かのんの輪3

「きゃあああああああああああっ」


 悲鳴を上げながら、がばっと起き上がる。


「カノンっ!?」


 心臓がどくどくと嫌な音を立てていた。呼吸は乱れ、体は汗ばんでいる。熱いのか、冷えきっているのか、わからない。体は震えていた。


「あ……ああ……」


 体の奥底から、恐怖が噴き出していた。


 ――こわい。こわい。こわいこわいこわいこわいこわい。

 だって、こんなにはっきり、覚えている。思い出してしまった。

 死の瞬間と、その恐怖。


「私、なんてことを……っ」


 前世の私は――西原花心音は、首を吊って自殺した。その恐怖と痛みが鮮明に蘇ってくる。


「ふうっ……ふっ、ううぅっ……」


 ぼたぼたと目から涙が溢れていた。次から次にあふれて、止まらなくなる。呼吸がどんどん早くなって、酸素が足りないみたいに、苦しくなる。地上にいるのに、溺れそうに、もがく。


「カノン、落ち着いて」


 優しい手が、背中を撫でた。


「目を閉じて。ゆっくり、息を吸って。うん、上手だよ。ゆっくり、吐いて――……。大丈夫、大丈夫だからね」


 目を閉じて――なんとか、呼吸を繰り返す。吸って、吐いて、吸って、吐いて――……。


 恐怖で霞んだ視界の中に、目の覚めるような、まばゆい青があった。

 一度見たら忘れないその青を、誰よりも優しいその人を、私はよく知っている。


「……レオン?」

「うん。そうだよ」


 レオンは私の手を握っていた。汗ばんでいて気持ち悪いはずなのに、そんな素振りも見せず、握っていてくれていた。


 落ち着いてあたりを見渡せば――ここは、医務室のベッドだった。他に人の姿はなく、レオンと二人きりだった。もしかして、ずっとそばに付いていてくれたのだろうか。


「少しは落ち着いた?」

「うん。ごめんなさい、私……」

「謝らなくていいよ」


 レオンがひどく優しい手つきで背中を撫でてくれる。その手があまりにも優しくて、暖かくて、またぼろぼろと涙がこぼれた。


「怖い夢、見てたの」

「うん」


 レオンはただ頷きながら、そばにいて、話を聞いてくれた。


「みんなに嫌われて、ひとりぼっちになって」

「うん」

「最後は、自分のことを殺す夢」

「それはすごく、怖かったね」


 レオンの手が背中から離れていく。名残惜しく追いかけていると、彼はそっとハンカチを差し出してくれた。


「……ありがとう」


 ハンカチを受け取って、目に押し当てる。


「レオンって、私が泣いてるといつも、ハンカチを貸してくれるね」


 オズワルド殿下の葬儀で人目をはばらず泣いていた私にも。

 レオンの誕生パーティーで涙が止まらなくなった私にも。


「覚えてる?」

「カノンが覚えてることは、俺も覚えてるよ」

「ふふ。レオンのハンカチって、やわらかくて、ひんやりしてて、すべすべで気持ちいい」

「王家御用達だからね」

「王家のハンカチ、目に優しい」

「それはよかった」


 ふわっと微笑んだレオンは、それから、ぽつりと言った。


「カノンのことを嫌ってる人なんていないよ」

「そうかなあ……。私、友達いないよ?」

「俺たちがいつも近くにいるから、ちょっと話しかけづらいのかもね」

「それは……あるかもしれない。私、五年生になるまで気づかなかった」

「でも俺たちがそばにいるから、一人ぼっちにはならないよ」


 その言葉にはっとなって、レオンを見つめた。彼は穏やかな瞳をやさしく細めて、見守るように私を見ていた。


「それも、そうだね」


 レオンの暖かい言葉に、頬が緩む。こわばっていた心が、ゆっくりとほぐされていくようだった。


「ああ、でも。アリアさんには嫌われちゃったかも。いきなり倒れて、迷惑かけちゃった」

「それはたぶん大丈夫だよ。ここまで運んできてくれたの、セプテントさんだから」

「え?」

「すごいよ、お姫様抱っこだった」

「アリアさんって王子様だったの?」

「そうだよ。あの子が編入してきてから追っかけが減ったくらいだから」


 レオンがあまりにも平然と嘘をつくものだから、思わず笑ってしまった。


「レオンの治癒魔法って、悪夢にも効くのかな?」

「どうだろう」


 彼はそう言って、首を傾げるけれど。


「……でも少しだけ、心は軽くなったよ」


 確かに、心の底に溜まっていた澱みみたいなものが、息ができるくらいまで晴れたような気がした。


「そっか。よかった。これでおあいこだ」


 レオンがふにゃっと笑う。


「俺も、カノンに心を軽くしてもらったから」


 その笑顔があまりにも優しくて、眩しくして、ずしんと心に沁みた。

 本当はずっと、罪悪感があった。見ないふりをして、押し込んで。

 レオンに隠していること。私だけ、知っていること。


 オズワルド殿下が、本当は生きていること。


「――あの、レオン」


 別に、今言わなくてもいいんじゃないか。今は、レオンに優しくしてもらってもいいんじゃないか。そんな考えが頭をよぎる。


 罪悪感はあるのに、レオンに話すことだって怖かった。

 だって私が同じことをされたら、どうして教えてくれなかったの、って責めるに違いないから。


 五年も、黙ったままなのだ。こんなの、レオンに嫌われたって、おかしくない。

 黙り込む私を、レオンがじっと見つめていた。話せるようになるまで待っていてくれているのがわかって、なんとか口を開く。


「オズワルド殿下のこと、なんだけど……っ」


 口をはくはくさせ、何度も吃りながら言う。


「兄上?」


 レオンが目をぱちくりさせる。


「実は――」


 私が口を開くと同時に、がらっと医務室の扉が開いた。


「姉さん! 目が覚めたんですね!」


 部屋に飛び込んできたのはブランだった。その後ろから、モス先生が姿を現す。


「あ。オキデンスさん、目が覚めたんだ」

「ちょうど目を覚ましたところです」


 レオンが立ち上がり、するりと手が離れていく。


「そう。よかった。もう平気? 痛いところはない?」


 モス先生が暖かい飲み物を差し出しながら、目線を合わせてくる。


「はい。もう大丈夫です。ご迷惑おかけして、すみません」


 マグカップを受け取って、一口飲む。優しい甘さのお茶だった。

 ほっと一息ついてようやく、疑問に思った。


「みんな授業中じゃないの?」

「もう放課後」


 遅れて医務室に入ってきたアックスが言った。

 時計を見ると、一日の終業の鐘が鳴る時間だった。授業が終わってすぐ、駆けつけてくれたらしい。


「姉さんが倒れたところにちょうど、アリアさんが居てくれてよかったです」


 ――あ。そういうことになってるんだ。ちらりとアックスを見上げると、無言のまま小さく頷いた。

 平民である彼女が、公爵令嬢を呼び出して、結果倒れられたなんて言えないもの。


「もう帰りましょう。動けそうですか? 僕が運びましょうか?」

「えっ?! いいよ! 重いよ!」

「アリアさんでも運べるんですから、僕が運べないはずないでしょう」

「何でそんな張り合おうとするの?」

「僕だって鍛えてるんです」


 その衝撃の発言に、ぎょっと目を見開く。


「ブラン、鍛えてるの……?」


 私の形相に、一瞬ブランが身じろいだ。

「え、ええ。アックスさんと……」

「嫌だっ!」


 追い縋るようにブランの手を取る。


「私の可愛いブランが、アックスみたいになったら嫌だっ!」

「カノンそれどういう意味?」


 アックスの冷たい声を、背後に聞いた。




   ◇◆◇




「あの、さっき少し、聞こえてしまったんですが」


 帰りの馬車に乗り込んですぐ、ブランが口を開いた。


「姉さん、オズワルド殿下のこと、レオン殿下に話そうとしていましたよね」

「――あ。うん。聞こえてた?」

「はい。立ち聞きしてしまって、すみません。その上、邪魔をしてしまいました。その……、一緒にモス先生もいたので」

「ううん! いいの。気にしないで、ブラン!」

「でも……」

「怖い夢を見て、気が動転してたの。レオンが優しくて、オズワルド殿下のことを隠している罪悪感が、急に大きくなって」


 目を伏せる私を、ブランがじっと見つめていた。


「ずっと不思議に思ってたんですけど。姉さんって、優しくされると、困ったような顔をしますよね」

「――えっ」


 そんなこと、初めて言われた。


「はい。子供のころ、貴族って、優遇されて当然みたいな、媚び諂われて、親切にされて当然みたいな、そんな人たちばっかりだと思ってたんです」

「うーん。まあ、そうかも……?」

「でもオキデンス家の人たちは違いました。引き取られて初めて、そんな人たちばかりじゃないんだって気づいたんです。その中でも、姉さんは特に貴族のイメージから大きく外れていたというか。親切にされると――相手がレオン殿下でも、僕でも、使用人でも、いつも遠慮がちに困った顔をしていました」


 今まで全然意識していなかったことを言われて、どんな顔だろうかと顔を揉む。


「優しくされて罪悪感を覚えるなんて、面倒な人ですよね」

「面倒って……」

「僕もレオン殿下に罪悪感を感じることがありますよ。でも、優しくされたらそのまま受け取ります。図太いので」


 その言葉に、ぎょっと目を見開く。


「……そんなことしていいの?」


 おそるおそる尋ねる私に、ブランはくすっと笑った。


「いいんですよ」

「そう、かなあ……」


 両手で顔を覆って、俯く。


「でも隠し事、それもこんな大変なことを隠してて、私、レオンに嫌われちゃうよね」


 あの時何度も吃って、言葉にできなかったのは怖かったからだ。


「姉さんは――レオンハルト殿下に嫌われることと、殿下に真実を打ち明けること、どっちの方が大事だと思いますか?」


 ブランは真剣な顔をしていた。彼の言葉にはっとする。


「……そうよね」

「殿下に伝えるときは、僕も一緒に行きますから」

「うん」

「怒られたときは、一緒に謝ります」

「――うん。ありがとう、ブラン」


 ブランに、にっこりと笑う。優しく手を差し伸べてくれたのだから、素直に受け取ろう。そう思ったのに、顔は少し、引き攣るように痛かった。


「ふふ。変な顔」

「っ、あはははっ」


 ブランが笑って、私もようやく、きちんと笑えた。

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