第九章【選択】1
私は、そっと机の上に箱を置き、椅子に腰掛けた。時計の秒針の音だけが、静かに響いている。その音を上回るようにして私の内側では心臓の音が高鳴っている。私は、緊張と期待の中、静かに箱の蓋を開けた。そこには先程と変わらない姿で、鮮烈な赤い色を主張する琥珀が佇んでいた。思わず、溜め息が洩れた。それほどにその石は美しく、印象的だった。燃えるような赤は力強く、真っ赤な夕陽を思わせる。神聖なものに触れるような気持ちで、私は琥珀を静かに手に取った。手のひらの真ん中に小さく収まるそれは、火のような色に反して冷たかった。当たり前のことだが、少し驚く。石に体温は無い。熱も無い。分かってはいたものの、あまりに鮮やかな赤は、その認識を覆しかねない程のものだった。
「綺麗……」
自然に口から生まれた言葉は、しん、とした部屋に吸い込まれるようにしてすぐに消え、壁に掛けられた時計の秒針の音だけが再び耳に届き始めた。私は、手のひらの琥珀をじっと見つめた。とても懐かしく、その心情には時の流れを感じた。まるで、つい昨日のことのようだった。琥珀の赤色と同じくらい鮮やかに、強く、私の心に刻まれている。
あの日、慧の部屋で鉱物図鑑を広げた時。確かに姫君はそこにいた。誰にも否定出来無い、否定させない事実だった。カラー写真の赤い琥珀を見て、綺麗だと言った。口調も声音も忘れない。忘れられない。姫君がもういないと、誰がそう言えるのだろう。誰がそう断言出来るのだろう。私にでさえ、真実は分からないでいるのに。ただ、おぼろげに感じるだけだ。姫君がもういないということ、そして心の奥底に残された空虚感を。
私は琥珀を見つめたまま、複雑な想いに捉われていた。時計の秒針の音が、いやに大きく耳に響いて、私の全身を縛り付けているように感じた。
――どれくらいの間、私はそうしていたのだろう。ふと、金縛りが解けるような、目が覚めるような感覚で、私は我に返った。当たり前のように沈黙したまま、琥珀は私の手のひらの上に存在していた。私は琥珀をそっと指先で持ち、壊れものを扱うかのように箱の中に戻した。惜しむような気持ちで、私は再度、箱の中の琥珀を見つめる。表現し難い感情が、しゃぼん玉のように次々と心の中から込み上げて来ていた。嬉しいのか悲しいのか、切ないのか腹立たしいのか……その感情に名前を付けることは出来ず、また、どの感情も正しいような気がした。感情に正解も間違いも無いだろうとは思う。私が感じたこと、それが真実で、それが全てだと思った。だから、これで良いのだと思った。
私は、その名付けられない感情を抱えたまま、ゆっくりと箱の蓋を閉じた。
「またね」
それは祈りの言葉だったのか、別れの言葉だったのか、私自身良く分からなかった。ただ、「さよなら」とは言わなかった、言えなかった私がそこにいた。
――その日の夜は、何故だかいつもより長く感じられた。時間の流れが普段とは違ってゆったりとしているような、そんな錯覚を覚えた。しん、と静かな部屋に響くものは、規則正しい時計の秒針の音。狂い無く、間違いなど有り得無いリズム。時の流れは、こうして目に見えないところで確実に流れている。それはいつの日も一定で、いつの日も止まることは無い。ゆったりとして感じられるのは、間違い無く、私のただの錯覚に過ぎない。
私は、ふと心臓を掴まれたような悲しさに包まれた。見上げた時計は、夜の十一時を回っていた。あとは眠るだけ。また明日、朝になったら私は起きて、いつも通り高校に行く。高校で、楽しく話せる友達も出来た。小学生の頃から仲の良い沙矢とは、今も変わらず交友は続いている。そして、慧がいる。何を不安に思うことがあるのだろう。何も不安になることなど無いのだ。勉強は変わらず続けているし、苦手な漢文には特に力を入れている。意外に細かいと分かった英文法は、苦手とならないよう努力をしている。
私は、恵まれている。今日だって、慧は、あんなに綺麗な琥珀をプレゼントしてくれた。私を気遣ってくれていることが分かる。そして、左手の薬指の指輪が、どれほどに私を支えて、助けてくれているか。指輪の温かな存在感を感じるたびに、私は心から落ち着いている自分を知っている。たとえ、夜は一人きりでも。静かな部屋に、少しの怖さを感じても。私が不安を感じる理由など、どこにもあるはずが無いのだ。
しかし、何故だか心がざわつくまま、私は何かに急かされるようにして手元の携帯電話を引き寄せ、開いた。薄暗い部屋の中、ディスプレイ画面が光を放つ。焦る指先で短いメールを書き、私は一瞬、息を止めて、送信ボタンを押した。すぐにディスプレイには、あのお姫様の送信画像が現れて、あっと言う間にメールは送信されて行った。私は、止めていた息を吐き出し、先程より少し落ち着いた気分で携帯電話を閉じた。それからしばらくの間、私は、かち、かち、という時計の秒針の音に耳を傾けていた。だが、自分の気持ちの置き場に困り、何度も壁に掛けられた時計を見上げ、指先を見つめ、髪を整えるという行動を意味も無く繰り返しては、携帯電話が光るその瞬間を待っていた。その時。私の意識を掴んだものは、携帯電話の光でも音でも無く、勿論時計の秒針の音などでも無く。
『まだ、その画像のままなのね』
ああ。それは、私が一番待ち望んでいた声だった。私は、やっぱりこんなにも小さな姫君を待っていたということを、透き通るような感覚の中で知った。私を構成する全てが、自然にそこへと向かって急速に走り出して行く。
『どうしたの?』
私の気持ちを知ってか知らずか、姫君は歌うような軽やかな口調で私に尋ねた。それはまるで、ついさっきから今、この瞬間まで、連続した同じ時間の中にずっと一緒にいたかのような口振りだった。もしも、また姫君に会えた時は、私はきっと泣いてしまうと思っていた。けれども、不思議と涙は出なかった。本当に不思議な程、私は落ち着いていた。どうしてなのかは分からなかったが、その答えを探すよりも前に、私は姫君へと言葉を伝えた。
「……元気?」
『元気よ?』
私の質問は即答され、そこで終わってしまった。私は拍子抜けしながらも、ありきたりな言葉しか言えなかったことを後悔し、次に何を話そうかと考えた。正直、尋ねたいことは溢れる程にあるのだ。同じくらい、話したいこともある。
しかし、そのどれもが言葉となって唇から生まれることを躊躇っているかのようだった。どこにいたのか、何をしていたのか、あの別れの日のことを怒っているのか、今、何を思っているのか。そして、姫君は、イマジナリーフレンドという存在なのか。あれから私は中学校を卒業し、今は高校一年生だということ、勉強は変わらず続けていること、高校の近くの桜並木が綺麗だったこと、それを姫君と一緒に見たいと思ったこと。そして、ずっと姫君に謝りたかったということ。尋ねたいことであり、話したいことであることにどれも間違いは無く、泉から湧き出る水のように、それらは次々と心の奥底から湧き出て来る。それなのに、どうして私の唇は動かないのだろう。高揚しているようでいて、どこか冷静な頭の片隅で、私は自問を繰り返しては答えの見付けられないままでいた。
『ねえ、どうしたの。私のこと、忘れちゃった?』
「忘れないよ!」
私は、思わず大きな声を出してしまった。それはほとんど反射的と言っても良い程に自然に、ごく自然に即時に紡がれた心からの返事であり、また、それが約束となっていることに、私は口に出してから気が付いた。その時、私は、自分が不思議なくらいに静かに落ち着いている、その理由の片鱗を見た気がした。私は、全てを受け止めて受け入れる覚悟をしているのだと、まるで時間の流れの外から、この現実を見つめているような感覚の中で思った。だが、私は自分が冷静なのか、それとも冷静な振りをしているだけなのか、すぐさま分からなくなってしまった。これは夢なのだろうかという考えが一瞬、頭を掠めたけれども、すぐにそれを否定する。
確かに私は今のこの状況に驚いている、それは確かだ。けれど、それが現実なのか夢なのかくらいは判断出来る。姫君の軽やかで気品のある声も、その存在が埋める私の心の空間の温かさも、それがもたらす安心感も、そして何より、姫君がいることへの喜びも、私は全て覚えていた。夢であるわけが無かった。これは紛れも無い現実だと、私は、はっきりと自覚していた。だからこそ、私は早く姫君に伝えなければと思った。感謝と、謝罪とを。
「あ、あの」
喉に、息の塊が詰まったかのように感じた。私は私の言葉を早く伝えたくて仕方が無かった。そうするべきだとすら思っていた。それなのに、何も言えないでいた。溢れるように伝えたいことも尋ねたいことも私の中にあるのに、それらをうまく言葉にして取り出すことが出来無いでいる。焦りばかりが私を包み、規則正しい時計の秒針の音が、それを更に助長していた。
『久し振りだね』
不意に、ぽつり、と落とすように姫君は言った。瞬間、私は、私の中に刻まれていた思い出が一度に蘇って来ることを感じた。
「うん、久し振りだね」
喉を塞いでいた空気の塊は、瞬時に霧散していた。私は、慎重に言葉を紡いだ。
「ずっと、気になっていたの。どうしているのか考えていた。もう会えないのかなって思って、そのたびに悲しくて」
姫君は沈黙を守っていた。しかし、姫君がそこにいることは確かに分かっていたので、私はそのまま言葉を続けた。
「私は、姫君に謝らないといけないと思っていた。私は無神経だったし」
『そんなこと無いわ』
私の言葉を遮り、姫君の声が降った。反射的に私は口を閉じ、僅かに緊張しながら姫君の次の言葉を待った。少しの静寂の後、それは続けられた。
『無神経だったのは私。有来を追い詰めたのも私。大切な有来のことを考えてあげられなかった私が、有来に謝るべきなの』
ごめんなさい。
それは、囁くように小さく、頼り無く、そして切なく響いた。私は、今までに一度も聞いたことが無い、その細く消えてしまうような姫君の声に驚き、同時に恐怖した。そのまま、その声音に重ねるようにして、姫君自身が消えてしまうのではないかと不安になったのだ。
「姫君…………!」
私は、思わず大きな声で姫君を呼んでいた。
小さな姫君。私が名付けたその名前を、実際に姫君に向けて呼び掛けることは、気の遠くなる程にとても久し振りに思えてならなかった。
『そんなに大きな声を出さなくても聞こえているわ』
姫君は、いつもの調子に戻って言った。私はそのことにひどく安心し、思わず、ほっと息をついていた。
『懐かしいわね。こうしてこの部屋で、有来と話すのは』
「うん……そうだね」
あれから、約四年が過ぎようとしていた。私にとってその時間はとてつもなく長く、実際の四年間という時間よりも、もっとずっと長く長く感じられた。思い出は鮮やか過ぎる程に鮮やかで、思い出すことに労力は必要無かった。後ろを振り返れば、すぐ手の届くところにそれはあり、本当に昨日のことのように、いや、それ以上に近くに感じられた。
『最近は元気にしてる? ちゃんと勉強は続けているの?』
「うん、元気。勉強も続けているよ。英語と漢文がちょっと難しいけど、頑張ってる」
思ったよりも、私は冷静に姫君と話が出来ていた。
『高校は面白い?』
「あれ、入学したことを知ってるんだね」
小さく笑う声が聞こえた気がした。
『勿論よ』
「高校の勉強は新しいことばかりで新鮮だし、初めての学食が楽しいよ。アイスクリームも販売されていて、今度、友達と一緒に食べる約束をしたんだ」
滝のように流れ落ちそうになる言葉の数々を塞き止めながら、私は少しずつ姫君に言葉を伝えた。私の内側を廻る言葉はあまりに多く、きっと一晩中話していても、それらは尽きることが無いと思えた。
『もう友達が出来たのね』
「うん。席順が出席番号順なんだけど、私の前と後ろの席の子と仲良くなってね。学食も一緒に行ってるの。楽しいよ。自動販売機まで校内にあるんだよ。中学校では考えられないよね」
私は、やや興奮気味に話し続けた。
「その自販機の、ロイヤルミルクティーがおいしいの。甘さ控えめでね、でもとても素敵な味わいで」
『私も紅茶は好きよ』
姫君が同意してくれたことが嬉しくて、私は更に言葉を紡いだ。
「姫君は、どんな紅茶が好き?」
『セイロンのミルクティーが好き。それから、オレンジピールと一緒に淹れたアッサムも好きよ』
「私もセイロンのミルクティー、好きだよ」
姫君の声は明るく、口調もいつも通りだった。私はそれがひどく嬉しくて、また、久し振りに姫君と話が出来ていることが嬉しくて、心地好い興奮に包まれていた。私はずっと、姫君とこうして話がしたかった。色々なことを話して、色々なことを尋ねてみたかった。好きな食べ物、紅茶、考え、価値観、思い出。幼い私は、そうして相手と様々な話をすることよりも、自らを優先してしまったのだろう。姫君は私の友達であり、理解者だった。そのことを今、私は強く感じていた。そして、これからもそうであってほしかった。
「姫君、紅茶に詳しいね」
『まあ、多少はね』
その、まさにどこかの姫君さながらのような言い方がおかしくて、私は笑いが零れた。
『何がおかしいのかしら。失礼ね』
そう言いながらも、しかし、姫君は別段、怒っている様子は無く、むしろ私と同じように、どこか楽しんでいるように感じられた。
「あ、そうだ」
私は、机の上の小箱に手を伸ばした。紅茶の水色を思い浮かべていた私は、その琥珀色から、慧に貰ったばかりの琥珀を思い出したのだ。もっとも、それは真っ赤な太陽のような炎のような色をしたものであり、紅茶の水色とは違うものではあったけれども。
『どうしたの?』
私は琥珀の入った小さな箱を手のひらに載せて、不思議そうに尋ねる姫君を前に、そっと箱の蓋を開いた。そこには先程と同じく、真っ赤に燃えるような石、琥珀が、その存在を主張するようにして鎮座していた。赤く燃え立つその石は、先程と見た時と同じように私の心を惹き付けて止まなかった。
「これ、琥珀なんだ。姫君、覚えてる?」
『……ええ、覚えているわ』
懐かしそうに姫君が答えた。それだけで、私達の間には共通の認識が生まれていた。
私が小学校四年生だったあの日、慧の部屋で広げた鉱物図鑑。その一ページに赤々とした輝きで載っていた琥珀。私も姫君も、それを忘れてはいなかった。私は、それがとても嬉しかった。思い出は、一人だけで覚えていても寂しい。それが本当に自分一人だけのものならば、それで充分、輝くものなのかもしれないけれど、たとえば、その場にいた二人の内、一人だけしかその思い出を記憶していなかったら、きっとそれはとても寂しいと思う。だから私は、私の思い出が姫君の思い出にもなっているということが、本当に嬉しかった。
『綺麗ね』
「うん」
少しの間、私達は沈黙し、私の手のひらの上、箱の中で赤く輝く琥珀を見つめていた。
あれから、長く重い時間が経ってしまったように思えた。もう、それを取り戻すことは出来無い。時間が巻き戻ることは、決して無い。それでも私は、今この瞬間を幸せだと感じていた。姫君が共にいる、それは美しい輝きだった。
『これ、どうしたの?』
舞うように降り落ちた姫君の声が、私を静かに揺らした。
「あ、貰ったの」
私は、咄嗟に慧の名前を出すことを避けた。
それでも姫君は察しが付いたのだろう、
『ケイに?』
と、正解を言い当てた。
私は少しの躊躇いの後、小さくそれを肯定した。沈黙が訪れた。かち、かち、という秒針の音が私を焦らせ、早く何か言わなければいけないと思うものの、何をどう言えば良いのか全く分からなかった。
それでも、その沈黙と空気に耐え切れず、とりあえず何かを言おうと私が口を開き掛けた時、
『良かったわね』
という、優しく、軽やかな羽のような声が私に注がれた。
私は一瞬、本当にそれが姫君のものなのかと耳を疑った。
「…………え?」
私の唇から生まれたものは、言葉というよりも音に近いような、そんな驚愕に満ちたものだった。
しかし当の姫君は、
『あら、何をそんなに驚いているの?』
と、私の心などまるで想像も付いていないような明るい声で、心底から不思議そうに私に尋ねて来るのだった。
「何をって……」
私は、それだけを言うことが精一杯だったものの、現状を理解しようと努めた。しかし、困惑と焦燥から、理解し切れないまま、私は姫君にその疑問を問うことにしてしまった。
「それ、本当にそう思っているの?」
と。
『あら、失礼ね。本心よ』
あっさりと私の質問に肯定で答えた姫君を、私はすぐには信じられずにいた。私は謝ろうと思っていたのだ。あの、別れの日のことを。そして、慧の手を取ったことを。それなのに――。
姫君は、もう私を許してくれたのだと誤解しそうな程に、その声は明るく、そして、優しかった。棘など、どこにも感じなかった。
「あの、姫君…………」
私は、尋ねることを躊躇っていた。しかし、尋ねずに済ませられる程の疑問では無く、そのかけらが小さな声となって唇から生まれていた。
『どうしたの?』
私の心情を知ってか知らずか、姫君はいつもの口調で私に問い掛けて来た。
「えっと……姫君は、怒っていないの?」
『何を?』
ごく普通の調子で返して来る姫君の声に嘘や演技は感じられず、また、無理をして偽っている様子も感じられなかった。
だからこそ私は、やはり戸惑いを抱きながら、
「私が慧と一緒にいることを、姫君は不快に思わないの?」
と、思い切って尋ねてみた。
こればかりは遠回しに尋ねるよりも、端的に核心に触れるほか、無いと思った。それに、どうしてだろうか、私は心の片隅で、言いようの無い焦りを感じていた。その焼け付くような焦燥感が、単刀直入に姫君に問い掛けることへと、私を導いたような気がしていた。
『不快? そうね、全く不快に思わないとは言わないけれど。でも、私は安心しているの。とても、ね』
姫君は一旦言葉を切り、すぐに続きを話し始めた。
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