ホットミルクとランタンの夜3
ベッドに腰かけたブランは、砂糖とハチミツをたっぷり溶かしたホットミルクを飲んで、ほぅっと息を吐いた。
「おいしい?」
「はい。すごくおいしいです」
「そっか。良かった」
「おねえさまも飲みますか?」
首を傾げてカップを勧めてくる彼は可愛らしいが、笑顔のまま首を横に振って辞退させて頂いた。
彼がかなりの甘党であるという情報を入手していたから、ブラン仕様にこれでもかと砂糖とハチミツを溶かして作ったのだ。とてもじゃないけれど、私には飲めない代物である。
「ブランは夜、よく眠れてる?」
何気なく聞いたことだったけれど、彼は目を見開いて、もごもごと口ごもった。そんな素振りは見せなかったのに、この反応は眠れていないということだろう。
「慣れない環境だと、眠れなくなるわよね」
「……すみません」
「謝る事じゃないよ。こちらこそ、気付かなくてごめんなさい。不自由なところは無い? 何でも言っていいからね」
「い、いえ! 不自由なんて、何一つありません! ごはんもおいしくて、ふとんも暖かくて……逆に怖いくらい、です」
ブランの声がみるみるしぼんでいく。
そんな顔をさせたいわけじゃなかったのに……失敗してしまっただろうか。変なことを聞いたつもりじゃなかったのに、ブランが分からない。思えば、ブランのことはほとんど知らないのだ。
私が知っていることといえば、両親を事故で亡くしたことと、魔法が使えること、ドドドドド甘党なことと、瞳がすごくきれいなこと、あとは天使だってことくらいだ。向かい合って話していたって、ブランが何を考えているか、全然分からなかった。
しょんぼりしそうになって、自分の頬を叩く。ブランが驚くといけないから、くるりと背を向けて、べちんとやった。
仲良し姉弟作戦には、まずは対話! からの、情報収集! よし!
意気込んで、ぐるんっとブランの方を向いた。
「ねえ、ブラン。それじゃあ、もう少し起きていられる?」
「は、はい。大丈夫です」
「眠たくなるまで、お話をしましょうか」
「お話?」
こてんとブランが首を傾げる。可愛い。
「そうね……眠る前だから、内緒のお話なんてどうかな」
ふふんと得意気に笑う。お泊まり会では打ち明け話をすると、相場は決まっているものなのだ。
空っぽになったカップをサイドテーブルに置いて、部屋の明かりを落とした。ランタンの淡いオレンジの光だけが、ぼうっと二人を照らし始める。
「内緒話ですか?」
ブランが声を落としてヒソヒソと尋ねてくるから、私もヒソヒソと答えた。
「秘密を交換するの」
しーっ、と人差し指を口の前に当てる。
「まずは言い出した私からね。――ええと、そうだ! 私の嫌いなものを教えてあげる。誰にも教えたこと無いの。お父様だって、お母様だって知らないのよ」
「おねえさまの、嫌いなもの……」
ブランの耳元で、こっそりと言う。
「実はね、ケーキが苦手なの」
「えぇぇえっ?!」
耳元でキインと響く。ブランがこんなに大きな声を出すのは初めてだ。
「ブランは甘いものが大好きだから、驚いたでしょう」
「おねえさま、ケーキ食べられないんですか?」
「うーんとね……、頑張れば、食べられないわけじゃないの。苦手なだけで。――ほら、誕生日にケーキを用意してくれるでしょう。その時は頑張って食べるけど、本当は好きじゃないの。だから、お父様とお母様には内緒よ?」
ド甘党のブランは若干引き気味だ。「本当に人間か?」みたいな顔をしている。私からするとブランの方が「本当に人間か? 天使なのでは?」という気持ちだ。
「それじゃあ、おねえさまの好きな食べ物は何ですか?」
「舌が悲鳴をあげそうなほど辛いものよ」
「……」
「辛ければ辛いほど良いの」
「……」
ブランの顔が引きつる。「これは人間じゃない」とでも言いたげな顔だ。
「他に、好きなものはないんですか? 食べ物じゃなくても、何でも」
「うーん、そうね、そうだわ!」
手を叩いて、くるりとブランの方を向く。
「本が好き。物語が好きなの。一番好きなのは、ファンタジー。わくわくして眠れなくなっちゃうような、魔法使いの話とか、ハラハラしてページをめくる手が止まらなくなる冒険譚! ちょっと照れちゃうけど、王子様とお姫様の恋愛小説も好きなの」
ブランは目をキラキラさせながら、楽しそうに相槌を打って話を聞いてくれた。だから、ついつい話し過ぎてしまった。
「それに、物語は、髪の色も、目の色も、肌の色も、何だって自由で。目が赤でも青でもピンクでも、髪がすごい色でも、誰もそれが変だなんて言わない。そういうところが好き」
きっとブランには、分からない話だ。この世界では、髪も目も、肌の色も色々あって、当然のように受け入れられている。
ほとんどの人が黒髪黒目の、前に住んでいた場所とは違う。
その頃の私は、周りの人と違うところがあった。人と違うことを許さない場所に住んでいた。だから、ずっと本ばかり読んでいた。そして願っていた。
この人生が、嘘でありますように。
そんなことを考えていたから――気づかないうちに、しゅんと頭が俯いてしまっていた。
「えっと、そのっ! 他には好きなものないんですか?」
私に気を遣ってくれたのか、隣のブランが慌てた様子で言った。
「他に……?」
「はいっ!」
ブランの目は真剣そのものだ。私に興味を持ってくれたのだろうかと嬉しくなって、うっかり口が滑る。
「ブランよ」
「えっ?!」
ブランがぎょっと目を丸くした。
「ぼく、辛くないよ……?」
思わずというふうに漏れた呟きは、いつもの敬語ではなく、素のままの言葉使いだった。もともと平民だった彼は、話すことにさえ緊張しているようだったから、話す言葉一つにもかなり気を使っていたのだろう。
「なあに、それ。まるで、私がブランのこと食べちゃう怪獣みたい」
「えっ……あっ! いや……そんなつもりは……」
顔を青くしながらぶんぶんと首を横に振るブランの顔を、じっと見つめた。
「ふわふわの赤い髪も、きらきらの瞳も、すっごく綺麗で、素敵。大好きだわ」
頬を染め、目をぱちくりさせる。
本を読んだ時に想像したブランよりも、ずっとずっと綺麗だった。目の前にいて、動いて、喋って、血が通っていると思えるからだろうか。ぱあっと内側から輝いてくるような愛らしさがある。
小説のブランは、可愛いというより、かっこいいキャラクターだった。今よりずっと年上で、その上、悪役だ。表面上は人当たりが良い彼だけれど、悪役ポジションなだけあって、冷徹な一面も見せる。
目の前のブランの将来を思うと、今から末恐ろしい。いったいどれほど美しい人になるのだろうか。きっと今みたいに、私の想像を軽く超えちゃうんだろう。
「髪と、目……ですか?」
「それだけじゃないわ。ふくふくの頬っぺたも、お顔ぜーんぶ可愛いわ」
「ぼくの顔が……」
「そうよ。とってもきれいだと思うわ」
「おねえさまは、この顔が好きなんですか?」
「大好きよ!」
自信を持って言い切ると、何故かブランは肩を落とした。
――あっ。私に好きなんて言われても、嬉しくないか……。
おろおろとブランの方を伺っていると、やがてぽつんと呟くように言った。
「ぼくは……、ぼくの顔が嫌いです」
その衝撃たるや、ケーキの比ではない。突然隕石が落ちてきたかと思った。
「正気……?」
「……え?」
「ごめんなさい。取り乱しました」
こほんこほんとわざとらしく咳払いして、冷静を装う。
「どうして、自分の顔が嫌いなの?」
ブランは、話すのを躊躇するかのように黙り込んだ。しばらくの沈黙の後、彼は顔を上げた。それから、ゆっくりと口を開く。
「……ぼくの色、火みたいで」
「火?」
「髪の色も、目の色も」
言われてみると、そうかもしれない。ブランの髪は燃えるような赤毛だし、ゆらめく金色の瞳も相まって、燃え盛る炎を連想させると言えなくもない。
「オズパレードの時、父さんと母さんは火事の中に取り残されたんです。……兄さんは二人を助けに行きました。でも、ぼくは、何もできなかった。火はどんどん強くなって、父さんと、母さんと、兄さんが苦しんでいるのに――見てることしかできなかった。火の中から、父さんと母さんが、この子だけでもって、公爵様にお願いして……みんな、そのまま……」
――ブランは、炎に飲み込まれる家族を見てしまったんだ。それなのに、彼らを焼き尽くした炎を、自分の容姿の中に見てしまうんだ。
そんなの、あまりにもつらすぎる。
「ブラン……」
喉の奥の方が熱くなって、振り絞るように声を出した。
「ブランは火が嫌いなのよ。自分の顔が嫌いなんじゃない」
彼が目を見開く。そのたびに煌めく金色の瞳は、決して、ブランの家族を奪った炎じゃない。金の瞳が揺らめいて、ぽたぽたと大粒の涙があふれだした。
「泣かないで、ブラン」
「泣いてません」
裾で涙を拭いながら、そんな強がりを言う。ごしごし擦るブランの手を取って、ハンカチで優しく拭いた。
「……そうだわ!」
ベッドから下りて、机の方へ向かう。杖はいつも、引き出しの中に仕舞っているのだ。
杖と言っても、魔法使いたちが使うような立派なものではない。就学前の子ども用の杖で、危険な魔法が使えないように設計されている。お父様が買ってくれたもので、持ち手に花のモチーフがあしらわれているのが可愛くて、お気に入りだ。
「火だって、悪いものばかりじゃないのよ」
ブランの隣に戻って、にこりと笑う。握った杖が、金色につやつや輝いた。
「私の魔法を見せてあげる」
杖先に、小さな火が灯る。ブランは一瞬びくりと震えた。
「大丈夫。私の火がブランを傷つけることは無いわ」
何せ、ちっぽけな魔力しかもっていないのだ。まだ子どもだから、これから成長とともに増えていくから、と何度も自分に言い聞かせているけれど……正直どうなるか分からない。根拠は無いけれど、将来の自分に期待することにした。いつもはコンプレックスでしかないけれど、今だけは違う。
「……どうするんですか?」
「ふふん」
ベッド脇のサイドテーブルには、モザイクガラスが美しい、まるいランタンが置いてある。
「このランタンはね、私の宝物なの」
小さな火でも楽しめるようにと、両親がプレゼントしてくれたものだった。
「見ててね、ブラン」
ゆらゆらと優しく灯るランタンの灯りに、杖先の火を重ねる。
魔法に決まった呪文はない。杖と、魔力と、それに乗せる言葉があればいい。不安そうな顔をするブランに微笑んで、ゆっくりと紡ぐ。
「《火よ、星を灯して》」
その明かりに照らされて、部屋の中に優しい灯りの星空が広がった。ブランが驚いて目を丸くする。
「わ、うわぁ……っ」
その新鮮な反応に、思わず頬が緩む。お母様がこの魔法を教えてくれた時、カノンも同じ顔をしたのだ。「魔力が少ないカノンでも、こんなに素敵な魔法が使えるのよ」そう言われて、すこしだけ泣いてしまったのは、ブランには秘密だ。
「……すっごく、きれいです」
星の光を吸い込んで、ブランの目がきらきらと輝く。部屋で見る魔法の星空は、あまりにもきれいだった。
「そうでしょう。でもね、これだけじゃないのよ」
暖かなオレンジ色の星空は、ゆっくりと回っていく。時折、きらりと光って流れ星が落ちた。
「流れ星?」
「ええ。すごいでしょう」
星座から白鳥が浮き上がって、優雅に飛んでいく。白鳥が羽ばたくのを、ブランはじっと目で追いかけていた。
「この火なら、怖くない?」
「……はい!」
星空から飛び出してきた子犬が、ブランに寄り添って、暖かさを残してふわんと消える。
「おねえさま、すごいです!」
星空に夢中になって目を輝かせていたブランが、ふいに目を伏せた。立てた膝に顔を埋めて、ぽつんと呟く。
「こんなに……いいんでしょうか」
その声はあまりにもか細くて、うまく聞き取れなかった。
「――え?」
「ぼくだけ、毎日柔らかいベッドで寝て、おいしいものを食べて。……なにもできなかったぼくが、こんなふうに過ごしてもいいのでしょうか」
言葉が出なかった。愕然とした。
あの事故で生き残ったことは、ブランにとって素直に喜べることではなかったんだ。生き残った小さな子どもが、当たり前のことをしているだけで罪悪感を覚えるような心の傷を負っている。――そんなことに、ようやく気付いた。
ブランの小さな頭を、そうっと撫でる。赤い髪は思っていたよりふわふわで、やわらかい。
「私もね、そんなふうに思ったこと、あるよ」
ブランが驚いたように目を丸くして、私を見つめていた。
「オズワルド殿下の葬儀の時に、どうして私が生きていて、殿下が亡くなってしまったんだろうって。殿下が生きてくれるなら、私が代わってあげたいって。オズワルド殿下に何もできなかった私が、生きてていいのかなって」
私でさえそう思うのに、目の前で家族を亡くしたブランは相当のものだろう。
「ごはんを食べてる時とかにね、ふと思い出すの。殿下はもう、おいしいもの食べたりできないんだなって。そしたらね、堪えられなくなって、涙が出るの」
視界が滲む。隣のブランも、同じ顔をしていた。
「ぼくも……そうでした。おいしいものを食べるたびに、おいしいのに、悲しくなって」
二人の目から、ぼたぼたと涙が零れていく。ブランの家族の死も、オズワルド殿下の死も、災害みたいに大きな事故のせいで、私たちにはどうにもできないことだった。それなのに、その口調は罪を自白するかのようだった。
暖かい星空の下で、ブランと抱きしめ合って、声を上げて、わんわん泣いた。言葉を交わすことすらできなかった。
罪をそそぐかのように、ただただ泣いた。
涙が枯れたころには、空が白んで来ていた。ベッドに並んで横になる私たちの目は、赤く腫れ上がっていた。
「あのね、ブラン」
掠れた声で呼ぶと、ブランが身じろいだ。起きていることを確認して、話を続ける。
「……今のブランにとって、家族だって思えるのは、本当のお父さんと、お母さんと、お兄さんだけかもしれないけど」
声が、指先が、震えた。
「私たちも、家族みたいになれないかな?」
小説のことは頭から抜けていた。忠犬ブランにさせないために仲良くなろうだとか、そんな考えは無くなっていた。
「私、ブランと、仲良くなりたい」
物語の中のブランじゃない。目の前のブランと、家族になりたい。
素直な気持ちが零れ出していた。
「頼りない姉かもしれないけど……」
私が笑うと、隣からも小さく笑う気配がした。
「そんなことありません」
もう星のない部屋で、ブランの瞳がきらめく。
こんな時だというのに、ブランに見惚れてしまった。だってその目は、世界で一番きれいだった。涙の跡が残っていても、赤く腫れて痛々しくても、すごく、すごく、きれいだった。
「よろしくね、ブラン」
「はいっ。よろしくおねがいします。おねえさま!」
初めて会った日みたいに、ブランの手をぎゅっと握る。
カーテンの隙間からやわらかな朝日が差し込んでくるなかで、私たちはようやくうとうとし始めた。目を開けていられないほど瞼が重くなっていく。
――こんなに家族にこだわってしまうのは、日本で過ごした十四年間の記憶のせいかもしれない。
私は死んだのだ。そして、どういうわけか、この世界にカノン・オキデンスとして生まれ直した。
お母さん、どうしてるんだろう。
枯れたと思った涙が、また一筋、頬を伝う。
私たち、二人っきりの家族だったのに。
唇を、はくはくと動かす。声にならない言葉が、涙になって溢れ出してくる。嗚咽がもれないように、必死で歯を食いしばった。
――お母さん、ごめんなさい。
私は、罰を受けたのだろうか。お母さんを置いて、一人で死んで――だから、悪役のカノンになってしまったのだろうか。
気付けば、ブランが隣ですやすやと寝息を立て始めていた。いい夢でもみているのか、幸せそうな顔をしていた。
つんつんと柔らかな頬をつつく。
もしこれが罰だったとしても、この子を巻き込むわけにはいかない。ブランは無関係だ。忠犬ブランになんて、絶対させない。
――そしたら、悪役のいない、つまらない物語になってしまうかもしれないけれど……。
いいえ、そんなこと、知ったことではないわ! むしろ、悪役カノンが悪さをしないなら、ヒロインや他の登場人物が苦しむこともないし、その方がいいに決まってる。
ここは物語じゃない。ブランだって、私だって、生きているのだもの。
何があっても、この子を守らなくちゃ。
ブランの穏やかな寝顔に、笑みが零れる。繋いだ手に、ぎゅっと力がこもった。
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