十話

「何で、狩人が、吸血鬼に囲まれて歩いてるんだよ……」


 のどかな山道の中、レネは身を縮めながら、前を歩くイサークを上目遣いに見て呟いた。


「ん? 今、僕の悪口でも言った?」


 不意に振り向いたイサークに、レネは頭をぶんぶんと振って否定した。


「いいい言ってない。言ってないって。ただの独り言だ……」


 引きつったレネの顔をいちべつし、イサークは再び前を向いた。


「それにしても、人間の足っていうのはまったく遅いな。何で僕達がこいつの足に合わせなきゃならないんだよ」


「同じ速度で歩かせられないのなら、こっちが合わせるしかないだろう」


 イサークの隣を歩くスタリーが言った。


「面倒なことだね。あなたが下級吸血鬼を引き渡してくれていれば、こんな無駄な時間を作らなくて済んだのに」


「私が協力することを、もう少しありがたいと思ったらどうだ」


「協力という名の監視だろう? それじゃありがたみは半減するよ」


 ぼやくイサークは溜息混じりに言った。


 テオドールの行方と引き替えに、人間社会の案内役を求めたイサークに、自ら同行することを申し出たテクラだったが、守るべき領民を自分本位の吸血鬼に渡すわけもなく、スタリーは自分がその役目を渋々担うことにしたのだった。イサークの言う通り、スタリーの意識は協力よりも監視のほうが強いが、それをわかりながらあえて受け入れたイサークは、印象よりも意外に真面目に人間世界について学びたいのかもしれないと、スタリーは内心で思っていた。


「こっちで暮らすつもりなら、人間の血の味を忘れることだ。そして目立ちすぎない居場所を作ることが重要だ」


「血の味を忘れるなんて、僕にできるかな」


「無理だと思うなら、今すぐ帰ることを勧めるよ」


「やっぱり冷たいなあ……。あと他には?」


「人間になり切ることだ。人間とは浅い交流にとどめ、必要最低限の物資や情報をやり取りすればいい。そうすれば誰も怪しむことはなく、吸血鬼だと疑われることもない」


 これにイサークはあからさまに嫌な顔を見せた。


「人間になって、人間と同じ生活をしろっていうのか?」


「それも無理だと言うなら――」


「帰れって言うんだろう? でもあっちは窮屈だし……かと言って人間と話しながら愛想笑いをするなんて虫唾が走りそうだ。時にはこんな間抜けな人間も相手にしなきゃならないんだろう?」


 そう言ってイサークは後ろを歩くレネを軽くねめつけた。その視線に気付き、レネは再び表情を引きつらせた。


「お前は人間社会で暮らすということがまだわかっていないようだな。その覚悟も決心もないのなら、こっちで暮らしたところで息苦しくなるだけだ」


「本格的に暮らすかどうかはまだ検討中だ。自由を満喫できると思っていたら、案外面倒なことが多そうだしね。それを決めるまでは、スタリーの人捜しに付き合ってあげるよ」


 付き合っているのはスタリーも同じだったが、生意気な口調でそう言うイサークには苦笑を返すにとどめた。


「お、おい吸血鬼、これは俺の仕事だからな。俺が依頼を受けて捜してるんだ。そっちの領主も忘れるなよ」


 怯えた目を見せながらも、レネは狩人としての主張を改めて言った。それをイサークはわずらわしそうにいちべつした。


「人間はとろい上に、無駄にうるさい。こんなやつらはさっさと食料にするのが一番だと思うんだけどなあ……」


 言ってイサークは舌舐めずりをしながらレネに迫ろうとする。


「ほ、ほん、本性を、見せたな……!」


 剣の柄を握り、震える声で怒鳴るレネだが、その威勢とは逆に足はじりじりと後ずさっていく。怯えても強気を貫くところだけは、彼の狩人としての褒められる部分かもしれない。


「面白半分に脅かすな。足をすくませてこれ以上遅くさせる気か」


 スタリーに肩を引かれ、イサークは前に向き直った。


「人間には冗談も通じないの? まったく、面倒でうるさくてつまらないなんて、どうしようもないね」


 イサークは後ろのレネに聞かせるように、馬鹿にした口調で言った。


「何を! どうしようもないのは吸血鬼のほう――」


「落ち着いてください。喧嘩は駄目です」


 レネの隣を歩いていたテクラはすぐに止めに入った。


「今は兄を見つけることが先決なんですから、喧嘩より協力し合いましょう」


 微笑みを浮かべて言ったテクラに、レネは軽蔑の眼差しを向けた。


「何が協力だ。俺に人間だと偽っておいて」


「そんな、偽ったつもりは――」


「こっちに来るな。人間をやめて吸血鬼になったやつの言うことなんか、信じられるか」


 吐き捨てるように言うと、レネはテクラから距離を取って歩いて行った。もともと無愛想なレネではあったが、テクラが吸血鬼だと知ると、その態度はさらにすげないものになり、そこに不審と警戒を見せるようになっていた。考えてみれば自分以外が吸血鬼という状況に、恐怖や緊張を覚えないほうが無理なのかもしれない。あからさまな敵意を見せるレネに、内面は人間であり続けるテクラは、複雑な気持ちを抱かざるを得なかった。


 そんなテクラがふと視線を上げると、前を行くスタリーがこちらの様子を見ていた。その目は大丈夫かと聞くように優しく見つめてくる。それに無言で笑い返せば、スタリーも微笑を浮かべ、また前を向いて歩き出した。その様子はまるで子を心配する親のようでもあった。人間にはもう戻れないが、吸血鬼になり切ることもできずにいるテクラにとって、スタリーは唯一の理解者だ。こんな事態を作った責任感もあるだろうが、今のテクラには親身になってくれるスタリーが必要不可欠なのは間違いなかった。


 針葉樹に囲まれた山道を一行は北東へ向けて歩き進んでいた。イサークの情報によると、テオドールと思われる気配は最近、こちらの方向で頻繁に感じられたという。捜そうとするとすぐにどこかへ消えてしまうため、まだ見たことはないということだったが、たとえいなくても、待っていれば現れる可能性は高そうだった。


「……あの村か」


 山道を登り切った先には、尖った屋根が特徴的な、大小の建物が並ぶ景色があった。煙突から吐き出されるいくつもの白い煙は、冷たい風に吹かれて青空に紛れていく。その奥には村の人々の生活を見守るかのように、シェスコ山脈の雄大な姿が堂々と広がっていた。しかし、スタリーは村の入り口を見て、その異変に気付いた。


「北の小さな村のわりに、やけに人間の姿が多いな」


 村全体をざっと見ても、大きな村とは言えず、民家の数も数えられるほどしかない。それなのに村の通りや商店などには男性を中心に多くの人の姿が見られた。そこに浮かれた様子はなく、祭りなどが行われているわけではなさそうだ。逆に人々の表情は硬く、何か張り詰めた雰囲気が漂っていた。よく見ると、歩いている人の中には武器や防具を身に付けている者もいた。明らかに何かを警戒しているようだが、それが何なのかは容易に想像できた。


 村の入り口に立つ簡素な門に近付くと、そこにいた村人と思われる初老の男性が四人に気付いて振り向いた。


「旅の方か? トルツ村にようこそ……と言いたいところだが、引き返したほうがいい」


「何か問題でも?」


 スタリーが聞くと、男性は息を吐き切るような大きな溜息を吐いた。


「問題の一言で片付けられることならよかったんだがな……。とにかく、何も用がないなら今すぐ離れたほうがいいぞ。命の保証はできない」


 深刻に言う男性に、スタリーがさらに聞こうとした時だった。


「なあ、ここに十八歳の男で、背はこのくらいで、明るい茶の髪の、赤い目をしたやつは来てないか?」


 スタリーの前に出てきたレネは、率先してテオドールの特徴を聞いた。すると男性は途端に怪しむ目付きになった。


「……何でそいつのことを知ってるんだ」


「依頼があって捜してる。この辺りにいるのか?」


「あんた、もしかして狩人か?」


 レネがそうだとうなずくと、男性はすぐに表情を緩めた。


「何だ。それならそうと言ってくれ。狩人なら大歓迎だ」


「武装しているのは、やはり吸血鬼のためか」


 スタリーが人々を見回しながら言うと、男性は深くうなずいた。


「ああ。困ったもんだよ。数日前から妙な人影がうろつき始めて、そいつが吸血鬼だと気付いた時には、住人が血を吸われて殺されてな。村の者だけじゃ太刀打ちできないから、慌てて武器を揃えたり傭兵を雇ったりしたんだが、それでも一昨日、見回ってたやつがやられて……。静かで平和な村だったのに、今や眠ることもできない恐怖の村だよ」


 とうとう新たな犠牲者が出たと聞いて、スタリーは悔やみ、テクラは焦りを感じながら話に耳を傾けた。


「でも狩人が四人も来てくれたんなら心強い。傭兵の中にも前は狩人だった者がいるから、彼らと退治方法を話し合って、どうかこの村を救ってほしい」


 男性は笑みを滲ませてそう言った。レネだけでなく、どうやら他の三人も狩人だと思ってしまったらしい。


「人間って、本当間抜けだね」


 笑いをこらえてささやいたイサークに、スタリーは鋭い眼差しを向け、黙って注意した。だが、男性の言葉を聞き捨てなかった者がもう一人いた。


「あ、言っておくけど、狩人は俺だけだから」


 レネが間違いを指摘すると、男性は首をかしげて聞いた。


「え? そうなのか? てっきりそうなのかと……じゃあ他の方はあんたの連れか?」


「連れというか、ここを襲ってる吸血鬼とかんけ――」


「私達は狩人の彼に助力している立場で、狩人とは違いますが、それなりにお手伝いはできると思います」


 レネの声をさえぎったスタリーは、代わりにそう言って説明した。


「助手ってことか? それでも人数が増えるならありがたいことだ。吸血鬼はいつ来るかわからないから、今のうちに体を休めておいてくれ。宿は真っすぐ行った右にある。腹ごしらえしたいなら、その手前を左に曲がった先に食堂があるから」


 促す男性に軽く礼を言ってスタリーは村に入った。その後を三人が付いていく。が、すぐにレネがスタリーに怒鳴った。


「おい、勝手なこと言うなよ。これは俺の仕事だぞ」


「私は君に足りない部分を補う役目だ。間違ったことは言っていないが?」


「わざと俺の話を邪魔しただろ」


「今この状況で、私達の事情を教えるの適当じゃないと思ったんだ。それに、教えずとも君の仕事に支障はないだろう?」


「な、ないけど、俺はそんなこと言ってるんじゃない。また俺の邪魔なんかしたら――」


「邪魔なんかしたら一体どうなるっていうんだ? 人間の分際でまさか、僕達に命令でもするつもりなのか……?」


 イサークが不敵な笑みでにじり寄ると、レネはすくんだように身を固まらせ、口をつぐんでしまった。


「ふふっ、間抜けな人間は僕達に従っていればいいんだよ」


「やめないか。周りの目もある」


 スタリーの言うように、民家の軒下で休む者や通り過ぎる者達が、二人の言い合う様子を興味本位で眺めていた。


「あ、あの、お食事でもしませんか? レネさんも、ずっと歩いてきて喉が渇いてませんか?」


 空気を変えようとテクラは提案したが、やはりレネは不審と警戒の目を向けてきた。


「あんたらと食事なんてできるかよ。俺は独りで食うから、付いてくるなよ」


 そう言って三人を見回すと、レネは食堂のあるほうへと足早に去っていった。彼の吸血鬼に対する警戒感は、出会った当初よりも強まっているようだった。そうさせているのは間違いなくイサークだろう。本人はからかっているつもりでも、レネにしてみればいつ襲われてもおかしくない相手なわけで、常に恐怖を抱いている状態なのかもしれない。だが、彼と同道している理由は、そもそも吸血鬼との力量の差をわからせ、狩人をやめさせるためで、それに関しては順調にいっているとも言える。このまま恐怖を感じ続け、狩人という職は自分に向かないと自覚してくれればいいのだが、その目標に達するかどうかは、ここでの行動にかかっているのかもしれない。


「何であんな人間を連れているんだ? いないほうが清々とするのに」


 イサークは遠ざかっていくレネの背中を眺めながら言った。


「お前には関係のないことだ。……テクラ、君はどうする? 後で私と何か食べに行くか?」


「いえ、食事と言ったのはレネさんのためで……。それより今は、少し休みたい気分です」


 山道を歩き続けた疲労より、レネやイサークが放つ、ぎすぎすした雰囲気に気を遣ったせいで、テクラの心は少しばて気味だった。


「そうか。じゃあひとまず宿で体を休めるとしよう。……大丈夫か?」


 沈んだ表情のテクラをのぞき込み、スタリーは心配げに声をかけた。


「……兄は、理性を失ってしまったんでしょうか。村に住む方達を平気で襲うくらいに……」


 この村の現状は、テクラのばてた心に追い打ちをかけていた。話を聞いた男性の様子からすると、ここに現れる吸血鬼はテオドールである可能性が高い。すでに命を奪い、罪を犯しているということに、テクラはどうしようもない焦りと不安に駆られていた。


「テオドールかどうかはまだわからない。理性を失ったかどうかもね。そう暗くなるのは少し早い。……念のために聞くが、お前の仕業じゃないだろうな」


 スタリーにちらと見られたイサークは、呆れた表情を浮かべた。


「僕なら人間に見つかるような、こんな雑な始末はしないよ。それにこっちへ来たのは今日が初めてだ。普段いるのはもっと西のほうだからね。向こうの村のほうがもう少し人間が多いんだよ。食料の選択肢は多いほうがいい。あ、だからって大きな街だと人間の目が多すぎるから――」


「お前の持論など聞いていない。この騒ぎに乗じて、血を吸おうなどと考えるなよ」


「ああ、それ、いい考えだね」


 冗談めいた口調でイサークはにやりと笑った。それに付き合い切れないという目でいちべつしたスタリーはテクラに向き直る。


「……じゃあ、宿へ向かおうか」


 小さくうなずいたテクラと共に二人が歩き出すと、背後からイサークが言った。


「僕はその辺で休んでいるから、何かあれば声をかけてくれ」


「一緒に来ないのか」


「行くわけないだろう。人間と同じ屋根の下で寝るなんてごめんだよ」


 表情を歪め、イサークは嫌悪を見せた。人間とは彼にとって食料であり、下に見る存在であることは揺るぎないようだった。


「何かよからぬことをたくらんでいるわけじゃないだろうな」


 血を吸いたがっているイサークを信用し切れないスタリーは、一人離れようとすることに疑いの目を向けた。


「随分と疑ってくれるね。ちゃんと気配の行き先に案内してあげたっていうのに。そんなに僕が疑わしいなら付いてきても構わないけど?」


 半分投げ遣りに言ったイサークを見つめ、しばし考え込むスタリーだったが、おもむろに言った。


「……そうだな。じゃあそうさせてもらおう」


「ええ? 本当に付いてくる気なの?」


 まさか鵜呑みにされるとは思わなかったのか、イサークは眉根を寄せ、迷惑そうに言った。


「いいと言ったのはお前だろう。……悪いがテクラ、私達は宿には泊まらない。君とレネだけで休んでくれ。代金は私が後で払っておこう」


「そ、それなら私も――」


「君は私達よりも疲れている。暖かいベッドでゆっくり休んだほうがいい」


 肩をぽんと叩かれ、笑いかけられたテクラは、その言葉に従うことにした。確かに疲労と不安で満たされた心を静かに休ませる必要があった。テオドールの気配に近付き、様々な思いを整理したくもあった。見つけたらまず何と言えばいいのか。もう誰も殺さないで? どうしてこんなことになってしまったの? 兄さんに一体何が起きたの? ――しかし、それらを言うにしても、テオドールに理性が残っていなければ聞いてもらえないだろう。そんな状態だったら、自分はどうしたらいいのか。血の欲求に支配された兄を、力尽くで捕らえることができるだろうか。お互い傷付け合うようなことだけにはなりたくないが――宿に向かうテクラの胸には、いくつもの心配と不安が積み重なっていた。


 宿で部屋は確保できたものの、個室はすでに埋まっており、やむなく余っていた二人部屋に泊まることになったテクラは、後から来たレネと言葉を交わすこともなく、気まずい雰囲気のまま、ベッドで横になり休んだ。スタリーが側にいないと思うと心細くはあったが、イサークを一人にしておくほうがもっと不安であることには違いない。この村をさらに混乱させるわけにはいかないのだ。そのためにスタリーが監視役になるのは仕方がなかった。しかしテクラも下級とは言え吸血鬼なのだ。何か危険なことが起きても切り抜ける力は十分にある。ただ、その相手がテオドールでないことを願うだけだった。


 あれこれと頭で心配を募らせているうちに、テクラは眠り込んでいた。そして次に目を覚ましたのは、薄闇の中に何かの物音が聞こえた時だった。


 頭を巡らし、窓の外を見ると、そこにはまだ星空が見えていた。夜は明けておらず、辺りは静まり返っている。次に視線を隣のベッドに移してテクラは動きを止めた。そこにいるはずのレネの姿がなかったのだ。本人どころか床に置いていた装備一式もない。彼を最後に見たのは寝込む前、警戒の目を向けながら剣などを床に置き、テクラに何も言うことなくベッドで休む様子を見ていた。そのまま寝ているものと思っていたが、その後どこかへ出かけたのだろうか。それとも、テオドールが現れたわけでは――


 ギイ、と床がきしむ音が聞こえ、テクラは体を起こした。その音は廊下から聞こえ、少しずつ遠ざかっていくようだった。こんな夜中に誰なのか――ベッドから下りると、テクラは静かに部屋の扉を開けて顔をのぞかせた。


「あ……」


 暗い廊下の奥、宿の入り口の手前に見覚えのある後ろ姿が見え、テクラは思わず声を漏らした。それが聞こえたのか、相手も足を止めると、ゆっくり顔を振り向かせた。


「よ、よう」


 片手を上げ、テクラに笑みを浮かべるレネだったが、その笑顔は明らかに強張っていた。


「どこへ行くんですか?」


 至極普通な質問に、レネはなぜか視線を泳がせ始めた。


「どこ? どこって、だから……ほら、便所だ。ここは寒いから」


 確かに手洗いは宿の外にあるのだが、テクラはレネの格好に首をかしげた。


「剣を持って、ですか?」


 尿意を感じて目を覚ましたわりには、レネの格好は万全すぎていた。武器も防具も、腰に付けた革かばんも、これから宿を出発しますというふうにしか見えない。


「この剣は、えっと……万が一のためだ。吸血鬼はいつ襲ってくるかわからないだろ? べ、便所だって油断はできない」


「そうですか……」


 しどろもどろの口調に怪しさはあったが、おかしなことは言っておらず、テクラはレネの言葉を素直に聞いた。


「お、起こしたんなら悪かった。もう音は立てないから、休んでくれ」


「いえ、何となく目が覚めただけですから……おやすみなさい」


 そう言ってテクラは部屋に戻り、再びベッドに横たわった。すると廊下の先からレネが出ていく音がかすかに聞こえてきた。用足しならすぐに戻ってくるだろう――そんなことを思いながらテクラは目を閉じた。自分から眠気を手繰り寄せつつ、レネの気配も待っていたが、五分、十分と経ってもそれは一向に戻ってはこなかった。だが眠りに入り始めていたテクラはそんなことには気付かず、心地いい睡魔に身をゆだねるだけだった。

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