第九章【選択】2
『私は、有来が好き。だから、有来が私を頼りにしてくれて、私を見てくれることは、とても嬉しかったわ。でも、それがやがて、ケイやサヤに移って行くにつれて、少しの寂しさと少しの苛立ちを感じるようになったの』
「姫君、私は」
姫君に声を掛けると、その遮りを制するように姫君は言った。
『聞いて、有来。だから私は、あなたと別れる時に、あんな別れ方しか出来無かった。ありがとうも言えないまま、一方的に別れを告げてしまった。私はそれが、どうしても心残りで』
その時、姫君が、ふわりと笑った気がした。
『だから、こうしてまた、有来と会えて良かった。ずっと言いたかったの。有来を傷付けてごめんなさい。今まで一緒にいてくれて、ありがとう』
「姫君…………それは」
それは、私の方だと。私こそ姫君に謝りたくて、お礼を言いたくて。ずっと後悔していたと。そう言いたかったのに、私は言葉に出来無かった。
口の中が、いやにからからと乾いているような気がする。何かが喉の奥に張り付いているような、そんな感覚すら覚えていた。そして私は、自分の心臓の音が、先程よりも早くなって私の耳に届けられていることに気が付いた。
『もう、お別れなの』
姫君の声が、そう告げた。
不意に、頭を強く殴られたような衝撃が走る。
「お別れ……………………」
何を意味するでも意図するでも無く、私は姫君の発した言葉を自分でも口にした。
何故か、口にしないではいられなかった。衝撃を誤魔化そうとしたのか、沈黙に耐えられなかったのか、その理由は本当には分からない。姫君が口にしたその言葉は、たった一度にも関わらず、私の脳味噌に強く強く刻まれ、その結果、脳から私の唇に直接、届けられて言葉として紡がれた、そんな気がした。
その私の言葉を受けて、
『そう、お別れなの』
と、淡々とした口調で姫君が言った。
「どうして?」
『だって、もう大丈夫でしょう、有来は』
精一杯、心から絞り出した私の問い掛けに、姫君は間を置かずに答えた。私には、それが何だか許せなかった。
「大丈夫って、何が?」
自然、私の口調は若干、きつくなってしまっていた。しかし、それを特に気にする様子もなく、姫君は言う。
『そのままの意味よ。有来は、もう大丈夫。私がいなくても、やっていけるわ』
その時、私の体の中を何かが削り取って行ったような、削りつつ駆け抜けて行ったような、そんな感覚に陥った。頭の先から足の先までを、何か得体の知れない鋭いものが、とてつもない衝撃を与えて行った。それは、壮絶なる恐怖だった。
「大丈夫って…………そんなことは」
無い、と言おうとした時、メールの着信を知らせるピアノ音が、携帯電話から高らかに鳴り響いた。夜の静かな室内に、その音は強く存在感を示す。反射的に私は携帯電話に視線を注いだ。きっと、先程、慧に送ったメールの返事だろうと思った。
その時、
『ね、大丈夫でしょう?』
と、安心し切ったような、温かな姫君の声がした。
それだけで、私には全てが分かってしまった。姫君が何を言おうとしているのか、何故、お別れなのか。悲しいくらいに、分かってしまった。そして、おそらく、それは覆せない決定事項だということも。きっと、姫君と再会した瞬間から、私は再び訪れる別れの瞬間を予感していた。確実なるものでは無い、それでも。理屈では無く、全身が感じ取る感覚のようなものが初めからあった。胸が痛い。悲しい。今、この時を強い力で壊してしまいたい程、時間が巻き戻れば良いと切望する程、何でも良いから私と姫君を離れないままにしてほしいと願い、その方法を考える程、お別れという言葉も事態も受け入れ難く、また受け入れたくないものだった。
それでも、私達は別れるのだ。それが、苦しいくらいに分かった。
『大丈夫よ、悲しまないで』
姫君の声は、どこまでも温かく、また、どこまでも穏やかだった。
「大丈夫って、何が…………」
私は、先程と同じ問い掛けをしていることに気が付いた。しかし、それは問いというよりも、自然に口から生まれてしまった、不可抗力のようなものだった。
『私は、有来の友達になれたかしら?』
その言葉に、涙が浮かんだ。何か、言わなくては。早く姫君の言葉を肯定しなくては。そう思うものの、私の心は焦るばかりで、そして悲しみが溢れるばかりだった。
そんな私を見通したのか、
『ありがとう』
と、姫君は言った。芯の通った、けれども囁くような姫君の声は、私の奥底に確かに届いた。けれどもそれは、まるでこれが最後だというような、悲しい言葉だった。
「ありがとうって、何が? 私は何も姫君にしていない、何も返せていないよ……! やめてよ、そんな最後みたいな言い方しないで…………」
私の声は、姫君の声とは対照的に震えていた。そして、僅かにぼやけた視界に映る自分の指先も、それに連動するかのように悲しく震えていた。
『泣かないで』
姫君は、私を包み込むように、そう言った。
『私は、有来に何かを返して欲しくて一緒にいたんじゃないわ。私が、一緒にいたかったから。それだけなの』
慈しむような姫君の声。言葉。私は、それを聞き逃すことが無いよう、無理矢理に涙を止めて姫君に全神経を傾けた。
『確かに、有来の一番になりたくて、ケイを邪魔に思ったことも正直に言えばあったわ。でも、今はそんなことは無いの。むしろ、有来を支えてくれる人がいることを、素直に嬉しいと思えるの。これは、とても幸福なこと』
「幸福…………?」
繰り返した私の言葉を肯定し、姫君は続けた。
『大切な人の幸福を祈ることが出来ること、その幸せを願えること。それは、ひどく幸福なことよ。以前の私には、それが出来無かった。でも、今は違うわ』
姫君のその言葉には、どこか誇りのようなものを感じた。私は、緊張と悲しみの混じった心を抱えて、姫君の言葉を待った。少しの間を置いて、再び姫君は話し始める。
『私は、幸せよ。有来の幸せを祈ることが出来る。だから、今、とても幸せなの』
「待って!」
私は、考えるよりも早く言葉を紡いだ。終息に向かって時間が流れている、それを私は肌で感じていた。
『ケイとサヤが、有来にはいる。高校で友達も出来たみたいだし、これからきっと、有来は素敵な大人になるわ』
――本当は、それをずっと側で見ていたかったけれど。
小さく小さく、消えるような声で姫君は言った。
「待って! ねえ、待ってよ……! 私、まだ何も姫君に伝えていない。謝りたかった、ずっと謝りたかったの。ごめんなさい、私…………!」
私は、再び溢れた涙と共に、そう言うことが本当に精一杯だった。他に何が出来たのだろう。私は、この時ほど、自分の無力さを感じたことは無かった。終わりに向かって流れて行く時間。終息に向けて止まらない時間。私には、それに抗う術が無い。きっと誰にも、それは無いのかもしれない。
それでも私は、
「行かないで……………………!」
と、心から姫君に伝えた。
そうすることしか、出来無かったから。まだ、姫君の気配はある。確かに彼女は、そこにいる。それでも私は、不安で仕方が無かった。不安と悲しみに押し潰されてしまいそうだった。
夜のせいか、外は、しん、と静まり返っていて、その静寂が室内にも染み出しているかの如く、空気すら止まっているかのように思えた。しかし、刻一刻と時は流れている。時間が止まるわけは無かった。規則正しく時を刻み続ける時計の秒針の音が、無情にもそれを知らせ続けて止まなかった。
私の言葉に、姫君は何も返すことなく、ただ沈黙を守り続けていた。その永遠とも思える長いような短いような沈黙が破られた時、私は、凍っていた時間が溶け始めたような錯覚を覚えた。勿論、それは紛うこと無き錯覚であり、時間は、いつ、どんな時でも留まることは無い。
今、この瞬間でさえ。
『私は、有来の友達になれたかしら?』
姫君は、私の言葉への返答では無く、先程と同じ質問を繰り返した。それが、何よりの答えだった。私の指先は今も震えていた。唇も、微かに震えていることが分かった。
叶うなら、時間が止まってしまえば良い。私達を引き離さないでほしい。沢山のことを姫君と二人で話し、共感し、悲しみ、喜びたい。他愛のない日常、しかし二度とは戻らない、大切な日常。過ぎてしまった時間の思い出を話し、これからの時間も姫君と一緒に過ごして行きたい。
けれども、それは叶わない。既に予感は確信へと変わっていた。そこには、心を射抜かれたような強い痛みがあった。私には何が出来るだろう。時間を戻すことも止めることも出来ず、姫君に伝えた心からの願いも叶わないのならば。私に出来ること、それは、姫君の問いに答えること。
「姫君は私の友達だよ。ずっと」
たった、それだけを伝えることしか出来無い私。それでも、そこには勿論、嘘は無かった。だが、悲しみが強く、今までの自分に対しての後悔があった。けれど、今、それだけに心を預けるわけにはいかなかった。
『良かった』
ぽつり、と落とした雫のような姫君の言葉が、静かな室内に落ちて波紋のように広がり、そしてまた室内は元の静寂に戻った。未だ、私の指先は震えたままで、唇も同じだった。それでも今、言わなければ、私はきっと後悔する。それだけは避けたかった。
だから、
「大丈夫だよ、私! ちゃんと勉強は続けるし、友達も出来たし。慧も沙矢もいてくれる。だから大丈夫だよ」
と、願いを込めて姫君に伝えた。
私は大丈夫だよと、伝えたかった。否、伝えるしか無かったのかもしれない。泣いて叫んで、時が戻るなら。あるいは時が止まるなら。そして姫君と共にいられるのならば。私は、きっとそうしたと思う。しかし、それらは何をどうしても叶わない願いであることを、私は痛い程に分かっている。それならば、姫君が安心出来るように、ほんの少しだけでも心が軽くなれるように。その願いを込めて、私は「大丈夫だよ」と告げた。
「でも、姫君がいなくても大丈夫って意味では無いんだよ。ずっと一緒にいたいよ」
先程に告げた「大丈夫」という、その祈りと願いを越えて、今、尚、既に溢れそうになっていた私の本音が、ついに零れ落ちた。私は、残された時間に祈るように言葉を続けた。
「一緒にいたい、それが私の本当の気持ちだよ。でも、どうしても……………………どうしてもそれが叶わないっていうのなら。私は、大丈夫だから。だから安心して」
――小さな姫君。
私が小学生の時に名付けた名前を呼べば、姫君が頷いてくれたように思えた。それが、とても嬉しく、とても悲しかった。再び訪れた沈黙。規則正しく、そして無情な、時計の秒針の進む音。
私達は互いに何も発すること無く、ただ、その静寂が包む同じ空間にいた。同じ空間にいる。その事実が私にはとても嬉しく、また、とても不安だった。私は、やがて訪れるであろう別離に心を固くし、今はその心の中に姫君が存在している現実を認識し続けた。それが、私に出来る精一杯だったからだ。長いような短いような、不思議な時間が過ぎて行く。
沈黙を破ったのは姫君で、その言葉は私の予想を裏切らず、その痛みは私の予測を遥かに越えて私を刺した。胸が確かに痛み、鮮烈な衝撃を受けた私は、それでも姫君の言葉を遮らず、また、否定もしなかった。それが、私が姫君に届けることの出来る、最後の祈りであると信じていたからだ。そして、さようならを告げる為の祈りでもあった。
『今まで、ありがとう。有来の友達になれて本当に嬉しかった。本当に楽しかったわ。私は、有来と一緒にいられることが出来て、心から幸せだった』
僅かな、沈黙。そして続けられた、別れの言葉。
『さようなら、有来』
「私も、姫君と一緒にいられてとても楽しかったし、幸せだった。忘れない。絶対に」
僅かな、静寂。そして、私は別れの言葉を告げた。
「さよなら、小さな姫君」
その言葉に呼応するように、もう一度だけ、姫君は「さよなら、有来」と囁いた。そして、それきり小さな姫君の気配は消え、また、姫君から私に言葉が届けられることは無かった。
――この日、私と小さな姫君は別れた。
残された夜の室内で、私は本当に一人きりだった。静寂が先程よりも強く感じられ、秒針の音がいやに耳障りだった。僅かな私の呼吸音すら煩わしく思え、指先の震えすらも厭わしかった。
「……………………姫君?」
私は何をなくしたというのだろう。何を失ったというのだろうか。冷静になろうとすればする程に、それは叶わなかった。それでも私は、いつも通りの夜にいつも通りの私を住まわせようと努めた。
見上げた時計は夜の十二時を僅かに過ぎていて、今日の時間割では一限目が現代文だったことを思い出した。私は未だに震える指先で携帯電話を静かに開き、慧からのメールを読んだ。そのまま携帯電話を閉じ、私は布団の中に入った。夏の半ばの夜にも関わらず、私の体は震えていた。夢も見ず、深く眠れることをひたすらに祈りながら、私は強く目を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます