魔女の追憶1

 物心がついた頃には、狭くて、暗いところにいた。


 田舎の村の隅っこの、誰も通らないような路地裏にぽつんと置いてある木箱。それが私の家だった。

 顔も知らない母親は、産んだばかりの私を木箱に押し込み、捨てたのだろう。

 そこには誰も来なかった。何日も、何年も、私は動かなかった。そうすることには慣れていた。私は昔から、動かずに暮らしていた。


 木箱の中で息を潜めていたある日、突然、光が差した。

 綺麗な格好をした人たちが、私を木箱の中から取り出して、馬車に乗せた。彼らは名乗らなかったけれど、オキデンス公爵家の人たちだということは、記憶が教えてくれた。


 やわらかなパンと、みずみずしい果物を差し出され、生まれて初めて食事をした。

 その日、私は初めて喋った。今まで話し相手はいなかったけれど、言葉は知っていた。

 パンも果実もおいしかった、生まれて初めての食事をしたと伝えると、オキデンス公爵は、ひとこと、おぞましいとだけ言った。

 その表情に見覚えがあったから、いつものように尋ねた。


 西の魔女は初めて?




 連れて行かれた部屋は、うんざりするほど、見覚えがあった。何十年も、何百年も、過ごした部屋だ。

 サイハテの部屋、と呼ばれているらしい。どうしてそんな名前なのかは知らない。だけど、間違いなくここは、世界の最果てだ。




 そのまま、何年が過ぎただろう。


「私、アデル。あなたは?」


 重たい木の扉の向こうからその少女が顔を出した時、私は、失った半身を取り戻したような気持ちになった。


「私、名前がないの」

「それじゃあ私がつけてあげる。そうね、イザベルなんてどう?」


 その日から私は、イザベルになった。

 アデルはきれいな服を着た、美しい女の子だった。彼女の姿は、まるでお姫様のようだった。


 でも、アデルはお姫様じゃない。

 一目見た時に分かった。彼女は東の魔女だ。今度は、貴族に生まれたんだ。きれいな服を着て、外を自由に歩いている。アデルはきっと、生まれたその瞬間からずっと、魔女であることを隠しているんだ。


 アデルは賢い。


 私も、何年も木箱の中になんていないで、そうすればよかったんだ。




 アデルと二人で、たくさんの話をした。

 エスメロード王がどうとか、貴族がどうとか、果ては、偶然見てしまった遠くの国の王女の失恋。私たちにしか知り得ないすべてで、笑い合った。


 楽しい日々だった。


 そんなある日、突然、部屋に知らない女性が現れた。

 扉から入って来たわけではなく、彼女はサイハテの部屋を訪れたのだ。


 彼女は、サイハラ・フーガと名乗った。こことは違う世界から来た、と言った。

 フーガはエスメロードの言葉を流暢に喋った。彼女は以前この世界に迷い込んだことがあり、それ以来、行き来が出来るようになったと言っていた。


 彼女はよく喋り、よく笑う人だった。部屋に置いてあるピアノを弾いて、歌った。アデルと私も、彼女の伴奏に合わせて、何語かも分からない曲を歌った。

 いつしか、アデルとフーガと私の三人は、物語を描き始めた。


「ヒロインは、イザベルみたいな子がいいわ。心優しい、美しい女の子」

「イザベルは何がしたい?」


 きらきらの笑顔で尋ねてくる二人に、おずおずと答えた。


「お祭りに行きたい」


 だっていつも、私はこの狭くて暗くて冷たい部屋から、にぎやかなお祭りを、みんなの笑顔を、見ているだけなのだもの。


「オズパレード、近くで見てみたい。いつも遠くから見てるだけだから」


 アデルが一瞬、表情を曇らせる。


「だめだった……?」


 おそるおそる尋ねる私に、彼女はぱっと笑顔を作った。


「そうね! 女の子はオズパレードに行って、お祭りを楽しむの」


 アデルは紙に書き加えていく。フーガが横から、さらに書き加えた。


「……そこで事故が起こるのよ」

「フーガ! なんてことを書くの!」


 フーガはにやりと、何か企んでいるような顔をしていた。


「事故に王子様が巻き込まれて」

「ええっ」

「イザベルが助けるの」


 フーガはスラスラとペンを走らせ、とんでもないことを書いていく。


「私、治癒魔法なんて使えないよ」


 西の魔女は、他人を傷つけることしかできないのに。


「いいじゃない、物語の中なんだもの」


 フーガは、からっとおひさまみたいに笑った。彼女の笑顔を見ていると、心の奥底から、ぽかぽか暖かくなる。


「うん。それはいいね」


 気づけば、私も笑って頷いていた。


「いろんな人に、私がいることを許してもらえる」


 私たちは三人揃うたびに、続きを書いた。


 事故を起こした首謀者の兄王子なんてものが生まれ、女の子と王子様の恋路を邪魔する悪女が生まれ――。紙の上で、何故か次から次に試練を与えてくるフーガと、女の子を不幸にしたくないアデルの攻防は続き――三人で笑いながら、時に言い争いながら物語を綴った。



 何度も何度も、その物語を読み返した。本棚にあるどの物語よりも、難しそうな本よりも、私たちの拙い物語の方が素晴らしいものに思えた。


 木の扉の向こうから見知らぬ男の子が現れたとき、私は何度目かも分からない物語の余韻に浸り、目を潤ませていた。


 彼は、ニコラ・オキデンスと名乗った。オキデンス家と聞いて初めは警戒したけれど――彼はその日から、たびたび私の部屋を訪れるようになった。

 彼は冷たい容貌だけれど、人懐っこい笑い方をする人だった。よく外の世界の話をしてくれた。父親――オキデンス公爵の愚痴なんかも、面白おかしく話していた。


 彼と話していると楽しくて、いつしか、私の王子様はニコラがいい、と思うようになっていた。




「この部屋から出ることになったの」


 そう伝えた時、フーガは目に涙を浮かべ、嬉しそうに笑った。


「ニコラが連れ出してくれるって。だからもう、フーガとは会えない」

「うん。うん。いいよ。よかったね、イザベル」

「今までありがとう、フーガ」


 私たちは抱き合って、お別れの日を喜んだ。


「最後にまた、ピアノを聴かせて」

「私が一番好きな曲でいい?」

「うん。私もあの曲が、一番好き」


 フーガは魔法を使えないのに、鍵盤の上をなめらかに滑る彼女の指は、紡ぎ出される旋律は、美しい音色は、いつだって魔法のようだった。


「イザベル、曲にもね、名前があるの」


 鍵盤から指を離し、フーガが言う。優しい目をしていた。


「その曲の名前は?」


 彼女はピアノの蓋を下ろし、大事そうに、そうっと撫でた。


「カノンよ」


 フーガは私の方を向いた。泣きそうな顔で、にこりと微笑む。


「綺麗な名前ね」


 素直に、そう思った。


「もしも私に子どもが生まれたら、カノンと名付けようかしら」


 フーガは目を丸くして、それから、おひさまみたいな笑顔で頷いた。


「私も娘に、カノンと名付けたの」

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