サイハテの部屋2

 ブランが深く、息を吐いた。それはため息なのか、安堵なのか、分からなかった。


「一先ず、誰もいなくてよかったです」


 そう言って、杖を持った手で、ぐいっと額に滲んだ汗を拭う。


「相手が西の魔女で、いきなり攻撃されたらどうしようかと思っていました」

「誰もいないってことは、当代の西の魔女はいないってこと?」

「どうでしょうか。そもそも、サイハテの部屋から外に魔法は届かないそうですから、この部屋にいては事故なんて起こせません」

「そうよね。うーん。一時的に外に出されたとか? それだと、今いなくちゃおかしいか……」

「もしくは、事故以前に逃げ出していたとか」

「当代の魔女がまだ見つかっていなくて、幽閉されていないとか?」

「生まれ変わりなんて本当はない、とか」


 ブランは本棚を眺め、一冊を取り出した。パラパラとめくって、元に戻す。


「可能性を上げ出したらキリがありませんが――一応、この部屋を探してみましょう。もしここに当代の魔女がいたとしたら、手がかりくらいは残っているかもしれません」


 ブランにこくりと頷いて、再び、探索は始まった。

 ぐるりと部屋を見渡して、一番気になるのはやっぱり、ピアノだった。牢獄にピアノなんて異様すぎる。それも、クリスタルのグランドピアノだ。

 鍵盤蓋を持ち上げ、そうっと白鍵を押す。ポン、と高い音が鳴った。


「ピアノ、弾けるんですか?」

「一曲だけ」


 カノンとして生まれてから、一度も弾いたことはない。

 花心音だったころ、お母さんはたまにピアノを弾いた。うちにあったのは、こんなに上等なものではなくて、小さなキーボードだったけれど。そのうち、母に教わりながら、一緒に弾くようになった。


「聞きたいです」

「……もう覚えてないよ」


 蓋を閉じる。この世界にはない曲を、弾けない。

『あなたの名前の曲よ』

 お母さんの声が微かに蘇った気がして、目を閉じた。顔ももう、ぼんやりとしか思い出せない。

 それよりも今は、何か、手がかりを探さないと。


「ブラン、私も一緒に本棚を探すわ」

「では僕は上の方を探します。姉さんは手が届く範囲をお願いします」


 梯子の強度を確かめながらブランが言う。


「わかったわ。気をつけてね」

「はい」


 本はたくさんあった。高い壁の上の方までぎっしりと壁一面を埋め尽くしていて、いったい何冊あるのか分からない。ぱっと見ただけでも、難しそうな学術書から、古い専門書、子どもが読むような魔法の入門書、家庭料理のレシピ本、ラブロマンス物語まで――あらゆるジャンルの本が置いてある。


「たぶん、この部屋には、たくさんの人がいたのね」


 人の数だけ、読む本は違う。そうして本は増えた。ピアノもきっとそうだ。いつかの西の魔女のために、この部屋に運ばれたのだろう。


 一冊手に取る。ドラゴンに乗って世界を飛び回る、冒険者の物語だった。この狭い部屋で一緒を過ごした魔女たちは、どんな気持ちで、この物語を読んだのだろう。ぱらぱらとめくると、本の余白に、何か書いてあった。


「メアリーは不倫している」

 他の本にもあった。

「レティシアは悪くない」「ジャレッドはもう呆けている」「司祭は最悪の人間」「ノエルは世界一格好いい」

 様々な筆跡、口調で、そう書いてあった。


「――ここからでも、見えていたんだ」


 牢獄の向こう、オキデンス家も超えて――もしかしたら、国をも超えて、その先も、ずっと見えていたのかもしれない。

 引き出した数冊の本を戻そうとしたとき、それに気づいた。


「――ん?」


 本棚の奥――他の本で隠すように、紙の束があった。取り出してみると、紙束を紐で綴じた簡素な本のようだった。表紙も裏表紙も真っ白で、何も書かれていない。表紙をめくって、はっと息を呑む。


「姉さん? 何かあったんですか?」


 下りてきたブランが、私の手元を覗き込む。


「これ……」


 紙束を持つ手が、震えていた。


「姉さん? どうしましたか? 怖い顔をしていますよ」


 中身は手書きで綴られた物語だった。筆跡から見て、一人で書いたものではない。


「――これは」


 ブランが息を呑む。だってそこは、冒頭――オズパレードの魔法爆発事故のシーンだ。


 登場人物の名前も、国名も出てこない。平民の女の子と、王子様の恋を描いた未完の物語。これは――このエスメロード語で書かれた手書きの物語は、『サイハテのオズ』だ。


 ぱらぱらとページをめくる。最後のページには、筆者と思われる三人の名前が、それぞれの筆跡で書かれていた。


  フーガ

  アデル

  イザベル


「この字……」


 ブランが、愕然と呟く。

 物語を読んでいる時から、ずっと、嘘であってほしいと思っていた。気のせいであってほしいと、願っていた。


 イザベルの筆跡は――お母様の、イザベル・オキデンスのものだ。


「ここにいたのは、西の魔女は――お母様、なのでしょうか」


 ブランに返事ができないまま、涙を堪えて紙束を抱きしめた。




   ◇◆◇




 どうやって部屋に戻ったのか分からない。いつの間にか私は自室に戻っていて、ソファーに沈み込んでいた。いつもは向かい合って座る私たちが、今夜だけは、同じソファーの端と端に腰を下ろしていた。


 無意識のうちに付けたランタンから、オレンジ色の星空が降り注いでいる。


「見なかったことにしませんか」


 私が抱きしめている紙束を横目に見て、ブランが呟いた。


「そうしたら、殿下がずっと囚われたままになってしまう」

「――それじゃあ」


 俯いていたブランが顔を上げた。


「一緒に逃げませんか」


 私を見つめるブランの金色の瞳が、星の光を吸い込んで揺れていた。

 お母様が西の魔女で、オズパレードの魔法爆発事故を起こしたのだとしたら、その罰は、お母様だけのものじゃ無い。一族郎党処罰を受けて、オキデンス家は、きっと、なくなってしまう。


 明日からその先がずっと、真っ黒に塗り潰されたようだった。


 つうっと涙が頬を伝う。

 ブランの隣に座っていてよかった。


 泣きたいのは、泣いてもいいのは、ブランだ。加害者の娘が、被害者の前で泣くなんて、そんなこと、許されるわけがない。


「僕は」


 ブランが、ぽつぽつと話し始めた。


「ランタンの星空を見た時、初めて、生きていてよかったと思いました」


 ぼろぼろと、涙が溢れて止まらなかった。ブランに気づかれたくないのに、どれだけ堪えても、涙は溢れた。拭う動作も見せられなくて、ただ、じっと流れていく涙を数えていた。


「私は……」


 生きていてよかったなんて、思ったことがあっただろうか。

 生まれ変わって、カノンになってもずっと、目の前には、首を吊った花心音の輪があった。

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