第3話 花と散る
「さむっ」
アラヤの言葉が冬の寒さに空虚に消えた。
一人帰る道は寒い時期になるとどうしようもなく寂しくなる。いつも帰っている道であっても一味変わって見せるのだ。
いつも一緒に下校するハルトは先に帰宅した。無情にもアラヤの手伝いをすることなく帰った。それを冗談に恨めしく心の中で思ってみる。
「明日は絶対にセーターだそ」
孤独を孕んだ寒さにそう決心するアラヤだった。
いつもならこの時間に帰ることはない。普段ならもっと早いか、バイトでもっと遅いかだ。何気に高校に入ってから初めてこの時間に帰っているな、とアラヤは思った。
今日はいつもと違う1日だった。そう感じずにはいられなかった。
始まりはあの夢。何故見たのか今でも分かり兼ねるが、多分もうすぐあの事件から10年が経とうとしているからである、とアラヤは勝手に結論付けた。
そして少しずついつもの日常からズレたのである。
まるで、ボタンがかけ違うように。
アラヤが歩く。
足を前に踏み出して進む。寒空の下を。
片方の足を置き去りにまた1歩踏み出そうとしたその瞬間だった。
ドゴォ!と、けたたましい音がして、アラヤの目の前、右側民家が吹き飛んだ。
「は?」
アラヤが目を見開く。
砕けたコンクリートが散弾のように辺りに危険をばらまいた。同時に砂埃が雪のように舞う。決して幻想的な光景ではない。破壊された家の住人はどうなったのか、確認する術はない。そもそも、目の前の光景をみて、それを確認しようと言う意識さえ、アラヤには起こらなかった。
砂埃の奥から何かが歩いてくるのが見えた。
アラヤは戦慄する。
この光景は見たことがあった。
突如現れる危機。捕食と破壊のみを本能で行動し、災害を撒き散らす恐怖の権化。
アラヤのトラウマを植え付けた根本であり、日常を奪い去った原因。
『獣災』である。
辺りに恐怖を助長するようにサイレン音が鳴り響く。
『血獣が発生しました。付近の住民は直ちに避難し、シェルターに入ってください。この区画は五分後に隔離措置が敷かれます』
サイレン音と共に辺りにアナウンスがされる。
それが明確に今の状況が獣災であることを脳に焼き付ける。
その巨躯を四肢で支えながらゆったりと歩いてくる。
やがて、砂埃が僅かに止み、姿が露になる。
巨体を支える四肢はとても筋肉質であり、更にはそのつま先には凶悪な爪が付いている。爪からは血が付着しており、その足が生物を屠ったということは自明だった。全身は体毛に覆われて肌は見えない。真っ赤な体躯は全身で血液を表すようだった。姿はオオカミに近い。両目には深紅の双眸がこちらを明確に覗いており、恐怖するには十分な迫力だった。
「ああ、あああ」
本物を前にした恐怖と、強烈なトラウマが呼び覚まされ、アラヤの思考が恐怖によって支配される。
まともに思考できなくなってしまった脳は走り方さえどこか遠くへとやってしまう。逃げ出そうとしても既に遅い。
血獣がゆったりとアラヤに向かって歩いてくる。それはもはや狩りを行う獣の所作ではなかった。血獣が行おうとしているのは既に食事である。目の前に用意された餌を食らうだけ、たったそれだけのことだ。
故に走らない。故に急いで狩る必要がない。
何とか後退りながら距離を取ろうとするが、躓いて尻もちをつく。
明確に見える死を察してアラヤはさらに体を強ばらせた。
獣が爪牙を振るう。
凶悪な爪が命を刈り取らんと殺到する。
当たれば冗談のように体は裂かれ、残るのは見るも無惨な肉塊だ。
詰みだ。
そう思い、さらに恐怖が増し、更には一周まわって諦めの心が出始めたその時だった。
「はぁぁぁ!」
アラヤと爪牙の間に割って入ったものが一人。
がギィィ!と金属音楽鳴り響く。
後ろ姿しか見えなかったが、アラヤの目の前に立つ人物が剣のようなもので爪を受け止めていた。
白いロングコートを思わせる服を来ており、長い白髪を腰の辺りまで伸ばしている。後ろ姿ではっきり分からないが、声と髪の長さ的に女性であるとアラヤは思った。
アラヤを守ってくれた女性がさらに力を込めて狼の手を弾く。
狼はそれで女性の強さを悟ったのか、不用意に近づいては来なかった。
「こちら、パトロール中の柊ミハル。血獣出現。民間人が近くにいたため、やむを得ず戦闘開始。応援を要請します。」
何やら、耳に手を当てて無線通信をしているのか、女性の声が聞こえてきた。
「私はすぐに一般の方を退避させます」
そういうと、女性は耳から手を離し、身体あくまで正対させたままアラヤの隣までやってくる。
「大丈夫ですか?けがはありませんか?!」
アラヤの方に少し視線をのぞかせた少女の顔はとても綺麗だった。端正に整った顔立ちは、少女の面影を残しつつ長い髪と相まって大人っぽさを持ち合わせていた。その瞳は赤く染まっており、少女の綺麗な顔と相まって人形を思わせるものだった。
「だ、大丈夫です」
情けない。自身が発した声に対してそう思う。しかし、それは依然として恐怖でまみれたアラヤにほんの少しかもしれないが余裕が生まれたことを表していた。
「私が食い止めます。すぐに下がって、逃げてください」
すでにその視線はアラヤを見てはいない。彼女の視界には巨大なケモノが映っていることだろう。
「は、はい」
その時だった。
『グルゥァァ!』
大きなうなり声を上げながら此方へ肉薄してきているケモノが目に入る。
そのケモノは明確にアラヤを標的とし、アラヤに殺意をむけていた。
一人であるのならアラヤは太刀打ちできるすべもなく一瞬でその爪の餌食となるだろう。しかしそうはならないのが今の状況である。
アラヤの前には再び少女が飛び出し、剣を構える。
「このケモノは明確にあなたを狙っています!早く退避を!」
その言葉で自分の置かれた状況を理解したアラヤは急いでその場を離れようと踵を返す。
背後からは再び金属音。恐怖を駆り立てるうなり声がアラヤの足をすくませようと試みる。
それらを振り切ってアラヤは走った。
金属音の連続が辺りに警鐘を鳴らすかの如く響き、辺りから人が逃げていた。
その流れに乗るようにアラヤは走る。なにか、アラヤの中にあふれ出した。
いまだ金属音は鳴り響く。まだそれほど遠くには走っていない。距離にして70メートルほどといったところだろうか。
ふと、後ろを振り返る。
小さなせなかなはずだ。アラヤよりも身長はわずかだが低く、たくましいというよりも可憐である方が正しいはずだ。しかし、アラヤからすれば、少女の姿はとても逞しく思えた。
一人で戦っているのだ。たった一人で。何十人もの命を一身に背負っているのである。
剣を振るい、皆の盾となる。
自身の数倍の巨体を誇るケモノ相手に臆することなく立ちはだかり続けている。
そんな姿を見て、恐怖に怯えていた自分が情けなく感じてくる。トラウマを乗り越えられず、うずくまっている自分に嫌気がさす。
それでいいのか。
だめに決まっている。
『誰かを守れる人間になりなさい』
確かに母親に言われた言葉をアラヤは今になって思い出す。
自分が何かできていたら両親は死ななかったかもしれない。
今後誰かが助けを求めた時、自分は行動できるのか?助けられるのか?
そう思うと怖くなる。
変わるなら今じゃないのか。
今変わることが出来なければ、ずっと何かを掴めずに、ずっと自分を恨み続け、トラウマも克服できずにただ、うなだれるだけの人生になるのではないのか。
何時しか血獣によるトラウマや恐怖よりも、今の自分を恨む気持ちが大きくなっていた。
アラヤ達を守る少女が押され始めたのがわかった。
それもそうだろう。いくら何かの細工があって、巨体から繰り出される攻撃を受け止められたとして、それがそう長く持つはずがない。
少女は心の中で自身が殿を務め、そこで命が費えることを理解していたのである。
ああだこうだ、心の中で言うアラヤだったが、少女の姿をみて身体はすでに動いていた。
少女が血獣の前足による攻撃で剣もろとも吹き飛ばされる。
「くぁは」
肺から一気に空気が抜ける苦い声がしたとき、その声をアラヤは間近で聞いていた。
軽い少女の身体は数メートル転がった後にようやく止まる。すぐさま立ち上がり、剣を構えなおそうとする。しかし、思ったように体に力が入らないことに気が付いた。
ケモノの前足が再び少女をとらえんと肉薄する。
そのままでは少女は見るも無残な姿に変わってしまうだろう。
少女の身体は突如として後ろへと引っ張られる。
そして、少女は見た。
アラヤの身体がいとも簡単に切り裂かれ、おびただしい量の血が飛び出す光景を。
そして、耳にする。
「いまだ」
はっと、我に返る。この瞬間を逃さない手立てはない。
本来守らねばならぬ人を傷つけ、挙句の果てにそれを隙とする。なんと力及ばぬことか。なんと矮小であるか。少女は自分を責め立てる。
しかし、今はそれを考える瞬間さえ不必要だ。
力を込め直し、いつもに増して自身を奮い立たせ、より強くその一撃を放つために叫ぶ。
「血装励起!」
どくん。
彼女の手にもつ剣が生物であるかのように脈打つ。そして、剣の至る所に仕込まれていた機構が展開し、刀身が変化していく。刃の部分が外にスライドし、内側にある真っ赤な線が顕になる。
「『ハート・オブ・ヴァンパイア』」
赤く紅く強く、その存在を知らしめるかのごとく、赤き剣は力の本流の源と成る。
赤い刀身に反応するかのように少女の着る服も深紅の線が全身に走り、輝く。
「はぁぁぁぁぁ!!!!」
全身全霊の力を込め、大きく前へと出る。
血獣もただではやられない。巨大なケモノは大きな口を開き、剣もろとも少女をかみ砕こうと躍動する。
お互いの力が最高潮に達するタイミング、剣とケモノが衝突した。
そのエネルギーはすさまじく、辺りに衝撃をまき散らしながら一瞬力が拮抗する。
「コンバート!」
少女の言葉がけたたましい音が鳴り響く中でしっかりとその輪郭をあらわした。
少女の剣はまだ本当の力を開放しきっていなかった。
赤い躍動がさらに輝きを増す。そして、剣の中に封じ込められていた力が解放された。剣の内部から放たれたのは大量の血であり、それは血獣の血であった。少女が今までに屍へと変えてきた血獣の血が一斉に解放されたのである。
さらに赤く、辺りを血の色に染めんばかりの光は、ただの張ったりではない。光るその血液は解放されたエネルギーがあまりにも大きなためであった。
解放された血液は少女の剣の推進力となり、さらに血獣を削る毒となる。
「はあぁぁぁぁぁ!!!!!」
『グルォァァァ!!!』
力の拮抗が僅かにその秩序を崩し始める。少女が押し始めるという形でだ。
決着の時は来る。
力の均衡が崩れ、そして最後に剣がその刃を押し込んだのだ。
断ち切ってはいない。しかし、重大なダメージは与えた。いずれケモノは死に至るだろう。
ゆっくり、血獣が倒れる。右半身を一直線に切りつけられ、大量の血を流している。本来なら回復する見込みはあるが、少女が使用していた対決戦血獣機装、通称『BCW』は血獣を屠るために造られたものであり、当然血獣が回復する手段を絶つ機構も備わっているのだ。
「はっ」
少女は倒した安心感に浸ることは一切なかった。すぐに、意識を切り替えて後ろに振り返る。
そこには、大きく飛んだアラヤがいた。
否。
少女が駆け寄った時にはすでに、それは息をしないただの物となり果てていた。
少女の嗚咽が、静かに辺りに鳴り響いた。
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