旅のはじまり
やわらかくて、いい匂いがして、すべすべしている。ずっとここで微睡んでいたい、こんなふうに気持ちがいいベッドで眠るのはいつぶりだろう。
私はずっと、冷たい牢獄で――……。
はっと目を覚ます。何で私、ベッドで寝てるんだろう。
「――カノン?」
ゆっくりと重たい瞼を持ち上げて――まず目に入ったのは、目の覚めるような青だった。
「レオン……?」
「カノン、痛むところはない? 気分は悪くない?」
「う、うん。大丈夫だけど……」
ゆっくりと、記憶が蘇ってくる。時計塔で――アリアの放った氷柱が、私のお腹を貫いた。そっと手を当ててみるけれど、何の痛みもない。
「生きてる……」
私は死んでもおかしくない状況だった。おかしくないどころか、このまま死ぬと思っていた。治癒魔法でも血が止まらなかった。絶望的な状況だった。
あの時、彼が何か――してくれたのだろうか。
「駆けつけられなくてごめん」
「――え?」
「俺ができることなんて、治癒魔法くらいしかないのに」
「治癒魔法くらいって! 何言ってるの!」
がばっと起きあがろうとしたけれど、まだそれほどの体力は戻っていないらしい。少し体を起こして、また、ベッドに沈んだ。
「レオンはレオンの、やるべきことがあったんでしょう」
「――まあ。そうだね」
レオンが素直に頷く。彼の方にも何か、あったのだろうか。
「王都の方の爆発騒ぎは収まったよ。オズ様の使い魔が来てくれて、なんとかね」
「オズ様って使い魔いるんだ!?」
初耳である。それってつまり、千年前からずっといるってこと……? そんなご長寿の使い魔って……さすがはオズ様だ。何もかも規格外すぎる。
「――あ。あの、レオン。オズワルド殿下がどうなったかは知ってる?」
「時計塔から出られたよ。あれから一晩経って、今は国中大騒ぎだ」
また爆発が起こった上、十年間も監禁されていた王子殿下が現れたのだ。その様が容易に想像できる。
「アックスは怪我してない? ブランは――」
「姉さん……っ!」
部屋の扉が勢いよく開き、ブランが飛び込んでくる。その隣には、アックスもいた。
「目が覚めたんですね!」
駆け寄ってくるブランの瞳には、涙が滲んでいた。
「心配した」
アックスがほっとしたような顔をして呟く。
今までこんなに心配されたことがないから、なんだか、どんな顔をしていいのかわからない。嬉しいような、気恥ずかしいような、申し訳ないような、妙に落ち着かない気持ちになる。
「心配してくれて、ありがとう」
この気持ちがなんなのか、わからない。胸にある温かいものが、喉元までせりあがってきて。泣きたいのかもしれない。こんなに嬉しいのに。分からない。ただ一つだけ、分かることは――生きていて、よかった。
窓から、赤い夕陽が差し込んでくる。日が沈む時、一日が終わるようで少し寂しい。そう思うようになったのは、カノンとして生まれてからだ。
「さようなら、カノン」
「ばいばい」
レオンが微笑んで、アックスが手を振る。三人が出て行って、入れ替わりに、アリアが入ってきた。私は丸一日眠っていて、順番に付いていてくれたそうだ。
「ごめんなさい」
彼女はベッドのそばに立つと、深く頭を下げた。
「謝っても、許されることじゃないのは分かっているけれど」
アリアはずっと、頭を下げ続けている。痛かったし、怖かったし、アリアを恨んでいないと言ったら嘘になる。でも、あの場で必死に治療をしてくれたのもまた、アリアなのだろう。
「頭を上げて」
彼女が恐る恐る、顔を上げる。
「私、生きてるから。大丈夫」
じわ、と彼女の瞳に涙が滲む。彼女はそれをこぼすことなく、必死で堪えていた。
「ありがとう」
「こちらこそ、治療してくれてありがとう」
「私じゃ何もできなかった。あなたを治したのは、オズワルドよ」
「……そうだとしても、諦めないでくれてありがとう」
「――うん」
彼女がにこりと微笑む。置いてあった椅子に座って、私と目線を合わせた。
「私たち、二人きりの転生者なんだから、最後に話をしない?」
最後にって何だろう。そう思ったけれど、なんとなく聞けないままこくりと頷く。
「私はね、とにかくゲームが好きだったの。ジャンル問わず、色々。ゲームのしすぎで不健康なくらい。カノンさんは、どんな子だった?」
「私は……学校に行けなくて」
「うん」
「ずっと家にいて」
「うん」
「家でずっと、本を読んでた」
「どんな本?」
「ファンタジーが多かった。サイハテのオズが、一番好きな本」
「私、小説版を読んだことなくて。出てたのかな? 私が知らないだけ?」
「私はゲームを知らない。たぶん、私が知らないだけ。ゲームって、やったことないから」
「それじゃあ、私もそうなのかも」
アリアが眉を下げる。
「こんなこと、聞いてもいいかわからないけど……」
「なに?」
「カノンさんは、何歳で亡くなったの?」
「えっと、十四歳、くらい」
「私よりずうっと子どもだ。私、大学生だったから」
「大人だあ」
彼女はくすくす笑った。
「全然大人じゃないよ。でも中学生からしたら、そう見えるのかもね」
今度は私が、しょんぼりと頭を下げる番だった。
「アリアさん、その。ハッピーエンドに協力できなくて、ごめんなさい」
「そんなこと気にしなくていいよ。私の方こそ、ゲームだ、プレイヤーだって、ムキになってごめんなさい」
二人で同時に頭を上げて、アリアはぱっと切り替えるように明るい声を出した。
「でも今の状況をエンディングで言うなら、ノーマルエンドかな」
「ノーマルエンド?」
「そう。アリアが誰とも結ばれないエンディング。卒業して、宮廷魔術師になるの」
恋愛するゲームなのに、そんなエンディングもあるんだ。少し驚いていると、アリアはにやりと口角を上げた。その笑い方は、ちょっとだけドロシーに似ていた。
「私も宮廷魔術師になって、がんがん稼いで楽しく暮らしちゃおうかな。別に、恋がうまくいくことだけがハッピーエンドじゃないし」
宮廷魔術師の制服を着て、バリバリ働くアリアを想像する。うん、似合う。かっこいい。
「すっごく、素敵」
「でしょう?」
ふふん、と彼女が胸を張る。その時ちょうど、トントンと扉がノックされた。
「どうぞー」
二人の声が重なって、それが何故だか面白くなって、くすくす笑った。
「お二方、何がそんなに面白いんです?」
その声と、ヒールの足音に体がびくっと跳ねる。
「えっ! なっ、何ですか!」
ドロシーが来た理由に思い当たって、サアッと青ざめる。
「もしかして、捕まえに来たんですか……?」
大人しく両手を差し出す。ドロシーの後ろから部屋に入ってきたブランが、その手を掴んだ。
「兄さん、僕も罪人ですよ。姉さんを脱獄させたのは僕ですから」
「違います。脱獄は私一人でやりました。こう見えて、やればできる子なので」
「その供述には無理がありますよ」
ドロシーが呆れたように溜め息を吐く。
「それに、捕まえる気はありません」
「……え? じゃあどうして来たんですか?」
彼は私のことが大嫌いなはずだ。わざわざお見舞いになんて来てくれるはずがない。
「どうしても何も、ここはワタシの家ですから」
言われた言葉が理解できなかった。
「……はい?」
「ちなみにここは僕の部屋です」
「え?」
ということはつまりここは、私が投獄されてから、ブランが暮らしていた部屋なのだろうか。その割にはあまりにも物が無く、生活感のない部屋だ。殺風景すぎる。
「今日からはまた、無人の部屋に戻りますが」
ブランは机の上に置いてあった旅行鞄を掴むと、私に手を差し出した。
「姉さん、逃げましょうか」
「…………え?」
「亡命しましょう」
そんないい笑顔で、何てことを言うんだ。
「そうじゃなくちゃ、姉さんも僕も投獄ですよ」
「ブランまでどうして!?」
「姉さんが投獄されるなら、僕も同罪です」
「だからどうしてよ!?」
「ちなみにワタシは見送りにきました」
「私も」
ドロシーとアリアが手を挙げる。
「ええっ」
もう、何が何だかわからない。
「カノン、元気でね」
アリアが杖を構える。彼女が杖を一振りすると、私の服装が動きやすいワンピースに変わった。髪もまとめられている。
「待って! 私、オズワルド殿下に、お礼を言ってない」
「殿下は渦中の人というか……その、会う時間がありません」
「そんな……っ!」
「レオンとアックスは?」
「お二人もこのことを承知です。先ほどお会いできたのが最後になります」
「そんなあっ!」
さよならも言えないなんて、泣きそうだ。
「ブラン、魔法は覚えていますね」
「もちろんです」
目の前で、亡命の準備が着々と進んでいく。私に拒否権はない。ブランはきっと、引きずってでも私を連れて行くのだろう。
「姉さん、ごめんなさい。これは、お父様とお母様に頼まれたことでもあるんです」
「え……?」
「だからどうか、僕の手をとってください」
とうとう、ぶわりと涙があふれた。
きっともう、お父様とお母様には二度と会えない。オズワルド殿下にも、レオンにも、アックスにも、アリアさんにも、ドロシーさんにも、会えないかもしれない。
「わかった……」
ブランの手を、しっかりと握る。
「離さないでくださいね」
ブランが呪文を唱え、ぱあっと足下が光を帯び始めた。
これは転移魔法――なのだろうか。まばゆい光が、私たちを包んでいく。
「ばいばい、カノン」
「さようなら、ブラン」
アリアとドロシーが、手を振る。
「二人もどうか、お元気で」
その言葉を最後に、私とブランはエスメロード王国を去った。
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