オズの時計塔3

 ゆっくりと、瞼を持ち上げる。それくらいしか出来なかった。


 お腹は痛いし、熱いし、冷たいし、何が起こっているのか分からない。濡れた服が張り付くような不快感が、身体中にべったりとある。魔法学校の白い制服が、赤く染まっていた。


 ブランが涙を流し、私に何か言おうとしている。アリアが険しい顔をして、私の傷口に手を当てている。――そのまま、動きを止めていた。


「カノン! カノン!」


 上から、足音が下りてきた。ひどく焦ったような声が私を呼ぶ。霞む視界の中でも、耳だけははっきり聞こえた。私がこの声を間違えることはない。


「……お、ず」


 ――オズワルド殿下、血が。そう言いたいのに、声が出ない。


「喋らないで」


 駆け降りてきた彼の首輪の先の紐には、乱暴に引きちぎられたような焦げ跡があった。無理矢理外したのだろうか、右手からだらだらと血が流れている。


 まるで時が止まってしまったかのように、私とオズワルド殿下以外、誰も動いていなかった。ぽっかり空いた傷口を抑えながら、私の名前を呼び続けている。


「久しぶりに来てくれたと思ったら、こんな……」


 彼の手が、服が、長い髪が、赤く染まっていく。


「血、止まらない。痛いよね? どうしよう。どうすればいい? 僕は――」


 オズワルド殿下の顔は青ざめていて、額には汗が滲んでいた。こんなに取り乱している彼を見たことがない。いつも余裕たっぷりに微笑みを浮かべているのに。


「治癒魔法じゃだめだ。止まらない。これじゃあ、もう――」


 彼の瞳に、じわっと浮かぶ涙の膜を見た。きらめいで、揺らいで、頬を伝う。ぽたぽたと、私の上に落ちてくる。


「……ふふ」


 思わず、笑みがこぼれていた。


 オズワルド殿下も怪我をすれば血が流れるし、涙をこぼす。汗をかくし、こんなに慌てることもある。そんな当たり前のことに気づいて、なんだか、笑ってしまった。


 ずっとこの人のことを、神様のように思っていた気がする。

 オズワルド殿下だって、人間なのに。


「――カノン」


 彼は私の手を握りしめて、額に当てた。


「何故か僕は、初めて会った時から、君に弱い」


 彼は真剣な表情をしていた。


「どうしてだか分からない。こんな気持ちになったのは、誰かに生きていてほしいと思ったのは、初めてなんだ」


 オズワルド殿下は私の血だらけの手に、縋るように頬擦りをする。


「カノン、君を助けてあげる」


 彼の端正な顔に、私の赤い血が滴っている。拭うこともできないまま、ただじっと、彼を見上げた。


「何でもする。僕にできることも、できないことも、何だってする。だから、生きていてくれないか」


 ぽたぽた、ぽたぽたと、彼の瞳から次から次に涙が溢れて、私を濡らした。


「君の頼みならなんだって聞く。時間だって戻す。いつでもいい。君が望むだけ、時を巻き戻してあげる」


 声にならないまま、はくはくと唇を動かした。


(そんなこと、できるの?)


 きっと唇だってまともに動いていない。それでも彼は、私が言いたいことを正確に汲み取った。


「できるよ」

(オズパレードの魔法爆発事故の前まで、でも?)

「膨大な魔力が必要になるけど、僕の――オズワルドの人としての器一つ分を使えば、できる」


 血と涙に濡れた顔で、彼は美しく微笑んで、残酷なことを言った。


(そうしたら、あなたはどうなってしまうの?)

「消滅する。でもそんなこと、君が生きていてくれるなら何でもない」


 ――何でもなく、ないよ。そんなこと、嫌だ。私だって、オズワルド殿下に生きていてほしいのに。誰よりも幸せになってほしいのに。


(オズワルド殿下が死んでしまうなら、そんなことしなくていい)

「死ぬんじゃない。器が――オズワルドの肉体が消えるだけで、僕は死なない」


 オズワルド殿下は、たまに、よくわからないことを言う。


 ――ああ、もしかしたら。あの白亜の塔で出会ったのは、オズ様じゃないだろうか。ふと、そんなふうに思った。オズワルド殿下は、本当は、オズ様で。そうだとしたら、オズワルド殿下の肉体が消滅した後で、あの時計塔に戻るのだろうか。


「君の助けたい人だって、きっと、全員救える」


 頭によぎったのは、お父様、お母様、親族たちに、使用人たち。

 ブランの両親は健在で、彼が悲しむこともない。兄弟仲良く暮らして、ドロシーがオキデンス家を憎むこともない。

 レオンやアックスが事故で怪我をすることも、苦しむこともない。

 アリアは編入生じゃなくて、ブランと一緒に、オブシオン魔法学校に入学してくるかもしれない。


 事故で多くの人たちが命を落とすことはない。国中が悲しみに暮れることはない。

 毎年オズの日を祝って、オズパレードを楽しんで。

 事故が起こらなかったら、当然のようにそこにあった日常を想像して、つうっと、頬に涙が伝った。


 ――そんなことができたら、どんなにいいだろう。

 オズワルド殿下を見上げる。彼は、優しい瞳で私を見つめていた。


(時間、戻さなくていいよ)


 彼が、目を見張る。


 全て無かったことになって、エスメロードに穏やかな日常が戻ってくるかもしれないのに。事故が起こらなければと、多くの人が願った日常なのに。

 私は悪い子だ。

 夢のような世界を諦めてでも、私は、オズワルド殿下を選ぶ。


「どうして?」


 死んだ人は戻らない。生き延びた人たちだって、たくさんたくさん、傷ついた。

 でも、その傷はいつか癒える。十年経って、まだ癒えていないけれど。それでも、いつか時間が癒してくれるって、信じて、生きていくしかない。


(そんなの、人がしていいことじゃないよ)


 私の答えに、彼は静かに頷いた。


「……そう」


 ゆっくりと、意識が遠のいていく。きっと私は、もう、だめだ。最後に、彼がそばにいてくれてよかった。


(大好きです、オズワルド殿下)


 はくはく、唇を動かす。その口を、彼は指でそうっと撫でた。


「それじゃあこれは、僕の我儘だ」


 薄れていく意識の中で、柔らかなものが唇にふれた。

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