い背中を、黙って追いかけた。
「着いたぞ。ここが今日の仕事場だ」
視界の開けた、比較的斜面のなだらかな場所に出た。
正一爺は、ヨイショと重たそうな用具を降ろすと、「まずは見ておれ」と作業を始めた。
のこぎりとくさびを使って、まばらに生えた木々を伐採していく。
その無駄のない洗練され尽くした手際のよい動きは、まさに職人技といった、熟練の腕と豊富な経験を感じさせた。
萎れた葉っぱ桜吹雪みたいに散らしながら、バサン、と木は音を立て倒れた。
「さあ、やってみるがよい」
そうして、見よう見まねで、俺は木の伐採を始めるのであった。
力仕事とは程遠い学校生活を送ってきた俺には、かなりこたえるものがあった。
一本、二本……貧弱な腕を振り、のこぎりで木の幹を切り、弱々しくも、俺の手によって、なんとか木は切り倒されていく。
そうして、正一爺の仕事を手伝っているうちに、あっという間に日は傾き、あたりはすっかり夕闇に包まれていた。
「よし、残った作業はまた今度にまわして、今日はこのあたりにしておこう。じき日が暮れる。夜はモンスターが活発になる時間帯だ。太陽が沈み切る前に、必ずこの森を抜けるぞ」
「はい」
額に浮かんだ汗しずくを腕で拭き取ると、俺は正一爺に遅れを取らないよう、急いで道具類を片付ける。
のこぎりの刃同士が当たって、カチンと乾いた音が響いた。
次の瞬間。
「後ろだッ、危ないッ!!」
老人とは思えぬ、芯のある図太い叫び声。とっさに俺は、背後を振り返ろうと……。
バンッ!
とつぜん体に衝撃が走る。体が『く』の字に折りたたまれるようにして、吹き飛ばされる。
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