ホットチョコレート
私が放った氷柱が、カノンの華奢な体を貫いた。飛び散る鮮血を見たときに、今更になって思い知った。
この世界はゲームじゃない。現実だ。
怪我をすれば血が流れるし、悲しい時は本物の痛みを伴う。ゲームオーバーじゃない、本物の死が訪れる。
「うそ。私」
カノンは――他の人たちだってキャラクターじゃない。生きている、人間だ。
私だってプレイヤーじゃない。この世界で生きている、人間の一人にすぎない。
「ひとを――殺した?」
それにあの子は――私と同じ、転生者だ。
「姉さん! 姉さん! ダメだ!」
ブランが泣き叫ぶ声だけが、薄暗い塔の中に響いていた。
「待って! いかないで!」
どうやって彼らのそばまで行ったのか、覚えていない。私の足は勝手に動いて、階段を上ったらしい。
「姉さん!」
気づいたら、呆然と彼女を見下ろしていた。
カノンが力無く、目を閉じる。閉じた瞼の隙間から、涙が一筋、頬を伝っていった。
「姉さん! 返事をしてください!」
彼女に意識はない。もう、ブランの声は届いていない。
――私は、人を殺した。
私は――……!
記憶の奥底で、エメラルドグリーンが光る。呑まれそうになった思考を、バシンと、誰かが止めた。
ドロシーが、私の背中を強く叩いていた。
「アリアさん、まだできることがあるでしょう」
「できること……?」
「ワタシにはできませんが、あなたなら彼女を救えるかもしれません」
――そうだ。
カノンの心臓は、まだ動いている。まだ、息をしている。まだ、死んでない。もしかしたら、魔法で一命を取り留められるかもしれない。
氷柱に手を当てる。やるしかない。ゆっくりと氷柱を消すと、どぶっと血が溢れた。お腹に、ぽっかりと穴が空いている。
「うっ……」
これは、酷い。助からないかもしれない。私の力では、助けられないかもしれない。
怯みそうになる弱い心を追いやって、傷口に手を当てる。
「《どうか、カノンを治して!》」
ぱあっと、手のひらから光が広がっていく。
「《お願い。どうか、塞がって!》」
必死で、祈るように唱え続けた。
得意じゃない治癒魔法で、どれほど効果があるのかは分からない。でも、ドロシーもブランも、治癒魔法を使えない。私しかいない。やるしか、ない。
「姉さん!」
涙をこぼしながらブランが呼びかける。
「カノン!」
どうか、間に合って! 死なないで!
「――え?」
ブランが呟く。
ふと気づいた時、目の前で、銀の髪が揺れた。
長い髪のせいでよく見えないけれど――その美しい人は、横たわるカノンに口づけをしているようだった。
「おず、わるど……?」
か細い声が口から漏れる。
いつここに来たんだろう。何の足音も、気配も、しなかった。
「……うそ」
ぽっかり開いていたカノンの傷口が、みるみる、塞がっていった。
私の治癒魔法では、ぜんぜんだめだったのに。
「オズワルド殿下、姉さんは――」
ブランの問いに、彼は優美に微笑んだ。
「もう大丈夫だよ」
体から、力が抜けていく。治癒魔法でも治せない怪我だった。それを――こんなに、いともあっさりと。口づけ一つで。
まるで怪我をする前に、カノンの体だけ時間が巻き戻ったかのようだった。
――いや、その通りかもしれない。オズワルドは、カノンの時間を巻き戻したのだ。
さいはてのオズの、超ご都合主義な大大大ハッピーエンド。オズワルドルートなんて呼ばれているそれ。
アリアの願いで、オズワルドは時間を巻き戻すのだ。その代償は、自分の存在。
オズパレードの魔法爆発事故の前まで時間を巻き戻して、不幸な事故なんてありませんでした、オズワルドなんていませんでした。世界は幸せになりました。めでたし、めでたし。
ゲームを遊んでいる時は、そのエンディングが嫌いだった。ご都合主義にもほどがある。別ルートで事故のトラウマを乗り越えたキャラクターたちへの、冒涜にも等しいと思った。
――けれど、現実にそんなものが目の前にあったら、これほど欲しいものはない。
「こんなの、勝てっこないわ」
魔法どころの騒ぎじゃない。時間すら自在に操れるなんて、反則級チートじゃない。この、ラスボスさんは。
◇◆◇
胸元で、エメラルドのブローチがちかちか輝いている。
きれいなものを身につけると、胸がはずんで、足取りも軽くなる。街がいつもよりずっと華やかだったら尚更。石畳の上に響くみんなの足音だって、いつもよりずっと楽しそう。
だって、今日は待ちに待った「オズの日」だ。年に一度の、誰もが楽しみにしている日。
花や魔法で飾りつけられた街のあちこちから笑い声が響く。
「はい、お嬢ちゃん。熱いから気を付けてね」
「ありがとう! お兄さん、良いオズの日を!」
「お嬢ちゃんも、良いオズの日を!」
受け取ったホットチョコレートをふうふう冷まして、一口飲む。甘くて、おいしくて、口の中一杯に幸せが広がっていく。
こぼれないように気を付けながら、人の間を縫うように進んだ。今日はお祭りだから、特に人が多い。
「そろそろパレードが始まる頃じゃないかな」
聞こえてきた声に、足を止めた。私も、パレードが見たい。
「もうすぐこの辺りを通るかも!」
はしゃぐ男の子の胸元で、エメラルドのブローチが弾む。
気づけば、パレードを一目見ようと、多くの人たちが集まっていた。華やかな音楽が聞こえてきて、自然に体が揺れる。騎士団が行進して、街の人たちの声援が響く。きらきら魔法の光がはじけ、花や虹や動物になって、歓声が上がった。
「あっ! 王様だ!」
「王妃様!」
どよっと人のざわめきが大きくなった。ひときわ豪華な馬車が見えてくる。乗っているのは、かっこいい王様と、きれいな王妃様。美しい二人に目を奪われているうちに、手の中のホットチョコレートはすっかり冷めきっていた。
ふいに、王妃様の大きな瞳が、ぎょっとしたように見開かれた。
その時だった。
突然、エメラルドグリーンの光に包まれていた。その美しい輝きが、パレードの演出の一つだと思えたのは一瞬だった。
なにかが、砕ける音がした。
激しい爆音がした。
地面が揺れる。
建物が崩れていく。
あちこちから悲鳴が上がる。
頬に、温かいものが飛んでくる。
手で拭って、愕然とした。
血だ。
こわい。こわい、こわい、こわい。体が震えていた。
さっきまで、隣にいた人がもういない。
がれきが、ひとが、てが、あしが、とんでくる。
目の前の大きな建物が崩れて、私の上に、落ちてくる。
この世の全てが、やけに、ゆっくりと感じた。恐怖で身がすくんで、うごけない。崩壊した瓦礫は、きっと、私を押し潰す。
わたし、死んでしまうんだ。
ゆっくりと、目を閉じる。悲鳴の渦が、私を取り巻く。
このまま、瓦礫の下敷きになってしまうのが一番楽なのに。――でも、そんなことしたら、怒られてしまう。
私も、仕事をしなくちゃ。今ここで。他のみんなは立派に務めを果たした。今だって、あちこちからみんなが死にゆく、音がしている。
私も、自爆を――、女王陛下に忠誠を――。
「そんなこと、してはだめ」
私の前に立ちはだかったのは――美しい女性だった。長いまつ毛にふち取られた、空色の瞳がじっと私を見つめている。ふんわりとした薄桃色の髪と相まって――春の妖精のような人だった。
「そこを退いてっ!」
「だめよ。あなたが力を使ったら、王都は本当に壊れてしまう」
彼女には妙なオーラがあった。簡単に退けられそうなくらい儚げなのに、隙がない。彼女からは、逃げられない。
「あなたに、私の全てをあげるわ」
彼女は私に触れようとして、その体はすうっと透けた。この人は、生きている人じゃない。私以外の誰にも、見えていない。
「思い出して。あなたは人を殺すための機械じゃない」
ぽた、と目から涙が溢れてくる。次から次に溢れてくる涙を見て、彼女は困ったように微笑んだ。
「……あなたは誰なの?」
「通りすがりの、北の魔女よ」
北の魔女は、私の額にキスをした。
「そして今日からは、あなたが北の魔女」
その瞬間から、私はアリアになった。
「……なんでこんなこと、忘れてたんだろう」
カノンの血を見た時、治癒魔法をかけている時、次から次へ記憶が蘇った。私が命の危機に瀕したわけではないのに、それはまるで、走馬灯のように。
北の魔女と名乗ったあの人は、誰だったのだろう。
どうして私、王都で自爆なんてしようとしたんだろう。女王陛下って、一体、誰のことなんだろう――。
そこから先を思い出そうとすると、ひどく、頭が痛む。
俯いて、顔を覆った。はああっと深い深いため息を吐く。
何度も何度も洗ったのに、手から血が落ちた気がしない。私は、人を殺すところだったのだ。
「お疲れ様でした」
甘い匂いが鼻孔をくすぐった。
「どうぞ」
差し出されたマグカップを受け取って、お礼を言う。
「ありがとう、ドロシーさん」
マグカップはほんのりと暖かい。生クリームがたっぷり乗った、ホットチョコレートだ。
私の大好物だけど、どうして知っているんだろう。目を丸くしているとそれが伝わったのか、彼が微笑む。
「以前に好きと言っていたでしょう」
ドロシーも私の隣に腰を下ろして、ホットチョコレートを一口飲む。とろけるように甘くて、ほろ苦い。濃厚なチョコレートの味が、口いっぱいに広がった。
「……おいしい、です。とっても」
「お口にあって良かったです」
「もしかして、ドロシーさんが作ってくれたんですか?」
「ええ、まあ」
意外だ。お料理とかするんだ。しかも、お菓子。
「――あ。子どもの頃は、ブランによく作っていたんですか?」
「子どもの頃は両親が作ってくれていました」
深い隈のある金の瞳が、優しく細められる。
「私たちの両親は、ケーキ屋を営んでいたので。人気店だったんですよ。おかげさまで、ワタシもブランも甘党です」
いつも飄々としている孤高の天才のような人が、年相応の無邪気な笑みを浮かべるものだから、少し、調子が狂う。何を言えばいいのか分からずに、ひたすらホットチョコレートを啜った。
「事故で店も、両親も燃えてしまいました。ワタシも、死ぬはずでした」
ドロシーは何故か、私をじっと見つめた。それから、にっこりと微笑む。
「な……なんですか」
「何でもありません」
彼は私の口の端を、そうっと拭った。
「クリーム、ついてますよ」
「えっ!?」
慌てて拭っていると、彼がくすくす笑った。その拍子に、使い魔の小さなリスが、フードからぴょこっと顔を出す。
学校で講義をした時、「何でこの人、こんなに不気味なくせに使い魔だけこんなにかわいいんだろう」と話題になった使い魔だ。
リスは何かをドロシーに耳打ちするような仕草をした。ドロシーも耳を貸して、頷く。
「すみません。ワタシはこれから、報告に行かねばなりません」
「大変ですね社会人。飛び級なんてしなきゃ良かったのに」
そしたら、少しの間だけでも、一緒に学生が出来たかもしれないのに。
ドロシーはいつもの、にやりとした意地の悪い笑みを浮かべる。
「あなたも宮廷魔術師になりませんか?」
「……え」
「いい腕でしたよ」
「ちょっと今、その話は勘弁してください」
カノンのお腹を貫いた瞬間の、血が凍るような感覚はもう二度と味わいたくない。
カノンが生きていてくれてよかった。
オズワルドが反則級チートで、本当に、ほんっとうに、よかった。
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