第26話 変貌は恐怖の味
「おはようございます。目を覚ましましたか、エドワールさん」
川のような、清らかで淀みのない女性の声が、エドワールの意識を表層へ引きずり上げた。
目を開くと、エドワールは、布団の上で寝かされていた。
体は……依然として言うことを聞いてくれない。
だが、あの息苦しさからは、開放されたらしかった。おかげで、喉がよく通っている。
眼球を横に向ける。
ドレス姿で正座をした村長ガーネットが、こちらをじっと見つめていた。
い草の爽やかな匂い。ここは、宴を楽しんだ、例の畳の間だ。
どうやら、気を失った後、村長の家に運ばれたらしい。
「クレナは? クレナは大丈夫なのか?」
「彼女は今、横の部屋で寝ています。村の者がつきっきりで看病しているので、心配はいりません」
「よかった」
「急に激しく動いて、疲労が溜まったのでしょう。すこし休めば、良くなるはずです」
そう言うと、村長ガーネットは、襖をぴしゃりと閉め、畳の間を後にした。
しばらくすると、小さなお椀のようなものを持って、エドワールのもとへ戻ってきた。
「これを飲んでください。治りが早くなるはずです」
エドワールの口元に、お椀が差し出される。そこに入っていたものは……。
「血、ですか」
テラテラと赤く光る水面。鉄のようなツンとする刺激臭。
間違いなく、本物の血液だった。
「ええ。スッポンの性器から採取した血です。栄養満点、滋養強壮っ。さ、遠慮なさらず、飲んで飲んで」
「スッポンの性器……」
ガーネットの勢いに気圧され、エドワールは、眼前に差し出されたお椀の血を、そっと啜った。
「……ん……ん」
スッポンの血は、思わず変な声が漏れてしまうほど、どぎつい味がした。
すると、横に座るガーネットが、突然、布団で横になるエドワールの上に、馬乗りになった。
なんだ。目の前の美女は一体、なにをたくらんでいるというのだ。
期待と困惑によって、エドワールの息遣いが、徐々に荒くなってゆく。
……笑っている。ああ、ガーネットは、顔中を皺にして、世にも恐ろしいニタニタ笑いを浮かべているではないか。
嫉妬、憎悪、怒り、欺瞞……、人間によって星の数ほど産み出される負の感情が、ガーネットのニタニタ笑いには縫い合わされていた。
「飲んだね。今、たしかに血を飲んだね」
地獄の底から響くかのような重低音が、エドワールの鼓膜を否応なく震わせる。
「フフ。これで、あたしとあんたは、正式に契約が結ばれた。あんたは、あたしの思うがまま。身も心もボロボロに朽ち果てるまで酷使される、操り人形よ。フフフ」
ああ、豹変、豹変ッ!
今や、村長ガーネットには、気品の高さや可憐さなどは、微塵も残されていなかった。
あるのは、蠱惑的な妖艶さと、底知れぬ恐ろしさ。
妖怪。もはや、そう形容するのが適切なのではないかと思わせるほどに、村長ガーネットは、一瞬のうちに様変わりしてしまった。
なにを言っている? 世にも美しい、ピセナ農村の村長ガーネットは、先から一体なにを言っているのだ?
多重人格?
……いや、解離性同一性障害者の人格交代には、程度の差はあれ、多少の時間を要するものである。
見ていた限り、ガーネットに人格交代らしき素振りはなかったように思える。
では、この急激な人格の豹変ぶりは、一体……。
「まったく身動きがとれないでしょう。畑の作物から採れた神経毒を、宴の酒に混ぜておいたの。ガバガバ飲むものだから、致死量を超えないか、そばで見ていて冷や冷やしたわ」
冗談だと言ってくれ。
まさか自分は、美貌の裏に隠された、恐ろしい本性を見抜けず、目の前の女に、一杯毒を食わされたのか……。
「ねえ、どうしてこの村には、若い女、それも、とびきりの美女しかいないと思う? おかしいと思わない? 男が一人でもいなければ、この村はたった一代で滅んでしまう。そうでしょ?」
ガーネットは、例のニタニタ笑いを浮かべながら、赤子を弄ぶかのような調子で、エドワールに向かって語り掛けるのだ。
「し……知らない」
指の先一本も動かせないエドワールは、そう弱々しく答えるので、精一杯だった。
「フフフ。強いあなたに、特別に教えてあげる。村の女は全員、あたしが作り出したの」
「……」
「あたしの分身、といった方が分かりやすいかもね。あ、もちろん一人づつ顔のパーツや位置は、絶妙に変えてあるわ。でなけりゃ気色が悪いでしょう? 同じ顔面の人間が、ゾロゾロ村中を歩き回るなんて。想像するだけで鳥肌が立つわ」
どこからともなく、肉の腐ったような匂いが漂ってきた。
ガーネットの吐息。青紫色に染まったガーネットの吐息が、遠慮なくエドワールの顔に吹きかけられる。
鼻の曲がるような腐臭。馬小屋で嗅いだものと同じ。
馬小屋の匂いの正体は、カッパたちではなく、ガーネットの残り香だったのだ。
……ああ、信じられない。いや、信じたくないのかもしれない。
「さっき飲んだ血、あれはねえ、スッポンの血なんかではない。あたしの手首を切って、絞り出したものなの。飲んだ者は、一生あたしの指示に従い、行動しなければならない。違反した者は、どうなるか。フフフ、知りたい?」
自分の分身を作り出す。ああ、そんなこと、人間ができるはずないじゃないか。
村長ガーネットは、人間ではなかった。であるとすれば、答えは一つ。
信じたくはないが、残る真実は、これ以外にあり得ないのだ。
エドワールは、ただならぬ美貌と妖気を放つガーネットを凝視した。
モンスター名:妖魔
種族:?
レベル:90
体力:920
攻撃力:470
防御力:470
素早さ:470
【特殊スキル】
〈血の契約〉
効果
術者の血を飲んだ者に、呪いを与える。呪われた者は、術者の指示に必ず従わなければならない。違反した場合、任意の罰を与えることができる。
〈分身生成〉
効果
自分と同じ身長・年齢・性別・体型のモンスターを作り出すことができる。作り出されたモンスターのレベルは30とし、既に術者と〈血の契約〉を結んだものと見なす。何体でも生成することが可能である。
ああ、目を疑うほどのステータスが、エドワールの脳裏に浮かび上がった。
『任意の罰』と言う文字が、視界の裏で踊り狂った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます