オズの時計塔2

 辺りは見渡す限り真っ白だった。白の中に、私だけがぽつんといる。

 目の前には塔があった。白いけれど、周囲に溶け込んでいるわけではない。むしろ、異様な存在感を放っていた。雲に届くほど高く、首が痛くなるほど見上げても、その天辺は見えそうになかった。


 とりあえず、塔の中に入ってみようかな。そう思って、そろそろと足を踏み入れる。


 塔の中は、外観と同じく真っ白だった。中は広いけれど、吹き抜けのようになっていて何もない。ぽっかりとした空洞に閉じ込められてしまったみたいで、何もないのが不気味だった。


 壁に沿って、ぐるりと階段があった。遥か遠くにある天井は見えないけれど、階段は螺旋状に、塔の天辺まで続いているようだった。登りきるまで数日かかってしまいそうなほどの段数に、眩暈がする。


 そういえば、この白亜の塔と似た建物を知っている気がする。雲に届きそうなほど高くはないし、もっと暗くて、埃っぽく、廃墟のようだった。


「――あ。オブシオンの時計塔だ」


 階段を何段か登ったところで気付く。視界の端で、天辺から何かキラキラとしたものが零れ落ちていった。


「オブシオンの時計塔?」


 遥か頭上から響くように聞こえてきた声に、ぎくりと足を止める。

 勝手に入って、怒られてしまうだろうか。そろそろと上を見上げてみるけれど、誰の姿も無い。


「君は――」


 すぐ近くで声が聞こえたかと思えば、視界が変わっていた。白い壁も、螺旋階段も無い。


 真っ先に目に入ったのは星空だった。視界いっぱいに、星がきらきらと瞬いている。圧倒されるほどの美しさに、息をするのも忘れていた。


「きれい……」


 自然と、涙が溢れてくる。

 考えないようにしていた。だけど、ここは――。


「死後の世界、なのかなあ」


 そうだったらいいなあ。


 花心音だった頃、私は何度も死にたいと思っていた。お母さんがいた頃だって、そうだ。明日が来なければいいのにと、何度も、何度も、願った。


 でも、できなかった。怖かった。痛いかもしれないとか、そういうことじゃない。私という意識がなくなるって、どういうことなんだろう。何も見えなくなって、聞こえなくなって。何も感じなくなって。何も思い出せなくなって。私が無くなってしまうって、それって、どうなってしまうんだろう。漠然とした真っ暗闇に放り込まれるような、そんな恐怖があった。


 ――でも、死んだ後、こんなに美しいところで、こうやって星空を眺められるなら。カノンも、花心音も、救われるような心地がした。


「ここは死後の世界じゃないよ」


 ふと、後ろから柔らかな声がした。塔の天辺から降り注ぐように聞こえてきた声だ。導かれるように振り返って――目を見開いた。


「ここは時計塔だよ」


 そこには――美しい人がいた。銀白の髪に、エメラルドグリーンの瞳。オズワルド殿下と同じ色彩。でも彼は、私のよく知る姿じゃない。より美しさが洗練され、研ぎ澄まされたような、畏怖すら覚える美貌。


 何年か経って――大人になったオズワルド殿下、のような。


「オズワルド殿下?」


 彼は微笑むだけで何も答えなかったけれど、その笑みはオズワルド殿下のものだった。


「この時計塔はね、世界中の、すべての時間を管理しているんだ」

「文字盤も針も、鐘も、何も無いのに?」

「塔の真ん中を、上から下へ、砂が溢れているのを見た?」


 そういえば、階段を登っている時、何かキラキラしたものが中央の吹き抜けを落ちていくのを見た。


「もしかして、砂時計?」

「似たようなものだよ。この大きな塔の全てが、時間なんだ」


 彼の大きな手が、私の肩にそうっとふれた。星空の方へ、くるりと振り向かされる。


「――見て」


 彼はすっと手を上げると、白く長い指を星空に向けた。指さす先には、天の川のような星の流れがあった。


「あの星の川を、ずっとずっと下って行った先に、君が言った死後の世界がある」


 彼の指が、天の川を下るようにつうっと滑る。


「人は死ぬと、冥界に降りて審判を受ける。その後、多くの魂はまた巡るんだよ」

「生まれ変わる……」


 それは、花心音が、カノンになったみたいに。


「うん。魂をすすいで――」

「すすぐ? お洗濯するみたいな?」

「まあ、そうだね。ゆっくり時間をかけて、濾過されるみたいに魂はすすがれる。そうして、生前の記憶を失っていく。つらいことも、悲しいことも、幸せなこともきれいさっぱり忘れて、まっさらになって次の生を始めるんだ」


 ――そうだとしたら、花心音の魂は、お洗濯してもらえなかったのだろうか。まっさらにしてもらえないまま、カノンになって。


「どうして、全部忘れなくちゃいけないんでしょうか」


 カノンにも、花心音にも、忘れたくないものがたくさんある。


「どうしてって?」

「大切な人のこと、幸せだった日のこと。お守りみたいにずっと覚えておきたいことがあるもの」


 大切な人によく似た彼を見上げる。いつも痛々しい姿をしていたけれど、彼と過ごした日々は、交わした言葉は、全て私の宝物だ。


 オズワルド殿下のことばかりじゃない。ブランに、レオンに、アックス。たくさん笑い合った、楽しい日々のこと。


 カノンのお父様、お母様のこと。花心音のお母さんのこと。それぞれの家族団らんの暖かさ。他にも、たくさん。両手で持ちきれないほどの、忘れたくないものがある。


「それに、前の人生のことを覚えていたら――同じ失敗を繰り返さないで済むかもしれないし、もっと上手に生きられるかもしれないでしょう?」

「そうだね」


 口を尖らせる私を見て、彼がくすくす笑う。


「記憶をすすぐのはね、記憶を持ったまま生きていくのはあまりにもつらいから、らしいよ」

「それは――……」


 ぞっと冷たいものが走って、咄嗟に首元に手を当てる。それから、その手を下げてお腹を撫でた。まっさらになれなかったら、次の私には、二人分の死の痛みが付いてくるんだ。

 次は三人分、次は四人分、次は、次は……。そう考えると恐ろしい。


「冥界の神がそう言ってた」


 真っ青になった私の顔を覗き込みながら、にっこりと明るい笑みを浮かべた。彼の顔が間近にあって――もう止まったはずの心臓が、どきんと高鳴ったような気がした。思わず、ふいと顔を逸らす。


「神様のこと、知り合いみたいに言うんですね」


 もしかしたら、オズワルド殿下のようなこの人は、神様なのだろうか。


「あなたは、冥界に行ったことがあるんですか?」

「あるよ」

「冥界ってやっぱり、暗くて、寂しいところですか?」


 彼は何故か、小さくくすっと笑った。


「真っ暗だけど、いつだって星が瞬いている。花でいっぱいの、きれいなところだよ」


 満天の星空と、色とりどりの花々。暗がりの中で輝くような冥界を想像して、ほうっと息を吐く。


「――それは、素敵ですね」


 素直に、そう思った。


「冥界には星も、花もあるんだ。死んだ後できれいなところに招かれるなんて、神様って、案外優しいんですね」


 意識も存在も無くなって、一人冷たい骨になっても、私の頭上には満天の星空があって、足元は花で埋め尽くされている。何も感じなくなるわけじゃない。寂しい場所に、一人で放り込まれるわけじゃない。目は、耳は、生きている時以上にきれいなものを、たくさん知る。


「そうだとしたら、もう何も、怖くない」


 まっさらになって、何も思い出せなくなっても。宝物もお守りも手放して、それでもきっと。

 次を、生きていける。


 ようやく彼を、見据えることができた。風のない夜空の下で、美しい銀白の長い髪がさらさらときらめいてなびく。宝石よりもずっときれいなエメラルドの瞳は、木漏れ日のような柔らかな光を湛えている。白く滑らかな肌も、すっと通った鼻筋も、微笑みを湛えた唇も。どこをとっても、星空に負けてない。きっと花にも、色鮮やかな冥界にも。そう思ったら、自然と笑みが溢れていた。


 ――やっぱりこの人は、反則みたいにきれいだ。


「私は――私たちは、あなたの幸せを、ずっと、ずっとずっと、祈っています」


 人生の一番最後を、これほど美しいもので締めくくれなるなんて。こんなに幸せなことはない。


「生まれ変わっても、魂がすすがれたとしても、きっと何度でも、あなたのことを、好きになります」


 カノンも、花心音も。あなたの存在が私たちの支えだった。目の前にいなくても、遠く離れていても、時折怖いことを言っていたって。この気持ちだけは変わらない。


「さようなら、オズワルド殿下」


 彼が目を見開く。何の音もしない、まっさらの静寂が訪れた。

 真空のようなしじまを破ったのは、彼の方だった。


「――カノン」


 一瞬、何が起こったか分からなかった。彼は、私の肩に顔を埋めていた。そのまま、はああと深く息を吐く。


「あんまり、意地悪しないで」


 予想外の言葉にぎょっとする。


「……い、いじわる?」


 そんなこと、した覚えがない。

 顔を上げた彼は、ひどく弱々しく見えた。いつも笑みを湛えていた唇を強く結び、涙を堪えるかのように眉を寄せていた。


「君は、まだ、死んでないよ」


 彼は無理に口角を上げて、笑みのかたちを作る。痛々しいほど切実さが伝わってくる笑みだった。


「え……」


 ――信じられなかった。

 お腹を貫いた氷柱の感触が、痛みが、こんなにもはっきり思い出せるのに。


「でも私、お腹に……」

「大丈夫」


 彼は私の手を、両手で包み込むように握った。背をかがめ、私の顔を覗き込む。


「君は、僕に愛されて生きていきなさい」


 彼の微笑みを最後に、私の意識は遠のいた。

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