罪人のピアス3

 ふらふらとした足取りで時計塔を出ると、辺りは真っ暗で人影はなかった。


 日中は暖かい春の日差しが差しているのに、夜の空気はしんと冷たい。白い月が、冷え冷えと私を見下ろしている。


 こんな時間まで、一人で外にいたことはない。お父様が、お母様が心配しているかもしれない。ブランに怒られるかもしれない。使用人たちが、私を探して走り回っているかもしれない。


 そんな考えが浮かんでは、しぼんで消えていく。


 頼りない足取りで、でもなんとか足を進めた。暗い学内には、人の気配がない。不気味なほどに静まり返っている。

 目の前に、ぼんやりとした明かりが見えた。――校門の前に、馬車が一台だけ停まっていた。


 我が家の馬車じゃない。誰もが使える辻馬車だ。


「少し遠いんですが、オキデンス公爵邸までお願いします」


 御者に声をかけ、馬車に乗り込んだ。私が腰掛けたことを確認して、馬車がゆっくりと動き始める。少し硬い椅子に体を預け、目を閉じた。


 今日はいろんなことがあった。ありすぎた。


 入学式のことが随分昔のことみたいに感じる。レオンが新入生代表挨拶をして、アックスと同じクラスで説明を受けて――。オズワルド殿下が、あまりにも残酷な日々を過ごしていて。


 じわ、と涙が滲む。手で乱暴に拭って、ゆっくりと瞼を持ち上げた。


「え」


 声が漏れる。


「こんばんは、カノン」


 私の正面に座る彼は、にっこりと微笑んだ。


「オズワルドに会ってくれてありがとう」


 イーストエッグが、いつの間にか正面に座っていた。


 じっと彼を見る。睨むような目になっていたかもしれないのに、彼は何も言わなかった。


「知ってたの?」


 冷たい牢獄が、頭から離れない。彼は、「何を?」とは言わなかった。


「知ってたよ」


 頭にカッと血が上る。勢いよく詰め寄って、その拍子に馬車が揺れた。


「オズワルド殿下は……世話役がいるって言ってた。水や食事を持ってきたり、エメラルドを回収していくって」


 オズワルド殿下が亡くなった時の姿を模した、イーストエッグを見据える。


「その世話役って、あなた?」


 しばらく、無言で見つめあった。


 先に沈黙を破ったのは彼だった。小さく息を吐いて、はっきり言った。


「違うよ」


 言い切って、気まずそうに目を逸らす。


「ぼくはあの塔に入れない」


 その言い方に、カチンとくる。


「入れないって……!」


 思わず声を荒げてしまった。


「そんなの、誰だってそうだわ!」


 オズワルド殿下のためなら何だってしたい。何だって出来る気持ちでいるけれど――小心者の私に、後から後から不安と恐怖が手を伸ばしてくる。


 入学初日から校則をいくつも破ることになったのだ。見つかったら何を言われるのか、どんな罰を受けるのか、分かったものじゃない。


「私だって、立ち入り禁止の塔に入るの、本当は怖かったのよ」


 イーストエッグは、はっと目を見開いた。


「違う! そうじゃなくて……、あれは本来、立ち入り禁止だったわけじゃないんだよ……」


 両手を組み、はああと深くため息を吐く。その仕草は、幼い姿に似合わないというより、オズワルド殿下の姿にそぐわない。外見と中身が合致していないような――ちぐはぐな印象を受けた。


「あの時計塔は人を選ぶ」

「……塔が?」


 何かの比喩ではなく?


 イーストエッグはこくりと頷いて、続けた。


「あれはオズが建てた塔だ。ここの研究者たちが、入らずにいられるわけがない。そうしないのは、単に、入れないからだ」


 つまり、と言葉を区切って息を吐く。眉間には深い皺が寄っていた。


「塔に認められた人間しか、中に入れない。――認められない人間は、塔に入ったつもりがそのまま放り出されたり、階段を延々と上り続けさせられたりする」


 そこでようやく、気づいた。


 イーストエッグは怒っている。それもたぶん、自分を選ばなかった時計塔に。


 まじまじと見つめていたら、ふいにイーストエッグが顔を上げた。縋るように、私を見上げてくる。


「たまにでいいから、オズワルドに会いに行ってくれないかな?」


 さっきの殿下の様子がフラッシュバックする。


 恐ろしい拘束具に、エメラルドを作り続けさせられる姿。この先ずっと、忘れられそうにない。冷たい牢獄で、一人ぼっちで過ごす彼を思うと、胸が締め付けられる。


「それは……会いに行ってもいいなら、そうしたいけれど……」


 イーストエッグに頼まれていなくたって――それがどんなに悪いことでも、怖いことでも、危ないことだったとしても。相手がオズワルド殿下ならば、私は会いに行ってしまうだろう。


「そっか。ありがとう」

「うん……」


 壁に体を預け、目を閉じる。


 今日は次から次に、色んなことがありすぎた。深く息を吐いて、考え事に没頭する。


 オズワルド殿下が幽閉されたのは――王家の醜聞を隠すためだろうか。でも間違いなく、誰かが殿下の死を偽装して、牢獄に閉じ込めたのだ。そして彼が命を落とすまで魔力を搾り取って、エメラルドにしようとしている。


 事故の悲惨さだって、被害者や遺族の無念だって、分かる。頭では分かっているのに、心の奥底で、モヤモヤとした怒りのようなものが燻っている。


「――ああ」


 一つの考えに思い至って、口から、嘲るような声が漏れた。イーストエッグが、じっと私を見つめている。気づかないふりをして、唇を噛んだ。


 私は、酷い人間かもしれない。この国の貴族で、責任のある立場にいるのに。


「最低だ……」


 私は――それがどんな大罪だったとしても、オズワルド殿下をあの残酷な場所から連れ出したいんだ。


「どうして……私だったの?」


 会いたかった。亡くなったなんて信じたくなかった。生きていてくれて、本当に嬉しかった。大好きだから、嬉しくて、嬉しくて、たまらなかった。なのに。この怒りはどうしようもない。


 ――どうにも、できない。


 自分の気持ちがこんなにぐちゃぐちゃになってしまうのならば、いっそ、会わなければよかった。


 色んな考えや感情が浮かんで、矛盾して、ぶつかり合って、ついにはそんなことすら、考え始めてしまう。


「私ね、魔法ほとんど使えないの」


 口から出た声は、自分でも驚くほどに弱々しいものだった。


「魔力も才能もない落ちこぼれなの。私より優秀な人はたくさんいる。魔法だけじゃない。私より、頭がいい人も、理性的な人も、たくさんいる。殿下に会えてすごく嬉しかったけど、私じゃ、何もできない。何も変わらない。なのに、どうして……っ!」


 新品の制服のスカートを、皺になりそうなくらいぎゅっと握りしめる。涙を堪え俯く私の頭の上から、優しい声が降ってきた。


「今日学校で、ぼくを見つけられた人間が他にいた?」


 今まで聞いたことがないくらい優しい声音だった。


「レオンの誕生日、君とぼくは、目があった。ぼくを見ることができるのは君だけだ」


 ゆっくりと顔を上げる。イーストエッグと、目があった。


「私だけ?」

「そうだよ」


 声が、表情が、あまりにも優しい。イーストエッグの姿が幼いから、なんだか子どもにあやされているようで――少しだけ居た堪れないような気持ちになった。おどけるように、首を傾げる。


「それって……私に霊感があるってこと? イーストエッグは、やっぱりお化けなの? それとも天使?」

「どちらでもないよ」

「だったら、あなたは、何者なの?」


 彼は微笑む。オズワルド殿下とは違う、笑い方。イーストエッグはより幼い姿をしているのに、蠱惑的だ。


「今は答えられないけど……じきに分かるよ」


 またはぐらかされる。なんとなく予想していた答えだった。


「それじゃあ、これだけ聞かせて」


 私の真剣な顔に、彼も居住まいを正した。


「あなたは――イーストエッグは、私たちの味方?」


 彼は目を丸くする。意図していた質問と違ったみたいに、何度か瞬きして、それから安心させるように笑った。


「ぼくはカノンの味方だよ」


 触れないくせに、イーストエッグは恭しく手を伸ばしてくる。何故だか自然と、彼の動きに合わせて腕を持ち上げていた。


 何の感覚もない。


 だけど、イーストエッグは手の甲に口づけをしていた。


「ここからは君に任せるよ。オズワルドのこと、よろしくね」


 呆然とする私に、彼はいたずらっぽくウインクした。


「僕の手助けはここまでだ」

「え――ま、待って!」


 私の声と同時に、ふっ、とイーストエッグの姿が消えた。それからすぐに、馬車が止まる。



 ……家に、着いてしまった。


 私は家族にどれほど心配をかけてしまったんだろう。お説教は、何時間続くんだろう。身震いしながら馬車を降りる。


「あれ……っ?」


 外が、明るい。まるでお昼みたいに。


「え? 何で?」


 門の前で呆然と立ちすくんでいたら、たたた、と足音が近づいてきた。


「姉さん! 早かったですね」


 門番より先に出迎えてくれたブランは、驚いたように目を丸くしていた。


「辻馬車を使ったんですか? 迎えの馬車を出したんですが……入れ違いになってしまいましたね」


 え? え? 頭の中が疑問符でいっぱいで追いつかない。


 ――こんなの、まるで、時間が巻き戻ってしまったみたいだ。


「姉さん? 聞いてますか? 明日からは、ちゃんと迎えの馬車に乗ってください」


 ブランのもっともな言い分に、なんとかこくこく頷いた。

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