第十章【信頼】
制服に袖を通し、リボンを結ぶ。スカートの裾を軽く払い、髪を撫で付ける。鏡の中には、いつもと変わらない私がいた。窓の外の景色も、いつもと変わらない。まだうっすらと明るいだけの外を見つめた私は、高校の指定鞄を持って静かに部屋を出た。いつもと同じ靴を履き、いつもと同じように、そっと鍵を開けてドアノブを捻った。かちゃり、という金属音を立てて、外へと続く扉は開かれる。私は、するりと隙間から抜けて、同じようにそっと扉を閉め、鍵を閉めた。いつもと変わらないような朝。同じ景色、同じ世界。少し違うことは、まだ午前六時だということ。それはいつも家を出る時間よりも、一時間半程早かった。
夏だというのに朝方のせいか空気は少しばかり冷たく、僅かに霧が生まれていた。未だ目覚めていない住宅街を足早に抜けて、私は公園へと向かった。慧に会う為に。
昨日の夜、私が姫君との別れの前に送ったメールから、私の不安そうな心情を悟ったらしい慧は、
「良かったら、明日学校に行く前の朝に公園で話す? 六時くらい。オッケーなら返信無しで大丈夫」
というメールを届けてくれた。私はその言葉に甘えることにし、今朝は五時に起きて身支度をした。
微かに冷たく感じる空気の中を進むと、すぐに見慣れた公園が視界に入った。公園のベンチには既に慧が座っていて、誰もいない公園の中での慧のその姿に、私は一瞬、目を奪われた。薄く漂う霧の中、緑の濃い木々の下、ベンチに座っている慧は、まるで別世界の一部分のように思えた。私が公園の入り口を通ったところで、慧は私に気付いて軽く片手を上げた。私は手を振ってそれに応えながら、公園の中心にあるベンチへと歩いて行った。
「や、おはよう」
「うん、おはよう」
私と慧は互いに挨拶をした後、少しの間、沈黙を守っていた。うっすらと冷たい空気と、少しの霧の中、私は幻想的な雰囲気をそこに感じていた。
「昨日の夜さ、何だか微妙に元気が無い気がしたんだけど」
何かあった? と、言外に尋ねてくる慧に対し、私は幻想的な雰囲気から離れて、思考を動かし始めた。
「えっと、メールをした時は何も無かったんだけど、こう、何となく不安になったというか落ち着かなくなったというか……夜に、ごめん」
私は、時々、そういう気分になる時があった。特別に悲しいことが無くても、ふとした瞬間に心臓を掴まれたような感覚になり、それにどうしても耐え切れなくなる時が。理由は、良く分からない。誰しも、そうなる時があるのだろうか? 今まで誰にも尋ねたことは無かったけれども、いつか聞いてみたいような気もした。ただ、昨日に限って言うならば、私の心が姫君との再会と別れを感じ取っていたのかもしれない。
「大丈夫だよ、起きてたし。なら、俺にメールをした後、何かあった?」
「……さすが、聞き逃さないね」
苦笑まじりにそう言うと、慧は不敵に笑って先を促した。
私は、
「実は、姫君と会えたの」
と、正直に告げ、
「そして、別れたの」
と、淡々と付け加えた。その落ち着きぶりに、自分でも驚きながら。
また、沈黙が訪れた。私は自分の靴のつま先を見つめながら、慧の言葉を待っていた。望んでいる言葉、言って欲しい言葉があるわけでは無かった。けれども、この沈黙には胸が詰まりそうだった。慧が、こちらを見ていることが分かる。その表情まで窺う勇気は無かったが、驚いているのかもしれないと根拠もなく思った。もっと、何か前置きをして話し始めた方が良かったのだろうか。話す順序を間違えたのだろうか?
私は、ほんの僅かな時間の間に急速に不安になり、お願いだから何か話してと、心の中で慧に懇願した。
「そうか」
すとんと落とされた言葉と共に、私は頭の上に慧の体温を感じた。慧の左手が置かれている。そう理解するのと同時くらいに、
「頑張ったな」
という慧の言葉が聞こえた。瞬間、じわり、と胸が熱くなる。
私は、昨日の夜、確かに姫君と再会し、そして、別れた。さようならと告げた。その事実と現実を私は間違い無く受け入れた……受け入れたつもりだった。それが私に出来ることであり、出来無ければならないことだとも思っていた。
「頑張ったな。本当に」
再度、慧は私に告げて、頭に置かれた手には少しだけ力が込められた。そのせいか、体温の温かさも増したように思えた。
「頑張ったのかな……」
問い掛けるでも無く、ただ、ぽつりと生まれた私の言葉を、慧は断定するように肯定した。
「ああ、頑張ったさ」
私は、唇に力を込めた。そうしないと、何かが溢れてしまいそうだったから。それはきっと、昨日の夜に、姫君の前で堪えたものとひどく似ていた。
「本当は、別れたくなかったけど…………」
緊張した唇で、私は小さく慧に告げた。
「でも、それしか無かったみたいだったから。諦めたわけじゃない、でも…………」
鮮烈に蘇る、姫君との別れが私の心の奥底で震えていた。私は、一つ深呼吸をして、思い切って言葉にした。
「姫君とは別れたけど。絶対、忘れないから」
勇気を出して顔を上げると、慧は、とても穏やかな笑顔で私を見ていた。そして、頷いてくれた慧の表情は今まで見た中で一番優しく、一番温かい気がした。それは、昨日の私の決断と、今の私の決意とが間違ってはいないと言ってくれているようで、私のことを認めてくれているようで、私は本当に嬉しかった。
いつか。いつかまた姫君に会えた時、私は胸を張って姫君に話し掛けられる気がした。だからこれは、それまでの小さな別れ。
「有来。話してくれて、ありがとう」
私は、その言葉で自然に笑顔になれた。
「慧も。聞いてくれてありがとう」
受け入れるということは、簡単で、単純そうでいて、実はひどく難しいのかもしれない。それとも、ひどく難しそうでいて、実は簡単で、単純なのだろうか。それは表裏一体、とても薄い壁を隔てて繋がっていることなのかもしれないと思う。
本音を言えば、やっぱり私は小さな姫君と、ずっと一緒にいたかった。しかし、それが叶わないのなら、私は姫君との全てを受け入れ、認めること。そして忘れないこと。それが私に出来ることであり、私にしか出来無いことでもあると思った。そこには確かに痛みがあって悲しみがあるけれども、僅かにプライドもあった。私にしか出来無いこと。そしてそれを、実行すること。それが私のプライドだった。ベンチに着いていた私の右手に、慧の左手が触れた。
「会えて、良かったな」
誰が、とは言わなかった。けれども、それが私と姫君のことを指していることは明白だった。
「うん」
私は返事を返した後、慧の手の下にある自分の手を動かし、その指先を慧の指先へと伸ばした。
「私と慧も。会えて、良かった」
勇気を出して告げた私の言葉が慧に届いたであろうことは、慧の笑った顔を見て分かった。早朝の冷たい空気とは反対に、私の心の奥底は、とても温かかった。それは、姫君と出会って知った温かさだった。姫君も、慧も、沙矢も、私のことを想ってくれた。それが私の心に届いた時に、こんなにも温かな気持ちになれるのだと知った。
私は、ひどく幸福だった。大切な人達と出会い、話した日々の思い出が本当に温かく、これからもそれが私の中に残り続けることを思うと、言葉にはし難い、とても幸福な気持ちになった。
「そういえば、高校はどう? ちゃんと勉強はしてる?」
私の右手を左手で包み、慧は少し心配そうに私に尋ねた。
「大丈夫、頑張ってるよ。漢文がちょっと難しいけど、努力してる」
「そうか。今度、教えようか?」
私は、その申し出に頷きながら、
「是非、オレンジジュース付きでお願いします」
と、付け加えた。
「かしこまりました、有来」
慧は苦笑気味にそう答える。
「そろそろ、行こうか」
「うん」
慧は、私の手を繋いで立ち上がった。私は、それに導かれるように立ち上がり、軽くスカートの後ろを払ってから鞄を手にした。
先程よりも光が強くなり始めた朝の公園を抜けて、私達は駅へと向かった。
繋がれたままの手に少しの恥ずかしさを感じながらも、私は、とても嬉しかった。だが、歩きながら、ふと、慧ともいつかは別れるのだろうかと考えた。たとえ離れたくなくても、姫君との別れのように、私にはどうにも出来無い強い力に裂かれてしまう時が来るのだろうか?
朝の薄い雲の隙間から差している明るい日差しとは反比例するように、私の心には暗い疑問が雷雲のように湧き上がった。
「どうした?」
若干、俯き加減になっていた私を覗き込むようにして、慧が尋ねた。思わず顔を上げてみるも、思っていることを口に出すことが躊躇われて、私は笑って誤魔化そうとした。
けれども、慧は私の心が見えるかのように、
「別れないよ、ずっと」
と、追随を許さないように強く、しかし優しく、私に告げた。
私は、驚きが顔に出ていたのか、
「そんなに驚かなくても」
と、笑い混じりに慧は付け加えた。
まだ歩いている人がまばらな道に、私と慧の足音が、まるでささやかなデュエットのように響いていた。私はその靴音を耳に感じながら、加えて自分の鼓動が少し強く聞こえるようになったことを感じていた。
「あの……良く分かったね、私が考えていたこと」
私の胸に立ち込め始めていた黒い雲は、既にその姿を隠そうとしていた。
「長年、有来を見ているからね。それくらいは分かるよ」
慧は笑い、明るく告げた。その言葉は間違い無く私を安心させると同時に、更に私の心臓の音を高鳴らせた。
「心配しないで良いよ。何せ、四年近くの待機期間を経て、俺は今、有来といるんだ。離れるわけが無い」
言い切る慧は、本当に私を安心させてくれた。そして、私自身の気持ちの行き場として、慧を選んで良いのだということを感じた。それは、私の胸の中に生まれていた雷雲を取り去るには、充分過ぎる答えだった。
「ありがとう、慧。私、頑張るね」
「俺も。でも、有来は悩み過ぎる前に話してよ?」
私が頷けば、慧は笑った。それが、ひどく幸福だった。私と慧は互いに反対側のホームに立ち、私は高校へ、慧は大学へ行く為に電車を待っていた。やがて、私の立つホームに電車がやって来て、私を含めた数人が、その電車に乗り込んだ。車内の奥へと私は足を進め、反対側のホームを扉の窓から見つめた。ガラスの向こう側にはいつも通りの慧がいて、私が小さく手を振ると、慧もそれに応えて手を振ってくれた。程なくして電車は走り出し、少しずつ加速して行く。それにつれて慧の姿は小さくなって行き、そして、駅を抜け出した電車の窓からは、慧の姿は見えなくなった。
一定の速度で後ろへと流れて行く景色を眺めながら、私は慧の姿を思い浮かべつつ考えごとをしていた。私は、これからどこに辿り着くのだろう。電車は目的地が決まっている。でも、私の目的地は決まっていなかった。高校を卒業したら、私は大学へ進学するのだろうか。それとも就職するのだろうか。そして、その後は?
思えば、私の中には既に沢山の思い出が降り積もっている。特に、姫君と出会い、慧と親しくなり始めた小学校四年生の初夏から今日までの間は、とても長く、けれども同時に、とても短いようにも感じられ、そこには本当に沢山の思い出が棲んでいた。しかし、それらは思い出と簡単に呼んでしまえる程には単純では無く、常に温かさと共に思い出せる程、優しくは無く、また、そんな都合の良いものでは無かった。それでも私は、それらをひとかけらでも忘れずに、これからを過ごして行きたい。人の記憶は掠れて行くもの、それを分かっていても尚、私は忘れずにいたいと思う。分かっているからこそ、なのかもしれない。
――姫君と出会った時、姫君は、私が小さい頃から一緒だったと言っていた。私は、自分が小さい時に姫君といた記憶は無い。小学校四年生の夏の始まり、それが私にとっては姫君との最初の出会いだった。
自分自身のあずかり知らないところで、記憶は少しずつ少しずつ、薄れて行くものなのだろう。そこに規則性があるのか、優先度が存在するのかは分からないが、私は、ずっと覚えていたい。その為にも、日記は続けて行こうと思う。そして、これからの毎日に降る、数え切れ無い程の出来事、喜びや悲しみを、受け止められる人になりたいと思う。
私がどんな人間になって行くのかは見えないけれど、今は見えなくとも、ちゃんと将来は待っていてくれるはずだと思える。昼間は見えない星のように、けれども、確かにそこにあると思える。姫君に甘え、慧に甘えて来てしまった私だけれど、二人と自分に恥じないように、これからは少しずつでも色々と積極的に行動して行きたいと思った。勉強は大切だが、大人になるということはそれだけでは叶わないと、おぼろげながら私は分かり始めた気がしていた。
私は、早く大人になりたかった。大人の力に従うしか無いのは自分が子供だからだと思い、大人になる為には知識を増やすこと、勉強をすることが早道だと信じていた。それくらいしか、私には分からなかった。しかし、大人になることは、きっと、もっと難しく、本当に色々なことを学ぶことで叶うものなのかもしれないと、私は思い始めている。私がどこに辿り着くのかは、私にも他の誰にも分からないことだけれど、私は私なりに努力して行こうと思う。そして、大切な人を大切に想える、優しい人になりたい。姫君も慧も沙矢も、私のことを想ってくれた。それが私に届いた時、私は、とても嬉しかった。あの温かさを忘れないでいたい。私も、相手に温かさを伝えられる人になりたい。
――ふと、「別れないよ」と、そう言った慧の声と顔が思い出された。私は、その心に応えられる人になりたい。
窓ガラスから差し込む朝の光が、ガラスに添えていた私の左手を照らして、薬指に細く輪を描く指輪と小さなメレダイヤとを、ささやかに光らせた。それを見つめながら、この温かな光の温度を忘れないでいたいと、私は思った。
やがて、電車は高校への最寄り駅の二つ手前に着き、私と同じ高校の制服を着た女子や男子が沢山、乗って来た。
「あ、おはよう、有来。今日は少し早いね」
「おはよう。早起きしたんだ」
こうして、私の日常が始まる。私はその流れの中で、きっと色々なことを覚えたり忘れたりして行く。笑ったり、多分、泣いたりもする。それでも私は、昼間は見えない星に辿り着けるまで、私は私として歩き、成長して行きたいと思う。そう思うことが出来た私自身と、小さな姫君と、慧と、沙矢に感謝をしたい。ありがとう。
私は心ひそかに思い、そして同時に、新しく生のスタートを切れたように感じていた。
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