春一番
秋田健次郎
春一番
冷たい空気が私の体と外界とを隔てる。
雑踏に温度はなく,したがって色彩もない。
私は外回り営業の最中,駅前広場のベンチに座って少し休憩をしていた。平日の昼間は,朝の通勤時間帯とは異なって様々な服装の人たちが行き交っている。
このあたりは最近よく訪れるが,再開発が進んで日に日に賑わいが増している。
息を吐くと,マスクの中が吐息で充満して少し温かい。そろそろ,本社に戻らなければ。そう思い,腰を上げようとしたとき。隣に座ってきた女性に声をかけられた。
「ねえねえ,お兄さん,私の春欲しくない?」
その声ははっきりと聞こえたが,言葉の内容が脳内で変換されなかったがために困惑した.
「はい?」
私はその女性の方を向きながら答える。年齢は十代か二十代に見える。この季節にしては,妙に薄着で露出度も高い恰好をしており,マスクをしていない。屋外なのだから特に問題はないのだが。
「だから,春。季節の春。知ってるでしょ」
「ええ,まあ」
当然,季節の春は知っている。春という単語と欲しいという形容詞が連続することが過去の人生でなかったために聞き取れなかったのだ。
「それで,どういうことですか?」
「分かんない?」
春が欲しいとはどういうことだろうかと,少し考えてそして,閃いた。彼女は春を売っているのだからすなわちそういうことだ。
「ええっと,そういうことは止めた方が……」
何とも,対応に困る。これまでこのような話を持ち掛けられたこともなければ,自ら行ったこともない。据え膳食わぬは男の恥とは言うが,一時の欲に負けて一生を無下にするくらいならばいくらでも恥をかいてみせよう。
「え? なに説教?」
彼女はあからさまに不機嫌そうな表情と声音で言った。どうして,私が嫌悪されるのか理解に苦しむ。
「いや,そういう訳ではないけど。見ての通り仕事中でして」
私は心の中で感じる怒りとは裏腹に気を遣うような変な言い訳を口走っていた。仮に今の私が休暇を謳歌する最中であったとしても,彼女の誘いは受けていないだろうに。
「あっそ。じゃあこれ渡しとくね。開けるなら家でね」
彼女は一切の興味を失った様子で投げやりに小さな箱を渡してきた。黒色の指輪ケースほどの大きさで,桃色のリボンが付いている。
「これは」
と聞く隙もなく,彼女は既に遠くを歩いていた。私は気味悪く思いつつも,一応それをビジネスバッグに入れた。
🌸
その日の夜,夕飯をすました頃に,ふと昼にあったことを思い出した。ビジネスバッグから例の箱を取り出す。重さはほとんどなく,軽く振ってみるが音は何もしない。連絡先でも書いているのだろうか。もし,そうだとしても当然連絡などしないが。
リボンをほどいて,箱を開けてみる。すると,ほんのり甘い匂いがした。
しかし,それだけで箱の中には何も入っていない。蓋の方の裏側を見てみるがそこにも何も書かれていなかった。つまりは,誘いにのらなかった私への完全なただの当てつけであったのだ。
少しのいらだちと共に,その箱をごみ箱に捨てると,数時間後にはすっかりこのことを忘れていた。明日は待ちに待った休日なのだから。
🌸
朝起きて,一日の予定を考えている時間が一番の至福であり癒しだ。休日に立てる予定は,どれもなんら制約も義務もない。気が向かなければ予定をなくしてしまってもいいし,時間をずらしても誰の迷惑にもならない。
朝食にトーストを焼いた。それから目玉焼きも。
今日はとりあえず書店に行こうか。そして,新刊をいくつか確認してから,積んでいる小説を読むか,最近公開された話題の映画でも見に行くか。
考えているだけで,疲れが消えてくような気分のまま,ともかく服を着替える。今日の最低気温は1℃で最高気温も5℃ほどらしい。しっかり厚着をして玄関をくぐる。
刺さるように冷たい空気は何重にも着重ねた衣服を通り越して体を冷やす。手をポケットに入れて,足早に書店を目指す。
家から書店へは徒歩で20分ほどだ。自転車を使えば数分で済むが,歩きたい気分だったためそうした。しばらく歩いていると,公園を通り抜けていこうと思いつく。このあたりでは一番規模の大きな公園で,並木道も整備されている。少し遠回りにはなるが,優雅な休日にはぴったりだと思った。
並木道は春には満開の桜でいっぱいになり,道はピンク色の絨毯のようになるのだ。春が待ち遠しいと思いながら,歩いていると,不思議な違和感を感じた。
公園内にはレジャーシートを敷いて和気あいあいとする老若男女が多くいた。もちろんそれだけであれば,活気あふれる良い公園だという話なのだが,どうも皆桜の木の下でそれを行っている様子なのだ。季節は冬なのだから当然桜の木は葉っぱ一枚となく,寒々しい姿をしている。
加えて,皆やたらと薄着であるような気がする。ワンピースやデニムジャケット,ニットの上に薄いカーディガン。どう考えても,凍えてしまうだろうと思ってしまう。
私が寒がりなだけだろうか……
並木道を通り抜けると大通りに出た。すれ違う人たちをなんとなく眺めていたが,その全てが寒そうな恰好をしていた。
書店にたどり着く。と言っても,書店は小規模なショッピングモールの2階にあるため,一階の様々な専門店を横目にエスカレーターを目指す。
店内の生ぬるい空気が指先を少し温め始めたころ,家具を取り扱う店舗の店先に
”新生活フェア”
と書かれた紙が貼られていることに気が付いた。
果たして今は新生活シーズンだったろうかと,疑問に思いつつ歩を進めると,今度は文房具店に
”入学シーズン特価”
という手作りのPOPを見かけた。
入学シーズンでもないだろうと心の中で呟きつつ,エスカレーターにたどり着いた。
書店は,今の時代にしては比較的賑わっている。私は断然紙の本派であるため,近所の書店は本当にありがたい存在だ。ネットショッピングで買うこともできるが,思いがけない出会いはやはり実店舗でしか味わえない。
新刊コーナーを吟味していると,その隣に特設コーナーが設けられていた。
”春に読みたい小説ベスト10!”
これは面白そうだと興味をそそられたが,そのすぐ後にこれまでの違和感が繋がって,ぞっと背筋が凍った。この世界は私以外の全てがまるで春であるかのように振る舞っているのだ。
私は自らの手のひらを見つめた。こうすると,夢か否かを判断できると以前に明晰夢を紹介する本で読んだことがあったからだ。
手を握ってから,そして開く。しかし,何も変わらない。これはまごうことなき現実である。
私は何も買うことなく,書店をあとにする。あまりに気味の悪い状況に上手く頭が働かなかった。
とにかく,一度家に戻るべきか。親や友人に連絡するか。昨夜開けた謎の小さな箱のことが脳裏をよぎった。
懸命に平静を装いながら,帰路を進む。帰りは並木道の方を通らなかった。あの光景を再び目にすると,動揺を隠せないと思ったからだ。
住宅街を速足で通り過ぎる。相変わらず,待ちゆく人たちは皆,春の陽気を堪能するような服装である。
向かいから歩いてくる女性が段々と近づいてきて,顔がはっきりと見えるようになったとき,それが昨日駅前のベンチで話しかけてきたあの女性であることが分かった。
「あっ! 昨日の!」
昨日出会った場所とここはかなりの距離があるため,今この場で出会うことは明らかにおかしいのだが,そのようなことには毛頭思い至らなかった。
彼女はこちらに気づくと,不気味なにんまりとした笑顔で向かってくる。その光景に思わず怖気立つ。
「やあやあ,お兄さん。慌てた様子だね」
そう言う彼女は全ての事情を理解しているようだった。
「どういうことだ,これは!」
私は周りの目も気にせず,詰問する。
「お兄さんが悪いんだからね」
「はあ?」
私は不快感も怒りも隠すことが出来なくなっていた。
「据え膳食わぬはなんとやらってね。はは」
彼女は乾いた笑いと共に,深淵のような眼を私に向けた。それは憤怒か失望かあるいは底の深い悲哀にも似ていた。
唐突に強い風が吹いて,顔をそむけた。そして,次に彼女へ向き直った時には既に姿は消えていた。まるで,初めからそこに誰もいなかったかのように。
私は呆然と立ち尽くす。空には暗雲が立ち込め,風が強くなってきた。
もちろん春一番ではない。冷たいただの冬の風。
春一番 秋田健次郎 @akitakenzirou
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