安息の地

登崎萩子

冷血

 石で造られた館は一年中冷たい。空気は重く沈み、光は届かない。その中で生きる人間は息を潜めて暮らす。


 姉弟の影は館と同化していた。外界に通じる扉の前には、数え切れないほどの蛇がいた。

 館の主は、姉弟の別れに立ち会うつもりはないようだった。

 扉が触れもしないのに開く。姉弟は驚くことなく外へ出た。

 空は季節が分からないほど、暗かった。灰色の雲の隙間からは、轟音と共に雷が落ちた。

「よかった。これからは二人で力を合わせて暮らすのよ」

 姉はいつものように優しく微笑む。弟の表情はとても結婚する若者のものではなかった。死地に赴く戦士のように険しい。

 服装は粗末なようで、動きやすいシャツとズボンだった。腰には、姉が知らない間に手に入れた剣が下がっている。

「本当に良かったと思うのか。姉さんも一緒にここを出よう」

 いら立ちと、怒りのこもった口調に、姉は背すじを震わせた。

「もう少し考えて、どうするか決めたいの」

「どうするかだって!逃げた方がいいに決まっている。こんなところにいたら、殺される」

 小さな声は姉を刺すように鋭い。言い終えると、弟は口を閉じた。

「姉と別れるのは本当につらいんです」

 弟は今までとは打って変わっておだやかな顔つきになる。

 

 空気がより一層凍えた。それは人間が恐れを抱くせいか、それとも主の存在自体によるものかは分からなかった。

 知らぬ間に、黒い服を着た主が立っていた。コートからシャツ、カフスボタンにいたるまで黒い。

 姉は目を伏せたまま、黙って生成りのドレスを握りしめた。

 館の主は無言のままだ。

「もう行かないと。姉さん、僕がいつか迎えに来るよ」

 弟は姉の手をとって言う。

「私のことはいいのよ」

 姉は苦笑する。弟は一人で外の世界へと足を踏み出した。

 館の主は悪魔だった。月の出ない闇夜よりも黒い肌に、血のように赤い模様が浮かび上がっている。それでも隣に立つ姉は表情を変えない。




 その夜、姉と弟は悪魔から逃げていた。

 世界は人間のものではなくなり、悪魔に支配されていた。神は存在せず、人間は悪魔の食糧か玩具でしかなった。

 夜目の利かない人間が、悪魔から逃げることは不可能に近い。走って逃げようとしてもすぐ転んでしまう。姉は痛みなど感じず、冷汗が背中を滑る。

 道など分かるはずもない。ただ森の中を走って来た。

 街どころか村もない。どこへ逃げようと同じ事だった。


 姉は必死に口を押えて悲鳴を押しとどめる。父も母も悪魔に喰われた。

姉弟で暮らしていたが、ついに奴らに見つかった。見つかってしまった。そんなことは分かっていた。それでも、大声を出したくはない。

 弟は手探りで武器になりそうなものを探す。身一つで逃げるしかできない人間は無力だった。


 闇夜の中、生臭い風と獣のような唸り声だけが森に響いた。

 急に温かい雨が降り出す。同時に鉄と腐った肉の臭いが全身を包んだ。体を濡らした液体がゆっくりと流れ落ちていく。

 何が起きたか分からないまま闇を見つめる。月のない闇の中から、ほの暗い光が近づいてきた。

 姉は見知らぬ老人の言葉を思い出す。

 人間よりも大きな狼のような悪魔がいる。そいつは、他の悪魔を食べる。共喰いだ。そいつに見つかれば死ぬよりもつらい目に合う。と。

 血の雨になった悪魔は四足に違いなかった。姉弟を追いかけては、時折止まって様子がうかがう。また逃げると追いかけてくる。大げさな足音を立てて、人間が恐怖に怯える様を楽しんでいた。

 姉はその四足を殺す悪魔など想像もつかなかった。

 

 少しずつ近づいてきたそれは、人間だった。いや、人間に見えた。形だけは。

黒い宝石のように、光るものが肌に張り付く。無数の鱗は、遠目にも一つ一つがはっきりと見えた。滑らかな鱗が輝く。

 漆黒の短髪が、今は失われた人間の貴族のように乱れ一つなく撫でつけられている。


 まだらに浮かぶ色に、姉は夕焼けを思い出した。

 久しく見ることのなかったもの。夕暮れ時は悪魔の目覚める時だった。空を見上げ、夕焼けを眺めている暇などなかった。

 記憶に残るのはたった一度だけだ。姉は鮮やかな空の色に魅入られた。美しい赤い空。

 死の恐怖から、悪魔に魅入られる者は多かった。自分は美しいものに救われる。この恐怖から解放されるのだと思い込む。そして死ぬ。

 音もなく近づいてくる。ますます明るくなる。


 悪魔の瞳は人間のような白目がなく、ただ石をはめ込んだように黒かった。炎に飛び込む蝶のように、姉は悪魔から目を離さない。

 弟が手に持った石を投げつけた。姉を悪魔に渡したくない一心だった。

 姉の叫び声が上がる。弟は声変わりもしていない、この世でたった一人の肉親だ。姉の体は本人の意思よりも早く弟をかばう。悪魔に背を向けた。

 たとえ、そんなことをしても弱い人間には弟を守ることはできないはずだった。

 永遠と思えるほど時がたっても何も起こらない。

 弟なのか姉なのか分からないが、体が震えていた。二人には互いの呼吸しか聞こえない。どんなに時間がたっても、悪魔はそれ以上近づいてこなかった。


 姉の頭の中で老人の声が響いた。

 優しいふりをして人間を騙し、裏切られた様を見て楽しむやつがいる。

 姉はようやく悪魔が騙そうとしているのだと思った。

 弟は、また戦おうとするのか体を動かす。必死に弟の身体を押さえた。

 その悪魔の姿かたちは何度見ても人間に見える。よく見ると黒い服を着ていて、襲ってきたりもしない。ぼんやりと赤く光って見えることで悪魔だと分かるくらいだった。

 姉は恐ろしさに心臓を掴まれていた。この悪魔は他とは何もかもが違っていた。


 悪魔は息もせず、ただそこにあった。

「何をしようと構わないが、殺すのは惜しい」

 悪魔の言葉はまたも、姉の背すじを震わせた。その声は夜の木々の出す音に近く、掠れ低い。

 胸のうちで姉は繰り返す。殺すのは惜しい。

 話しかけているのか独り言なのか、姉には分からなかった。何よりも理解できなかったのは、恐ろしいはずなのに震えが止まったことだ。

 姉弟はただの布のような服を着ていた。髪も伸ばし放題で、どちらが人間らしいか分からない。

 忽然と移動した悪魔が姉の髪を器用に掴む。指は枯れ枝のように細く、爪は鋭く長い。なぜ人間を痛めつけないのか不思議に思う。



 姉弟が瞬きをすると木々が消えていた。

 姉は驚く間もなかった。足元に蛇がうごめいていた。悲鳴すら凍りつき何も音が出ない。

 

 悪魔は消えてしまった。薄暗い空間で、どのくらいの広さがあるのかもわからなかった。

「姉さん逃げよう」

 弟の絞り出した言葉と、ぎらつく目は姉を不安にさせた。弟はまだ幼い子供のはずだった。

「ここがどこかも分からないのよ」

 悪魔に「巣」があるとは聞いたことがない。

 他に動く気配がして姉が周囲を見渡す。

「あなた達も連れてこられたのね」

 見れば母親らしき大人の女と、幼い子供が暗がりの隅に座っていた。

 姉弟は疑っていたのでどちらも返事をしない。さっきの悪魔のように姿が人間に近くても信用できなかった。

 月は雲に隠れ、闇は深い。ろうそくには青白い炎が灯っていた。姉弟の目が暗さになれると、そこが「家」のようだと気づく。

 悪魔から逃げる際に目にした家は、どれも人間が数人入れる程度の大きさだった。

 ここは弟が走り回れるくらいに広く、天上もあり空は見えなかった。そして、姉弟を一番驚かせたのはこの館が石で造られていることだった。


 しばらくたつと、床の上に服や肉が突然沸いてきた。人間の住む場所に似せていても、この館の主は悪魔だった。

 館には十数人ほどの人間がいるようだった。

「さあ服を着替えなさい」

 初めに声をかけてきた女が言った。

 大量の蛇がいる館で暮らし続けるのは、楽ではなかった。彼らに合わせているのか常に冷たく湿った空気が漂っていた。

 姉は弟を守ることで必死だった。弟が今の生活を快く思っていないのは確かだ。万が一、歯向かえば殺されてしまう。


 姉は思う。ここにいれば外よりはましだ。館には食べ物もあり、他の悪魔は襲ってこないのだから。

 姉は弟が「主」を害そうなどとしないように見張っていた。

「どうして姉さんは悪魔の手先になろうとするんだ」

「味方なんてしてないわ。ただもう少し様子を見ていいと思うのよ」

 考えながら、姉は言葉を紡ぐ。弟からすれば、大事な両親を奪った悪魔のそばにいるのは耐えがたいのだろう。

「外へ出た後どこへ逃げればいいのか計画を練るのよ」

「あいつを殺してここに住めばいい」

 弟がそう言うものの、主は不在がちで姿を見せることは少なかった。

外の様子が分からないまま時が過ぎるが、食糧などは一定の間隔で現れるようだった。


 いつしか他の住人と同じような時間に寝起きするようになる。弟はよく眠っていた。寝顔は年相応のものだった。まだ幼い子供にしか見えない。

 何故か住人同士で話すことは少なかった。姉は悪魔に禁じられているのかと考えた。だがそれは違うようだった。

「あんた、名前は何て言うんだ」

 一人の男が、姉に声をかけてきた。弟はいぶかしげに眉をひそめた。

「俺達があの化け物を殺してやる。そしたら俺の女になれ」

 弟を守る代わりに姉を望むのはよくあることだった。

「本当に?」

 弟の疑う言い方に、男の顔色が変わる。

「必ず成功する」

 男達は時折何か目配せしていた。近いうちに何かがあるのは一目で分かった。


 主は、気まぐれに人間の前に姿を現した。

数人の男が、一斉に悪魔に飛びかかった。最後に姉に声をかけた男が、どこからか銀のナイフを取り出して主の首を狙う。が、主は手で防いでしまった。

「悪くなかった」

 掠れた声は、以前と同じく感情が読み取れない。

 血が雨のように降る。魔術なのか、人間の目に映らないほどの早業か。どちらかは分からない。男達の首と胴が切り離された。

 姉の身体は勝手に震えだし、胃の中身を吐き出した。

 弟が姉の手をとり、扉へ急ぐ。他の住人も同じく走った。


 先に外へ出た痩せた女が悲鳴を上げた。外には悪魔が何かに群がっていた。他の悪魔はよだれを垂らす。

 ほとんどが一見すると動物のような見た目だった。ただし、人間や動物の何倍も大きい。館を取り囲み、人間が出てくるのを待ち構えていた。

 館の中の子供らは冷たい床に転がった生首をただ眺めていた。

 骨を砕く音だけが響く。館の中に飛び散った痕跡は、全て蛇たちが舐めとってしまう。

「馬鹿なことは考えるもんじゃない」

 女が吐息のような声で言う。

「死んじまった。だから巻き込まれないように、他人とは話したくないんだ」

 突き放すような言い方に、背の低い子供が母親を見上げた。

「子どもを守る方が大事よ」

 姉は心からそう言った。

親子は自分たちがいつも寝ている場所へと戻っていった。


 

 姉は、父と母がいなくなってからいつも弟を守ることだけを考えていた。

食糧を手に入れ、その日眠る場所を探す生活。同じ人間であったとしても、幼い子供と少女を騙そうとするものは多い。

 今は弟をなだめるのに疲れていた。一人になりたかった。また弟が眠りにつく。

 姉は館をさまよった。もちろんこの館で、一人歩く姉を追いかける人間はいなかった。

 下りの階段を見つける。姉は迷わず足を進めた。住人がない地下へ向かう。暗く、蛇も多くなっていく。

 行き止まりには扉があった。いかにも重そうだ。きっと何か恐ろしいものがいるに違いない。


 急に姉は思った。あの方がいるかもしれない。

 姿を見せない主。扉に両手をかけると音も立てずに内側へと開く。

 さらに暗いので、全く見えない。しばらく目を慣らす。

 ぼんやりと赤く光るものが部屋の中に見えた。湿った石の床と、生暖かい空気が流れてくるが不快には思わなかった。

 静かに歩いて行くと布を踏んだ気がしてしゃがみ込む。

 カサカサと手に触れる。鱗のようなものがある。もしかして。

耳元に風が当たる。


「寝起きは腹が空く」


 冷たい水が首を伝う。それは流れていかずに生暖かく首を濡らす。ゴロゴロと鳴る音はすぐ隣から聞こえる。

 姉は身じろぎも悲鳴も忘れ固まるしかなかった。主が脱皮するんだと気付いたがもう遅い。せめて苦しまずに食べられることを祈る。


 しかしその時は来ない。

 主はいつもの姿になって、姉の前に現れた。表情というものは全くなかった。

「なぜ弟を助けた」

 主は姉へと声をかけた。

 姉はなぜと聞かれても答えられなかった。

「なぜ泣かない」

 なぜ。姉はこの館に来てから悲しいことは何一つなかった。

「お前はなぜ子を生さぬ」

 主が尋ねるのは当然だった。人間は悪魔がいても滅びることはなかった。それは人間が次々に子を産むからだ。

 姉は何も言わなかった。

 主が姿を消すと、姉は地下室を後にした。



 他の悪魔は人間を殺すことを楽しんでいた。

 父は目をえぐられた。

 母は皮をはがされた。

 悪魔は姉弟の悲鳴を聞いて確かに笑っていた。

 主が姉を生かしておいた理由はよく分からなかった。

 姉は主が脱皮をするために部屋をこもっていることを誰一人話さなかった。それを言っても主を殺すことはできないと思いつつも。


 主が姿を現し、また消えた。蛇が増えると一人で地下の扉へ向かっていった。

人間はきっと入れない。そう思った姉は扉の前に座り込み歌を歌った。

 母が生きていた頃か。誰か館にいた女が歌ったのか。姉も覚えていない。静かに歌い続けた。


 薄暗い地下では、人間の目は役に立たない。

 それでも姉は主が快適に過ごせるように掃除をしていた。時おり聞こえるうめき声と皮が立てる音を聞きながらも、通い続ける。

 主が自分に何か返してくれるとは全く考えもしなかった。主は人間のことを観察するが同じように振る舞うことはない。

「悪魔はどうやって仲間を増やすのですか」

 独り言のはずだった。

「人間とは違う方法だ」

 主はそれ以上答えない。

「なぜ恐ろしいと思いながら悪魔のそばにいる」

 思考を読まれても、気味が悪いとは思わなかった。

「人間はさっきまで親しくしていても、裏切ります」

「悪魔も同じだ」

 誰一人として主が食事を摂る姿を見たことがなかった。

「何か召し上がらなくてよろしいんですが」

 姉の口調はいつも丁寧だった。それは主だけでなく弟や住人に対しても同じだった。

 主が無言のままでも姉は気にかけない。

 それは主が住人に対して何も危害を加えないから。


 人間に似せた姿の悪魔が目の前に立つ。よく見ると、手には青い傷がついていた。あの男がつけたものに違いなかった。

 姉が尋ねる。

「治らないのですか」

「人間とは違う」

 姉は主の手をとり口づける。

 むごたらしい死を迎えれば、弟は一人になってしまうのに。


 石のように冷たい。手は姉の知る何よりも硬い。口から命を奪うように熱を吸い取っていく。どんなに時がたっても主の手は冷たいままだった。

 口づけることに何の意味もなかった。

 悪魔は人間をただ見降ろしていた。

 姉はそれからも同じように自分の役目に徹した。主が新しく人を連れて来れば生活の中で困ることがないように手を尽くす。


 一日、一月、一年。いくらたっても主は住人を殺さなかった。ただ生活する様子を眺めていた。

 館には子供もやって来た。弟と同じように成長した。

 弟は年を重ねるほどに悪魔を敵視するようになった。そして主の前では優しい顔を見せ、忘れないように繰り返し呪いの言葉を吐いた。

「姉さん。あいつは何も食べないんじゃない。俺たちに隠れて人間を食べるんだ」

 その目は険しく恐ろしい。青年となった弟は、いつしか僕ではなく俺と言うようになった。姉に対しても命令するかのような口調で話した。

 姉は弟のそばにいるというのに不安げに身を固めている。

「大丈夫。俺がいれば姉さんも安心できるさ」

 弟は食事の時には主に対して丁寧とさえ言える態度をとっていた。



 弟は誰にも告げずに外へ出るようになっていた。もちろん主はそれを咎めようとはしなかった。人間のすることを眺めはしても、何か指示をする事は無かった。

 そして弟は館を出た。外の女の元へ行くと言って。



 姉は弟が館から出ても、以前と同じように暮らしていた。

 家族のことを恋しがって泣くということも見られなかった。それどころか主のところへ向かうようになっていた。

 何を話すわけでもないのに、主の後をついて回る。

時々館にいる子供たちのために、掃除をして歌を歌う。

 穏やかに笑うこともあり、ここが悪魔の館とは思えないほどだった。

「あんたは、今すぐここを出た方がいいんじゃないかい」

「なぜですか」

 本当に疑問に思っているのだろう小首をかしげ、目を丸くして尋ねてくる。

「それは人間と一緒に暮らす方がいいに決まってるからだよ」

「今も暮らしています。私は十分幸せです」

 いつかの母親は激しく首を振って否定する。

「あれが本当に私らに危害を加えないと思っているのかい。人間と化け物は違うんだよ」

 すっかり美しくなった姉が眉を下げる姿に、女は諦めたようにため息をつく。

「最後まで悪魔なんて信じちゃいけないよ」

 小声で言うと去ってしまう。その後ろ姿を見送ると地下室へと向かっていった。


「あの子がいなくなって、自分の名前を忘れそう」

 姉の声は若く美しい。が、その言い方は疲れきった老人のように力がない。

「いつまでも覚えていられるのかしら」

 人間はいつしか入れ替わる。主を怖がらない姉を、気味が悪いと思うものも多かった。黙って主のそばにいる姉に声をかける者はいない。

「私の名前はイーリスよ」

 蛇たちが返事をすることはなかった。



 姉は弟にも主の脱皮の事は決して話さなかった。弟が幼い頃、姉に尋ねた。

「姉さんはいなくなる時があるけど、いつもどこにいるの」

「掃除を。私は外へ出たりしないもの」

「そう」

と言ったきり弟は口をつぐんだ。

「お前たち、あの方を守ってちょうだい」

 優しく蛇を撫でながら、家族のように語りかけた。



 何度目か分からない冬が訪れた。雪が降る日が増える。姉は数少ない窓から雪を眺めた。館の中には青白い炎が増えていた。

 人間にとっては寒いことに変わりはないが、館の中に雪が降ることはない。

扉をたたく者が現れた。今までになかった。姉は扉の前に立ちすくむ。

「姉さん、迎えに来たよ」

 何故か扉は開いた。

 弟が立っていた。瞳が妖しく光る。手を後ろに隠して、館の中に目を走らせる。

「あの悪魔はどこにいるんだ」

 姉は悟った。弟が主を殺すために来た。ついにこの日が来てしまった。

「いつも居場所を知ってるわけじゃないの」

 なんとか平静を装ってみたものの、姉の手は震えて胸が苦しくなる。

「俺は助けに来た。一緒に逃げよう」

 弟の後ろには見たことのない男達がいる。

 

 どこへ逃げるというのか。外へ出れば悪魔だけでなく、人間すら信用できない。騙される方が悪い。弱い人間は生きていけない。そんな世界入っていくことが逃げることになるのか。


 弟はついてこない姉の腕をつかもうとする。

「嫌。私はどこへも行かない」

 姉は身を翻して館の中へ逃げていく。

「探し出して殺せ」

 男たちの怒号が聞こえ、姉はどうにかして主に危機を知らせようと走る。

(でもあの方のところへ向かえば見つかってしまう)

 館の中の蛇たちが蠢く中、ただ走った。誰一人姉を追う者はいなかった。

「目を覚ましてください」

 姉は祈るように囁く。地下へ通じる扉へ引き返す。姉は男たちを追いかけた。

「早く出て来い」

 扉を破ると、灯りを持った男たちが入り口を固める。真っ暗な地下に人間の灯りは役に立たなかった。

「やはりここにいるんだろう」

 姉は蛇達と共に地下に辿り着く。

 無数の蛇が男たちを襲う。

 戻って来た姉を見て、弟が息を呑む。

「この裏切り者め。そこで見ていろ」

「止めて」

 弟が銀の剣を構える。言い伝えでは悪魔は銀に弱いという。人間もただ悪魔から逃げるだけではなかった。


 そして剣を振り上げた。

 姉は弟を守った時と同じように、身を投げ出した。

 大きく手を広げて主を背に庇った。

 銀の剣は深々と刺さる。姉は崩れ落ちた。

 蛇が動き回る中で、ひときわ大きな鱗が見える。


 黒い大蛇だった。黒い霧が辺りを包み込む。

「姉さんを返せ」

 弟の悲鳴が石の館に響いた。

「お前を殺せるならどんなに楽だろう」

 初めて主は人間の心を凍らせる恐ろしい声を出した。

 闇より濃い霧が姉を覆い、姿を隠した。主は姉を館の外へ連れ出した。


 雪が鳥の羽のように舞っていた。柔らかく降り積もる。音は聞こえなかった。雪には真っ赤な血が染みを作った。


 どうしてこんなに寒いのかしら。

 体中から力が抜けていく。こわい。だれか。

 違う。あの人はどこ。わたしの。どこにもいかないで。

「私はここにいる」

 そう。氷のように冷たい腕。うれしい。あなたが無事で。

「目を覚ませ」

 もうしわけありません

「私を置いていくな」

 いつもおそばに

「今助ける」

 わたしをあなたのものにして

「私と暮らそう」

 ひとつになりたい

「イーリス」

 唇で氷が解けた気がした。


そして二人は跡形もなく消えた。

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安息の地 登崎萩子 @hagino2791

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