魔女の追憶2

 木の扉が開いて、見知らぬ少年が部屋に入って来た時、私はちょうど、涙を拭っていた。

 三人で書いた物語を読む時、あの時笑いあった楽しさや、胸が張り裂けそうなくらいのドキドキが蘇って来て、いつも泣いてしまう。


「泣いてるの?」


 彼が目を丸くする。暗い薔薇色の髪に、つんと目尻が上がったグレーの瞳。冷たい印象を与える――ぞっとするほど美しい男の人だった。


「こんにちは、お嬢さん」


 彼は、一転、にこりと人懐っこい笑みを浮かべた。


「僕はニコラ・オキデンス」

「――オキデンス?」


 距離を取る私に、彼は両手を上げた。


「何もしないよ」


 彼は、私を安心させようとでも思っているのか、優しい声で言う。


「武器も持ってないよ。魔法も使えないし、君を傷つける気なんてない。だからどうか、怯えないで」

「――本当に?」

「うん。本当だよ」


 ニコラはドアのそばから動かないまま、優しく微笑んだ。


「君の名前を教えてくれる?」

「……イザベル」

「いい名前だね」


 たぶん、その瞬間から、胸の高鳴りを聞いていた。




 ニコラはオキデンス家の隠し通路を探検していて、偶然サイハテの部屋に辿り着いたらしい。彼は度々、サイハテの部屋を訪れるようになった。


 ニコラはよく、外の世界の話をしてくれた。家族で出かけたこと、学校で受けた授業が面白かったこと、友人の大恋愛の話。ニコラが話す全てが、きらきらと輝いているように感じた。


「今日はお土産があるんだよ」

「知ってる」

「見てたの?」

「うん。朝から行列に並んでた」

「……あんまりそういうの、見ないでほしいなあ」


 ニコラが箱から取り出したのは、食べるのがもったいないくらいに可愛い、いちごのショートケーキだった。


「見られていたなら仕方ないか。行列ができるくらい評判のケーキなんだ。一緒に食べよう」


 初めて食べたケーキは、甘くて、幸せを口いっぱいに頬張っているようで、ほっぺがとろけそうなほどにおいしかった。




「イザベルって、魔法が使えるんだよね?」


 ニコラは魔法の話をする時、いつも、目を輝かせていた。彼は魔力がないけれど、魔法が大好きなのだ。サイハテの部屋にあった魔法の本だって、全て読んでしまったくらいだ。


「そうよ。西の魔女だもの。怖い?」

「ぜんぜん怖くないよ」

「本当に? 悪い子のところには、私がいくのよ」

「君が来てくれるなら、僕は、悪い子でいいよ」


 頬が、かあっと熱くなっているのが分かる。


「ねえ、イザベル。いつか、僕と一緒にこの部屋を出ない?」


 いつも人懐っこい笑みを浮かべているニコラが、真剣な顔つきで私を見つめていた。


「西の魔女だからって、一生閉じ込められて暮らすのはおかしいよ。両親も、親族たちもみんな説得してみせるから、お願い」


 差し出された手を、じっと見下ろす。しばらく迷ってから、そっと、ニコラの手を取った。そんな夢みたいな日が、本当に来たらいいのにと思いながら。


「ありがとう」


 果たされない約束とわかっていて、小指を絡ませた。

 嘘でもいいから、今だけは、信じていたかった。

 だって、私の王子様はニコラがいい。




 それから数年が過ぎた。約束なんて忘れてしまっただろうと思っていたのに、部屋に入ってくるなり、ニコラは私の手を取った。


「やっと、イザベルを外に連れ出せる」


 握られた手と、ニコラの顔を交互に見て、私はぽかんと間抜けな顔をしていた。


「え……?」


 当然のように、オキデンス一族は猛反対した。ニコラと大喧嘩になり、しばらく交戦が続いた。それをどう言い包めたのか――、私はサイハテの部屋から出られることになった。


「でも、いくつか条件があって、イザベルは自由に外に出られるわけじゃないんだ」


 そう言う彼は、垂れた耳と尻尾が見えそうなくらい、しょんぼりとしていた。

 私はオキデンス邸の、日当たりの良い一室をもらった。眺めも良く、薔薇園が一望できる。


「サイハテの部屋から見たことがあったけど、実際に目の前にすると、こうも違うのね」


 陽の光も、月あかりも、花も木も風も、目にするもの全てが鮮明で、私が生きていることを教えてくれているようだった。


 私に許されたのは、この部屋の中だけだった。ニコラの付き添いなしに、自由に邸内を出歩くこともできない。私は病弱ということになって、ほとんどの時間を部屋で過ごした。


 私にはそれらしい戸籍が作られ、西の魔女であることは隠された。しばらくして、私とニコラはひっそりと結婚した。




   ◇◆◇




 私が結婚した数年後、アデルも結婚した。アデル――アデルハイト・オリエント公爵令嬢は、王妃になった。


「それがね、前の王妃とは大恋愛だったらしくて、私のこと見もしないの。使用人たちだってそうよ。その、王妃様とやらが大変すばらしいお方だったらしくって、メイジー様、メイジー様ってうるさいの」

「大変そうね」

「そうなの! もう魔法で斬り刻んでやろうかしら!」


 アデルなら本当にできるから反応に困る。


「毎日毎日、無駄にメイジー様に詳しくなっていくわっ」


 ベッドの中でごろんと寝返りを打ちながら、アデルが口を尖らせる。私もベッドで一人、真っ暗の天井を見上げた。


「帝国出身、下級貴族の御令嬢! 百人中三百人が、守りたいと答える儚げな美貌! 陛下の一目惚れから紆余曲折、身分を超え国も越え、大恋愛の末結ばれたそうよっ」

「見ておけばよかった」

「見ている分には面白い物語だったでしょうね」


 私たちは遠く離れていても、声を出さなくても、会話ができる。テレパシーみたいなもので、昔からずっとそうだ。だから、西の魔女と東の魔女は、双子だったんじゃないかと思うことがある。


 目の色だって、半分こ。金の瞳と、銀の瞳が、一つずつ。金眼と銀眼のオッドアイなんて、見る人が見れば、西の魔女か東の魔女だと見抜かれてしまう。だから私たちは、目の色を変えて過ごしていた。


 アデルは生まれたその瞬間に、両目を銀色にした。

 私はサイハテの部屋を出る時に、両目を金色にした。


「東の悪い魔女が王妃なんて、初めてのことでしょうね」

「西の悪い魔女がオキデンス公爵夫人だってことも、初めてよ」


 お互いに悪い顔をして、笑い合った。



 それから月日は流れ、アデルは男の子を、私は女の子を産んだ。

 名前はもちろん、カノン。もう二度と聞けない美しい曲と、同じ名前だ。


 私の毎日は、カノンを中心に回るようになった。カノンはニコラにそっくりの、美しい女の子だった。幼い頃から目鼻立ちがくっきりしていて、どれほどの美貌になるのだろうかと、将来が楽しみでもあり、恐ろしくもあった。

 ニコラと二人、カノンの成長に一喜一憂し、毎日がめまぐるしく過ぎていった。


 その間、アデルはゆっくりと、精神を病んでいった。


「オズワルドは王の器じゃ無い。あれは、王にしてはいけない。国のことなど、民のことなど、何一つ考えていない。悪党どもの傀儡にしかならないに決まってる。今だってそうだ。天才だと持て囃されて、いい気になっているだけの子どもだ」

「アデル……? どうしたの?」

「そもそも、オズなどを王にしてたまるものか」


 次第に、会話が成り立たなくなっていった。


 アデルの話では、オズワルドは、国王陛下にも、母親であった先代の王妃にも似ておらず、建国王オズにそっくりであるらしい。

 かつて自分を殺した男に似た顔を、毎日のように見ているからだろうか。アデルは――東の魔女は、ゆっくりと心を蝕まれていった。


「あの物語がいい」


 アデルはある日、そう言った。


「イザベル、彼を失脚させましょう」

「――え?」

「オズパレードの日に、胸元のエメラルドを狙って魔法をかけてくれない? 子どもの姿をしているから、魔力が暴発したみたいにしてほしいの」

「そんな危ないこと、できないわ」

「命を奪うわけじゃないわ。オズと、周りの何人かが怪我をする程度でいいから。その後は、あの男に責任を取らせればいいわ」

「アデル、何を言っているの?」

「きっと大丈夫。上手くいくわ。あれは王にならない。王になるのは、レオンハルトだもの。私たちは何一つ間違っていない。国のために、正しいことをするのよ」

「でも……っ」

「お願い、イザベル。西の魔女である、あなたにしか頼めないの」


 ――その先は、地獄だった。



「ねえ、お母様。お父様ったら、はしゃぎすぎていないかしら」


 カノンはいたずらっぽい顔をしながら、窓の外へと目を向けていた。


「そうかもしれないわね」


 カノンの予想通り、ニコラの両手は美味しそうな食べ物で塞がっている。仕事はどうしたのと思うくらい、部下たちと笑い合っていた。


「カノンは、本当に行かなくてよかったの?」


 私は突然、高熱を出して倒れたことになっていた。私が外に出られないなんて、カノンは知らない。事前にニコラと考えておいた嘘だ。


「いいの」


 カノンは私を心配して、家に残ると言ってくれた。


「ほんとに?」


 あの場所で、これから小さな魔法の暴発が起こる。万が一にも巻き込まれて、怪我でもしてしまったら。そう考えるだけでクラクラする。正直なところ、家にいてくれてほっとしていた。


「ほんとよ」

「そう?」


 雲一つない、気持ちのいいお天気の日だった。暖かい日差しに、カノンは眠そうに目を擦った。


「もうすぐ、パレードの時間ね」


 カノンの頭に、手を伸ばす。彼女を眠らせないといけない。


「パレードは、少し、見たかったかも」


 魔力を込めて、優しく、頭を撫でる。彼女の頭が、ゆっくりと傾いていく。


「お母様、良いオズの日を」


 その言葉に、返事はできなかった。




 爆発の瞬間、アデルは驚いたように目を丸くしていた。


 エメラルドグリーンがぱっと光って、その時に気づいた。近くに、レオンハルト殿下がいたのだ。彼の小さな体が吹き飛ばされて、咄嗟に黒髪の男の子が庇う。そのまま建物に激しく叩きつけられ、喉の奥から声にならない悲鳴が出る。絶望的な光景に、全身から血の気が引いた。


「カノン!」


 ――どうしよう。どうして、こんなことに。

 この子だけは、私の命に替えても守らなくてはいけない。


「カノン、大丈夫、大丈夫よ」


 彼女の背中を撫で、大丈夫だと繰り返した。カノンに言い聞かせながら、自分に向かって唱えていた。

 爆音が轟き、地面が揺れる。ティーカップが床に叩きつけられ、砕け散る。大丈夫なことなんて、何一つなかった。


 私は西の魔女だ。

 生きているだけで疫病を撒き散らし、災害を起こす、最悪の魔女だ。ただ生きているだけで人を傷つける私が、意図的に他者を害そうとしたのだから――こうなるのも、当然のことじゃないか。


 窓の外へ、目を向ける。

 逃げ惑う人々。

 崩れていく建物。

 燃え盛る火と、黒い煙。

 何人分とも分からない血の跡。

 誰のものとも分からない手足。

 絶命した人、亡骸のそばで泣き叫ぶ人。

 どこを見ても、地獄としか言いようのない光景が広がっていた。


 一度は目を逸らしたレオンハルトたちへと目を向ける。アデルが駆け寄って、王子殿下を抱きしめていた。殿下は何か答えていて――生きているようだった。


 安堵して、オズワルドを探した。彼は爆発の中心にいた。絶望的な状況だった。とても生きているとは思えないけれど、探さずにはいられなかった。

 彼はすぐに見つかった。爆心地に立ったまま、あちこちに魔法をかけ、被害を最小限に抑えようとしているようだった。


 そこでようやく、気づいた。緑の美しい光は、王都中を覆うように照らしたのは、オズワルドが鳴らした警報だ。人々を守ろうとした光だ。


 それに、オズワルドだけじゃない。騎士が、宮廷魔術師が民を守って――そして、散っていった。


 彼らをじっと見つめていたら、オズワルドが――その小さな子どもが、私の方を見た気がした。目が合ったようなその瞬間、天啓のような、救いの光が降り注ぐようなあの感覚を、また思い出した。


 つうっと、涙が頬を伝う。アデルが言っていたことは本当だった。


 ――やっぱりあなた、オズなんじゃない。

 オズは人を殺さない。神様なんてたいそうな存在のくせに、オズは人の味方だ。千年前も、オズは魔女しか殺さなかった。


 心を蝕まれていったアデルの様子を見るに、東の魔女の最期は凄惨なものだったのだろうか。


 西の魔女の最期は穏やかだった。殺してください、とオズに頭を垂れたのだから。


 私は一度だって、私の意志で魔法を使わなかった。ただ生きているだけで疫病を撒き散らし、災害を引き起こした。

 私はもう、私のせいで苦しむ人たちを見たくありません。

 だから、どうか、とオズに願った。

 死は一瞬のことで、星が瞬いて、花がそよいだ。




 それからの日々は、生きた心地がしなかった。

 私は、なんてことをしてしまったのだろう。

 生まれてすぐに木箱に閉じ込められたって文句の一つも言えないほどに、罪人だ。


 息をしてることすら烏滸がましい。のうのうと生きている自分のことが許せない。そのくせ怖くて罪の告白もできず、ただ毎日を過ごしている。私こそが死ぬべき人間だったのに。どうして。


 怪我をしたニコラが私の心配をしてくれるたびに、泣いて部屋に閉じこもったカノンのことを思うたびに、私の存在を、ただただ、後悔した。


 いっそのこと、誰かが私を裁いてくれたらいいのに。どうか。誰か。オズ様。

 やっぱり西の魔女は、外に出てはいけなかった。



 城の向こう――アデルは、笑って、泣いて、叫んで、最後にはいつも、暗く沈んでいた。常軌を逸していた。


 ああ。たくさんの民を、ころしてしまった。ちがう。わたしじゃない。ころしたのは、わたしじゃない。イザベルでもない。――悪いのはぜんぶ、オズワルドだ。


 もっと早く、こんな馬鹿げたことをする前に、気付けばよかった。認めていればよかった。

 アデルは、狂っている。

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