九話

 自分の鼻先で止まっている白い手に、レネは口を開けたまま、恐怖と驚きの表情で固まっていた。その側にいるテクラも同じような表情でその光景を見つめていた。そこには、黒髪に上下とも黒い服装の若い男性の姿があった。どこか生意気そうな目付きの、一度も日に焼けたことがないような白い肌の顔はテクラと変わらない年齢に見えるが、吸血鬼なら遥かに年上なのは違いない。そんな吸血鬼は、自分の右手をつかむスタリーに視線をやると、不敵な笑みを浮かべて言った。


「初めまして、だね」


「これが初対面の相手にする行動か?」


「少し試させてもらっただけだよ。それにあなたを狙ったわけじゃないんだ。そんなに怒らないで」


 そんな吸血鬼に狙われたレネは、この状況をまだ理解できていないようだった。一連の動作を説明すれば、近付いてきた吸血鬼がレネの頭を鷲づかもうと右手を伸ばしたが、それをスタリーは寸前でつかみ、阻んだという出来事だったのだが、それらがあまりに一瞬すぎて、人間のレネの目には突然目の前に白い手が現れたようにしか見えず、気を動転させるばかりだった。


「……あ……ばっ、化け物……!」


 震える声で絞り出すように叫ぶと、レネはじりじりと後ずさり始めた。それをいちべつした吸血鬼は真顔でスタリーに聞いた。


「食料を連れた仲間は初めて見たよ。何で連れているの?」


 これにスタリーの表情がわずかにしかめられた。


「彼は食料じゃない。わけあって共にしているだけだ」


「人間なんかと? へえ……ところで、そろそろこの手を放してくれないかな」


 吸血鬼はスタリーが強くつかむ自分の手を顎でしゃくって示した。


「私達の誰も襲わないと約束するなら」


「だから悪かったよ。ただの食料だと思ったんだ。もう手は出さないよ」


 疑う目を向けつつも、スタリーはもう危険はないと判断したのか、つかんでいた手をゆっくりと放した。その時、吸血鬼に向かって何かが投げられ、自由になった右手がちょうどそれを受け止めた。


「何だこれ……にんにく?」


 手の中には、白く乾燥した皮が付いたままの小ぶりのにんにくがあった。色艶がよく、料理にも使えそうだ。すると今度は足下に束ねた葉のようなものが当たり、吸血鬼は怪訝な表情で正面を見やった。


「……人間、何をしているんだ?」


「にんにく、ハーブ……お前達はこういう匂いのきついものが嫌いなんだろ! 山ほどくれてやる!」


 レネは腰の革かばんに手を突っ込むと、入っているにんにくとハーブ類を無造作につかみ、吸血鬼へ投げ付け始めた。


「もだえ苦しめ! そしたら俺がこの剣で楽にしてやる!」


 吸血鬼対策として用意していたらしいレネは、白い目で見られていることにも気付かず投げ続ける。だがどう見てももだえ苦しむ気配はない。さすがにいたたまれなくなったテクラは小さな声で話しかけた。


「あの、効果もないですし、怒らせるようなことは、やめたほうが……」


「怒らせることをしないで吸血鬼が狩れるか。俺は狩人な――んがっ!」


 突然妙な声を上げると、レネは頭をのけぞらし、そしてすぐに額を押さえてかがみ込んでしまった。指の隙間から何かがぽとりと落ち、よく見ればそれは自分が投げ付けていたにんにくだった。


「おい、手は出さないと――」


「出していないよ。ただにんにくをお返ししただけだ。しかし、噂に聞いた狩人っていうのは、こんな出来損ないなものなのか?」


 痛みにうずくまるレネを見て、吸血鬼は嘲笑した。


「彼は正統な狩人とは言えない。無視してくれて構わない」


「こんな間抜けな人間、構う気も起こらないけど。……そんなことより、僕はあなたの素性を知りたいね」


 にやりと笑んだ吸血鬼の目が見つめた。それに落ち着いた表情でスタリーは口を開いた。


「私はスタリー・ブランディス。こちらで長く暮らしている者だ」


「ブランディス? どこかで聞いたことがあるような……ああ、そうだ。昔向こうの世界を出て、それから一度も戻っていない仲間がいると聞いたことがある。その名が確かブランディスだった。もしかして、本人?」


 これにスタリーが軽くうなずくと、吸血鬼は満面の笑みを見せた。


「うわあ、嬉しいな。僕はあなたが憧れでもあったんだ」


「私のどこに憧れる要素があるんだ」


「だって、吸血鬼でありながら、人間から人間の管理を頼まれているんだろう? そんな夢みたいなことはないよ。好きな時に好きなだけ血を吸えるんだから」


 スタリーとテクラは呆れるしかなかった。想像で話す人間だけでなく、吸血鬼の側にもこんな間違った認識を持つ者がいるらしい。人間に頼まれていると知っているのなら、好きなだけ血を吸うことなど無理だとわかりそうなものだが、吸血鬼社会でそんな話が流れていると思うと、スタリーは溜息を吐きたい気分だった。


「夢を壊して悪いが、私は領主を任せられている身であり、そこに住む領民と係わりはあっても、吸血で欲を満たすことはない」


「またまたあ。人間の前だからって嘘をついているんだろう?」


「何に憧れるかは勝手だが、それは現実にないことだけは断言しておく」


「……本当に、吸い放題じゃないの?」


 答えるのも億劫なスタリーは、まばたきでその答えを返した。それを見て吸血鬼は天を仰ぎ、肩を落とした。


「なあんだ、残念だな……じゃあ、あなたはこんな林の中で何をしているの? 僕はてっきり食料でも探しているのかと思ったんだけど」


「人捜しだ。下級吸血鬼を捜している。……どうやらその頭には、血を吸うことしかないようだな」


「当たり前だろう? こっちに来た最大の理由は、この喉を潤すためなんだから」


 吸血鬼は指先で喉をとんとんと叩き、にやりと笑った。


「それが、お前がここにいる目的か?」


「お前だなんて冷たい言い方だな。僕はイサーク・レレウェルっていうんだ。仲間なんだし、気さくに呼んでくれていいよ。スタリー」


 慣れ慣れしく呼ばれても表情を変えずにスタリーは聞いた。


「……それで、血を吸う目的の他は?」


「特にはないよ。ただあっちの世界を出たかっただけだ。知っているだろう? 僕達の社会は規律規律でがんじがらめだ。あんな窮屈な社会で皆よく暮らしていると思うよ。物心が付いた時から、僕はすでに嫌気が差していたんだ。礼儀を重んじろ。常に清潔な格好で。吸血は三ヶ月に一度、飼育された動物の血液のみ――馬鹿げていると思わないか? どんな格好でいようと、何の血を吸おうと、それは個人の勝手だ。人間の血が一番おいしいと知りながら、自ら禁じることに何の意味があるんだ」


 苛立ちを隠さないイサークは腕を組んで続ける。


「最初こそ人間の世界なんかに興味はなかったけど、でも、規律で窮屈な世界から抜け出せるならと、思い切って来たんだ。こっちなら誰の目もなく自由だし、人間の血も好きに飲めて――」


「お、おい、お前、さっきから聞いてれば、人間の血を吸うとか吸ったとか……傍若無人に振る舞う気なら、狩人の俺が許さな――」


 にんにくを当てられ、うずくまっていたレネが、聞き逃せないとばかりに剣に手を置き、立ち上がったが、イサークのわずらわしそうな目に睨まれると、すぐにその身を固まらせた。


「食料の人間に、なぜ許しを貰わなきゃいけない?」


 冷酷な視線と口調に、レネは何も言い返せず、じりと一歩下がった。不穏な空気をさえぎるようにスタリーは二人の視線の間に割って入った。


「無視をしろと言っただろう」


「子バエを払っただけだ。……それで、どこまで話したかな……あ、こっちの世界に来たはいいけど、人間の血を吸うのも意外に苦労があるんだね。一人さらって吸っただけで、周りの人間達は大騒ぎでさ」


「さらったって、どういうこ――ふごっ」


 レネが大声を上げようとした口を、テクラはすぐさま手で押さえた。しーっと言って黙らせ、どうにかイサークに睨まれることはなかった。


「やはり、お前の仕業だったか」


 スタリーは表情を曇らせ言った。


「あれ、知っていたんだ。誰にも気付かれていないつもりだったんだけど」


「人間の血を吸うのはやめたほうがいい。我々より非力だと思っていると、その内ひどい報復を受けることになる」


「スタリーもそんなことを言うんだね。実はこっちに来たばかりの頃に、あなたと同じように人間社会で暮らす仲間に出会ったんだけど、僕が人間の血を吸いたいと言うと、眉をしかめて、急に冷たくなったんだ。その後は元の暮らしに戻れとしか言ってくれなくなって……。こっちにいる仲間はなぜ皆そう言うのかな?」


「では、お前はなぜ仲間がこっちで暮らしているかを考えたことはあるか?」


「考えたことはないけど、人間の血を飲みたいからじゃないの?」


 予想通りの答えにスタリーはゆっくりと首を横に振った。


「我々は血が目的じゃない。人間の作った社会や、人間そのものに惹かれ、こっちで暮らしているんだ。まあ、中にはお前のような例外もいるだろうが、我々は個人的な思いや考えからここにいるわけで、欲を満たすためでは決してない。人間社会に溶け込み、安定した生活を手にするまでには大変な時間と努力がいる。そこに波風を立てるようなお前は、我々からすれば迷惑以外の何物でもない」


 厳しい言葉に、イサークは片眉を上げると聞いた。


「じゃあスタリーは、人間の血は吸っていないの?」


「領地を預かってからはない」


「へえ。それはすごいね。よく我慢できるものだ。でもそうすると、ちょっとおかしくないか? スタリーがこっちへ来て、少なくとも三百年は経っているはずだよね。その頃にしもべにしたにしては、随分と見た目が若い気がするけど? その元人間」


 言ってイサークは親指を立て、テクラを指し示した。


「元、人間……? え、あんた、まさかあんたも、吸血鬼なのか……!」


 イサークの言動で今さら気付いたレネは、すぐ隣に立つテクラから離れると、不審な目で睨み付けた。


「そ、そうですけど、でも、私は……」


 レネをなだめるか、イサークに事情を話すかで迷うテクラは思わず言葉を詰まらせる。だがそれを制するようにすぐスタリーが言った。


「確かに彼女は、私が最近吸血鬼に変えた領民だ。だがそれは血が目的ではなく、やむを得ずそうしたまでのことだ。それと、彼女は私のしもべではない。勘違いはするな」


 これにイサークは薄い笑みを浮かべながら言った。


「下級吸血鬼は昔から僕達のしもべになるのが当たり前だと思っていたけど、やっぱりあなたは他とは違う感覚の持ち主なんだね。でもまあ、血を吸ったことには違いないんだ。嘘をついちゃ駄目だよ。本当は陰でもっと吸っているんだろう?」


「そんなことしてません。スタリー様は私を助けるために血を吸っただけで、人間を殺したりなんかしてません」


 感情を込めて言ったテクラを、イサークはまじまじと見つめた。


「な、何ですか」


「随分と従順で懐いた人間だね。しもべとしては優秀そうだ」


「だから彼女はしもべではない。私の大事な領民だ」


「はいはい、わかっているよ」


 イサークはスタリーに向き直ると、笑みを浮かべて言った。


「ところでスタリーは、下級吸血鬼を捜しているって言っていたよね。そいつもあなたが血を吸ったの?」


 わずかに表情を曇らせてスタリーは答えた。


「……そうだ」


「やっぱり……」


 そう呟いたレネは険しい視線をスタリーに注いだ。


「ち、違うんです。その吸血鬼は私の兄なんですけど、スタリー様は兄のことも助けるために――」


「下級は黙っていてもらえるかな」


 ちらと見られたテクラは、うっと呼吸を止め、口を閉じた。


「別にあなたが言葉とは逆の行動を取っていると責めたいんじゃないんだ。実は先日、この元人間とよく似た気配を感じてね」


「え、本当ですか!」


 目を見開いて聞くテクラに対して、スタリーは冷静な表情と視線を向けて聞いた。


「信じていい話なのか」


「やだなあ、僕はあなたみたいに嘘なんてつかないよ。ぜひ信じてもらいたいね」


 にやりと笑った白い顔は何かをたくらんでいるようにも見えたが、テオドールの行方を知るためにスタリーは先を促した。


「……どこで気配を感じたんだ」


「それは、ただでは教えられないね」


 イサークの笑った目に見つめられ、スタリーはやれやれと息を吐いた。


「そういうことか……何が望みだ」


「話が早くて助かるよ。最初はそんな気なかったんだけど、見ていたら欲しくなってきて」


「欲しい? 何をだ」


 するとイサークはテクラに目を向けて言った。


「その下級吸血鬼を、僕にくれないか」


 予想もしない頼みに、声にならない声を上げて驚いたテクラは、スタリーの顔をうかがった。同じように驚いているものと思ったが、その顔はひどく不快感に満ちて、イサークを睨み付けていた。スタリーがこれほど感情をあらわにするのは、テクラの前では初めてのことだった。


「言ったように、彼女は私の領民であって、物ではない」


 表情こそ気持ちを表していたが、口調は静かに、淡々と拒否をした。


「わかっているよ。しもべでもないんだろう? 少し言い方が悪かったかな。僕はただこっちでの助けがほしいと思ってさ。人間社会を詳しく知るにも、こっちにいる仲間は冷たいから、元人間が側にいてくれれば心強いと思ったんだ。そうだろう?」


「お前は、こっちで生活するつもりなのか?」


「それはまだわからないけど、向こうへ帰る気は今のところないね」


 帰る気がないということは、つまりこれからも人間の血を吸うということなのだろう。人間を食料としか見られないイサークに領民であるテクラを預けるなどできるわけもなく、もしそんなことをすれば、テクラは間違いなくしもべの扱いを受け、人間を襲うための協力を強いられることだろう。しかしスタリーはこんな頼みを聞かされた時点で、すでに表情で答えを出している。それはイサークも察しているようだった。


「人間についてはまだ勉強不足なんだ。どんなやつが優秀で真面目にやってくれそうなのか、自分の見る目に自信がなくて。でもスタリーは僕がしもべを作ろうとすれば止めるんだろう?」


「そうなるだろうな」


 険しい目に睨まれ、イサークは肩をすくめた。


「ほらね。作れないんじゃ、貰うしかない。今の僕には人間社会を知る人物が必要なんだ。下級吸血鬼が二人もいるなら、一人くらいくれても構わないだろう?」


「これは数の問題じゃないし、物の貸し借りでもない。勉強不足だと言うなら、自力で学ぶことだ」


 突き放すスタリーに、イサークはふんっと鼻を鳴らし、不敵な笑みを浮かべた。


「難しい話じゃないと思ったんだけどな。聞いてくれないなら気配の行き先は教えられないし、僕は欲しいしもべを勝手に作るけど……いい?」


 これにスタリーはじろりと見やった。


「答えがわかっていることを、いちいち聞くな」


「じゃあ好きにやらせてもらう。仲間は誰も助けてくれそうにないから。……捜すの、頑張ってね」


 横目で笑いながらイサークはその場を去ろうと歩き始めた。


「待て」


 スタリーは静かに呼び止めた。それにイサークはゆっくりと振り向く。


「……何? 僕にはもう用はないんだけど」


 薄ら笑いを見せるイサークを見据え、スタリーは詰め寄った。


「自分の行動の結果を考えろ。血を求め続ければ一時的な反感では済まなくなる」


「吸血鬼はいつから人間の顔色をうかがうようになったの? 所詮食料なんだ。歯向かってくるやつは片っ端から平らげてやればいい」


「人間との争いは規律に反すると知っているだろう」


「ここは僕達の世界じゃない。規律の適用範囲外だ」


「仲間が長年守っているものを、お前は破って乱すつもりか」


「乱すなんて大げさだな。ちょっとつまみ食いしたっていいだろう? そのくらいじゃ何も変わらないよ」


 二人の言い合いは平行線で、どちらも意思を曲げる気はなく、このまま日が暮れても続きそうな勢いだった。そんな光景を前に、テクラはおろおろとするばかりだった。情報が欲しければ下級吸血鬼をくれと言うイサークに、それを徹底して断り、説得をするスタリー。妥協点の見えない会話には終わりも見えず、ただ時間だけが過ぎようとする。らちが明かない様子に、自分がどうにかしなければと感じたテクラは、意を決すると声を張り上げて言った。


「この人の元へ私、行きます」


 突然の声に、二人の言い合いはぴたりと止まり、そして視線がテクラへ向けられた。


「……テクラ、何を言っている?」


 怪訝な顔でスタリーは聞いた。


「私が行って兄の行方がわかるなら、それでもいいと――」


「本人が了承しているんだ。これで文句はないよね?」


 笑顔のイサークをスタリーはぎろりと睨んだ。


「お前は黙っていろ。……テクラ、言うことなど聞かなくていい」


「でも、兄を早く見つけないと、犠牲者が出てしまいます」


「……だとさ。僕が貰っても構わないよね」


 勝ち誇ったような顔で聞かれたスタリーは、しばらくテクラを見つめ考えていたが、ふと視線をイサークに戻すと、渋った口調で言った。


「わかった……仕方がない」

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