かのんの輪2

 最後に見たものは、縄。

 わっかになっていて、天井からぶら下がっている。


 遺書も書いた。名前もきちんと書いた。

 西原花心音。

 私の名前の漢字は、書くのは簡単だけど、読むのは難しい。

 ――さいはら、かのん。


 私の名前は、お母さんが付けてくれた。漢字で書くと、無理やり読ませるような名前だけど、お気に入りだ。

 お母さんが頭を悩ませて付けてくれたことが、なんとなく分かったから。

 ……それなのに。


 私みたいな生き物のことを、オヤフコウっていうのかな。




 西原花心音は、人生のほとんどの時間を家で過ごした。


 外には恐怖しかなかったからだ。最後に外に出たのは、小学一年生の頃だった。私の珍しいところは、読めない名前だけじゃない。


 瞳の色が、違った。


「あなたの瞳は、心を揺さぶる不吉な色だわ」


 小学校に入学してすぐの頃、そう言ったのは担任の先生だった。彼女はそれっきり、私を見なかった。


 不気味な瞳を一目見ようと、クラスに人が押し寄せた。一年生だけではなくて、上級生もいた。諫める立場の先生たちでさえも、好奇心が隠しきれていなかった。不愉快そうに、顔を歪めた。子どもたちと同じように。


 取り囲まれた西原花心音は恐怖した。私を見下ろす全ての眼が、この世の何よりも冷たかった。


「気持ち悪い」


 意地悪でも何でもなく、心の底からそう思っている無邪気な声が心を抉った。


「こっちを見るな」


 目の前の、名前も知らない少年が、私を乱暴に突き飛ばした。倒れても、頭を打っても、体も心も、あちこち全てが痛くても、手を差し伸べてくれる人はいなかった。

 ぎゅっと、目を閉じた。


「呪われる」

「化け物」


 両手で、耳を塞いだ。

 ねえ、私の目、そんなに悪いの?

 心をうんと、冷たくした。

 誰のことも見ないし、話さない。誰にも優しくしたりしない。

 もう傷つくところもないくらいボロボロなのに、傷つくのが怖かった。




 それっきり、学校に行かなかった。

 お母さんは、私を咎めたりしなかった。泣きじゃくる私を抱きしめて、それから、その目を覗き込んだ。うっとりと、大切そうに。


「花心音の瞳は、とってもきれいな色よ」


 そう言う唯一の人だった。


 花心音に父親はいなかった。誰かもわからなかった。その上瞳の色は、誰とも違う不吉な色。生まれたその瞬間から、歓迎されない子どもだった。


「化け物と交わった売女」


 そう言われて、お母さんは勘当された。

 知らない土地に引っ越して、その先でも、同じことを言われた。


「化け物と交わった淫乱女」

「化け物の子ども」


 その噂は行く先々で広まって、親子二人で隠れるようにひっそりと暮らした。




 それから月日は流れ、西原花心音は十四歳になった。

 家の外に出ることは一度もない。ただただ、物語の世界に没頭した。とりわけ好きなのはファンタジーだった。魔法に、架空の生き物、現実とは違う世界に心が躍った。


 何より、その色彩が良かった。緑の瞳も、青の瞳も、赤の瞳も、あたりまえのように在る。

 本棚はいつだって、色彩豊かな本であふれていた。

 そんな、ある日のことだった。



 とつぜん、母はいなくなった。



 西原花心音はそれを、ごくごく自然のことのように受け止めた。

 だって、お母さんの人生をめちゃくちゃにしたのは、花心音だったから。いつか、こんな日が来るんじゃないかと、心の隅っこの方で思っていた。

 ――そうじゃなくちゃいけないと、思っていた。


 だって、お母さん一人なら、誰にも怒られずに生きていける。

 酷いことも言われない。

 傷つかなくて済む。

 何も返せない私に、優しくしなくていい。

 だから、正しいことだ。


 覚悟はしていたのに、涙が次から次へと溢れて、止まらなかった。

 捨てられた。

 その事実に、涙が止まらなかった。


 毎日、毎日、泣きながら暮らした。泣き疲れて眠り、起きてはまた、泣く。こんなに悲しくて辛いのに、お腹がすくのが、心の底から嫌だった。西原花心音は――私は、泣いて、泣いて、泣きじゃくって、時折何かを食べて、泣いて、泣いて、泣いて、暮らした。そして、食料は尽きた。当然だった。お母さんは、いないのだから。


 外に出たら焦げてしまいそうなほど、暑い日だった。繰り返し、繰り返し、何度も読んだ物語を手に取った。大切に、一ページ、めくる。


『サイハテのオズ』


 物語の舞台は架空の国、エスメロード王国。剣と魔法のファンタジー世界での、運命の恋。――それから、色鮮やかな、登場人物たち。


 平民だと肩身の狭い思いをしながらも、いつだって一生懸命な主人公アリア。そんな彼女に恋をする、レオンハルト王子。親切ないい友人かと思いきや、一癖も二癖もあるブラン。どうしたって好きになれないのに、名前のせいで妙に気になってしまう悪役のカノン。


 それから――プロローグで死んで、みんなの心に深い傷を負わせる、オズワルド。

 冒頭で亡くなってしまうのに、その存在感は、最後まで揺るがない。回想でしか出てこない、私がいちばん好きな登場人物。


 この世でいちばん大好きな、物語。

 ――ああ、でも。オズワルドが幸せになってくれたら、もっと、もっと、好きだったかもしれない。


 読み終えた時には、意識が朦朧としていた。空腹だったし、泣き疲れていた。


『サイハテのオズ』は、私が読んだ最後の物語になった。




 もう、餓死するだけだった。放っておいても、死ぬと分かった。

 恐怖は無かった。

 だって、オズワルドは死んだのだ。

 だから。

 その前に、首を吊った。

 いらなかった。


 お母さんがいらないものは、私も、いらない。

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