第八章【恋心】2

 家まで送ると言ってくれた慧の申し出を断り、すっかり夏色に染まった公園を、私は一人でゆっくりと通った。春は過ぎ去り、私の好きな公園の桜はとうに散ってしまっている。公園の半ばで、私は蒸し暑い夏の夕方を体全体に受け止めつつ、辺りの木々を見上げた。新緑の季節だった。昼間は輝かしい夏の日光を一心に浴び、強くその存在を主張する木々の葉も、夕方のこの時間では少しばかり頼り無く見える。夏は、私にとって否応無しに思い出が蘇る季節だった。


 小学校四年生の初夏に、私は小さな姫君と出会った。そして、小学校六年生の夏、姫君はいなくなってしまった。あれから、もう四年近くが過ぎようとしている。けれども未だに、私は姫君を忘れられないでいた。それどころか、記憶は鮮やかになって行く一方だった。姫君との会話が、思い出となって色鮮やかに私の胸に蘇る日々。やはり、日記を書いているせいだろうかと思う。毎日、姫君との思い出を思い出しながら書き記し、姫君に話し掛けるように綴っている。読み返せば、姫君との思い出、姫君への想いが、いとも容易く蘇る。


 …………もう、諦めなくてはいけないのだろうか。


 あれから四度目の夏をこうして迎えても、姫君は一度も私に話し掛けてくれることは無かった。それどころか、姫君はもう私の中にいないように思えた。小さな姫君が、私の中にいない。それは認めたくない事実だった。


 しかしながら、私は、心のどこかで分かっていた。やはり姫君はあの日を境にいなくなってしまい、もう私の中のどこにも存在しないことを。うまく説明は出来ないものの、それは本当は疑いようの無い、紛れも無い真実だった。感覚、とでもいうのだろうか。姫君がいなくなったあの日から、私は心に空虚感を感じていた。そして今日まで、それが埋められることは無かった。その事実が示す真実から、私はずっと目を背け続けていただけだ。背け続けていたかったのかもしれない。もしくは、一縷の希望に縋っていたかったのかもしれない。きっと、また会えると。


 オレンジ色の夕陽を受けて柔らかく光る木々から、私は、つま先へと視線を移した。ともすると涙を落とそうとする両目に、私は、きゅっと力を込めた。泣いても、何も変わらない。姫君がいなくなってから今まで、私は何度、泣いて来たのだろう。日記を書いている時、綺麗な桜を見上げた時、夏が訪れた時、部屋に一人きりの時、そして、夜、眠る時。幾度泣いても、姫君は帰って来なかった。幾度想いを馳せても同じだった。だから、泣いても何にもならないことを、私はもう、充分過ぎるくらいに知っていた。


 顔を上げ、私は一歩を踏み出した。視界に入った夕陽を、まるで琥珀のようだと思う。美しく大きな琥珀。姫君も、どこかでこの夕陽を見ているのだろうか。姫君の考えや想いは、もう私にすら分からない。それならば、他の誰にも分かるはずが無いのだ。私は少しの自嘲を唇に刻み、琥珀色の飽和する公園を、ゆっくりと通り抜けて行った。


 やがて自宅に着き、鍵を回せば、冷たい金属音を立てて玄関扉は開かれた。私は、この無機質な音がどうしても好きになれず、小学生の頃から未だに慣れないままだった。居間の照明ボタンを押せば、かたん、という音に続いて、二本の蛍光灯が白く光る。木製の小さなテーブルの上には、「遅くなります」とだけ走り書きされたメモが置かれていた。私は、無意識に溜め息を零した。


 以前より、私は物分かりが良くなったとは思う。誰だって自分の思う通りに行動してみたいのだ。自分の人生を好きなように歩いて行けたら、それに勝る幸福は無いと思う。それでも、無機質な扉の音や、真っ暗な室内には慣れることは無かった。


 私は、居間の明かりを消して自室への扉を開けた。生活の色を濃く残す空間より、自分の部屋の方がまだ気分が楽だった。


 部屋の明かりを点けないまま、私は静かに扉を閉めた。扉に寄り掛かり、ぼんやりとしていたら、自分の気持ちが薄暗く落ちて行くことを感じた。いつか、また会える。そう信じていた。今でも、その気持ちは、ちゃんと私の中にある。けれど、あれからもう四年が過ぎ行こうとしている。その間、姫君の声を聞くことは一度も無かった。そもそも、姫君がまだ私と共にいるという確証すら無いのだ。証拠も無い。逆に、あの別れの日以来、心に感じている空虚感がある。それが何よりの証拠ではないだろうか。小さな姫君は、もういないということの。


 ずるずると背中を引き摺るようにして、私は扉を背に座り込んだ。軽く膝を抱えると、私自身がひどく小さな存在に感じられた。私一人分の体温と体積。それが、どうしようもなく心細かった。


 ――その内に私は眠っていたらしく、ふと目覚めた時には室内は先程よりも暗く、夕方の光は消え失せていた。ぼやけた視界を見つめながら、今は何時だろうと、私は同様にぼんやりとした頭で考えた。その時、薄暗闇の室内で、ちか、と何かが光った。光は手元の携帯電話からのものだった。私は携帯電話を開き、届けられていたメールを読む。


 ――有来に渡そうと思っていたものがあるんだけど、忘れてた。ちょっと出て来られる?


 慧からのメールの受信時間は、三十分程前の夜七時だった。夏になり、日が伸びたせいで、この時間になってもそこそこ外は明るい。私は慧にすぐ返事を書いた。私の書いたメールは「送信中だよー」と言いながら、ドレスを着た小さな女の子がジャンプをして送信してくれた。私は未だに、このメールの送信画像を変えられないでいた。悲しくならないわけは無く、けれども悲しいだけでは無かった。姫君が近くにいてくれるような気がする、ただそれだけの、単純で切ない祈りのようなものだった。


 すぐにピアノの音が軽やかに鳴り、メールの着信を知らせた。


 ――公園で待ってるね。


 私は携帯電話を閉じて立ち上がった。扉を開けると、自室と同じく廊下も居間も薄暗闇のままだった。その暗闇から目を逸らすように、意識しないようにしながら私は素早く靴を履いて外へと続く重たい扉を開けた。


 足早に歩きながら私は軽く髪を手櫛で整え、少し目線を上に向けた。夏の空気は体に纏わり付くように重く、暖かく、水中を歩いているかのような錯覚を覚える。鳴き叫ぶ蝉の声、色鮮やかな緑、重く暖かな空気、そしてダークオレンジの空に、灰色に近い白に染まった厚みのありそうな雲が見えた。夏は、私にとって複雑な季節だが、この雰囲気は嫌いでは無かった。全てが力強く、生命を歌っている気がする。それに負けたくないと、私は思った。


 住宅街を抜けると、公園のベンチに座って軽く片手を挙げる慧が見えた。私も手を振り、それに応えた。その瞬間、ああ私は幸せだと思った。これ以上に私は何を望むというのだろう。私の願望は、ただの我が儘で贅沢に過ぎないのだろうか。姫君に会いたいという気持ちは、もう諦めなければならないのだろうか? 答えなど出ない問い掛けをしながら、私は慧の隣に座った。


「何か用事だったの?」


 私が尋ねると、


「そう、渡したいものがあってね」


 と、慧は言い、自身の右隣から小さな箱を取り出して見せた。


「何、それ?」


 私は僅かにドキドキして、知らず期待を込めて聞いた。


「開けて良いよ」


 慧の声は少し嬉しそうに弾んでいた。手のひらに綺麗に収まる水色の小さな箱には、鮮やかな赤いリボンが掛けられていた。手に触れるとしっとりとした感触を伝えるリボンは、上質なものだと分かった。


 私は逸(はや)る気持ちを抑えつつ、その赤いリボンを解いて行った。解いたリボンは、慧が預かってくれた。私はお礼を言い、再び小さな箱に目を移した。自分の鼓動を感じながら、私はそっと箱の蓋を開く。途端、私は声をなくした。驚きと、感慨。蘇る思い出。そこには、悲しい程、美しく、そして力強く佇む石があった。これの名前を私は知っている。小学校四年生の時、慧の家にあった鉱物図鑑で見たのだ。小さな姫君と一緒に。


「これ……どうしたの?」


 純粋な疑問だった。けれど、自分でその問いを発したにも関わらず、私は慧の答えを聞きたいような聞きたくないような、複雑な思いでそこにいた。それはまるで、判決を待つ人間のような気持ちだったかもしれない。言葉にし難い何かが全身を包み、喉元に引っ掛かるものを感じた。


「お土産なんだ。先週の土日に行って来たところで買ったんだけど、気に入らない?」


「……これ、どこで?」


 明るく、けれど私の反応を窺うような慧の言葉に、返す私の言葉は、ごく僅かに震えていた。自分でも、そうと気が付かない程に。


「大学の友人に誘われて、岩手県に行ってきたんだ。そこに大きな博物館があって」


「どうして、これを私に?」


 私は慧の言葉を遮り、自分の疑問を優先した。箱の蓋を開ける時とは比べものにならない程に、鼓動は早く、大きく打っていた。


「有来が好きだと思って……違った?」


 私の様子を見て、何か感じ取るものがあったのだろう。慧の声は先程よりもトーンが落ちていた。しかし、私は慧を見る余裕の無いまま、自分の手のひらの中で輝く真っ赤な石を見つめ続けていた。あの日、姫君と一緒に鉱物図鑑で見たものと、とても良く似た色。真っ赤な、夕焼けのような色。


「琥珀」


 私の声は震え、夏の空気に溶け込むように消えて行った。小さな、小さな囁きだった。


「好きかなと思ったんだけど……嫌い?」


 慧が再び尋ねる。私は精一杯、首を横に振って、慧の問い掛けを否定した。姫君と見た石が、今ここにある。私の目の前に、私の手の中に。その存在を誇示するかのように、赤く強く染まった色で、琥珀はそこに佇み続けていた。私は目が離せなかった。目を離せば、幻のように、夢のように、消えてなくなってしまうような気がした。


 ――まるで、姫君のように?


「違う…………」


 自分の内側から生まれた疑問を、私は声に出して否定した。そうしないではいられなかった。


「有来?」


 私は思い切って顔を上げ、慧を見た。慧は、やや心配そうな顔付きで私を見ていた。慧を見つめても、手のひらの中の重さは失われなかった。慧から再度、視線を戻してみても、真っ赤な琥珀は美しいまま、静かにそこにあった。


「琥珀、好きだよ。大好き」


 もう一度、慧を見て、私はそう告げた。自然に私は笑顔になっていて、自分でも少し驚いた。


 そんな私を見て、慧は安心したように、


「良かった。でも、どうかした?」


 と、気遣うように言った。


 私は、意識的に呼吸をした。気持ちを落ち着ける為、そして、慧に話をする為。私は、もう慧に隠しごとはしないと決めていた。それは慧の願いであり、私の願いでもあった。姫君にそうしていたように、私は私の正直な気持ちを慧に知ってほしかった。伝えたかった。伝わって欲しかった。その為の努力をしようと思った。もう遠回りをしないように、慧を信じて行けるように。


「あのね、琥珀、姫君と一緒に見たの」


「ああ、そうだったんだ」


 注意していなければ分からない程に、ごく僅かに慧の声音には緊張のようなものが含まれていた。それは、私の心に対する優しさかもしれない。あるいは、恐れかもしれない。でも、私の決意は揺るがなかった。姫君との再会を諦められないこととは、これは別の問題なのだ。私が慧を信じているかどうか。ただ、その一点に収束されるもの。


「小学生の時、慧から鉱物図鑑を借りたでしょ? あれに載ってたの」


「ああ、作文にも書いていたし、好きなのかなと思っていてさ」


 ちゃんと、笑えている。演技なんかでは無かった。姫君との思い出が、悲しいものであるはずが無い。確かに、別れは悲しかった。後悔もある。もう取り戻せない予感もある。時間は巻き戻らないということを現実として認識出来る年齢になり、それが、より一層、悲しみに加速を掛けた。それでも全てが無くなるわけでは無い。夢幻のように消えてしまうわけでは無い。悲しみだけに埋もれてしまうわけでも、無い。


「私、あの時に初めて琥珀を見たんだ。真っ赤で、すごく綺麗でびっくりした。姫君も綺麗だって言ってた」


 慧は黙って頷いた。静寂に、蝉の鳴き声と、微かな葉ずれの音が聞こえている。


「ありがとう、琥珀。嬉しい」


 鮮烈に赤く、存在を主張する琥珀をじっくりと見つめた後、私はそっと箱に蓋をして、そう告げた。正直な私の気持ちだった。


「ちょっと心配なんだけど。無理してない?」


 気遣うように私を見る慧に、私は偽り無く答えた。


「無理して無いよ。本当に嬉しかったし。悲しい思い出にはならないんだって分かったから」


 不思議な程、私の心は静かだった。波一つ無い、穏やかな海のように落ち着いていた。それはとても自然な気持ちで、無理などどこにも無い本当のものだった。私は、ようやく受け入れたのかもしれなかった。姫君との思い出を。


「大事にするね」


 私が笑って言うと、やっと慧も安心したように笑顔を見せた。


「気に入ってくれて良かったよ」


 私と慧は、ほぼ同時に立ち上がった。ふと、私は頭上を振り仰ぐようにして空を見上げた。夏のやや明るい夕暮れの空は、深く濃いオレンジ色に染まり、そこに濃紺が力強く混ざり始めていた。


「勉強、ちゃんとやってる?」


 右隣から降って来た慧の声に、私は空から慧へと視線を移した。


「やってるよ、大丈夫」


「そうか。分からないところあったら早めに言えよ。一つ分からなくなって放っておくと、どんどん分からなくなって行くから」


 軽く私の頭の上に手を載せ、慧は言った。


「経験談?」


 笑いを含んだ私の言葉に、


「まあ……」


 と、曖昧に返す慧。


 私は、ささやかなこんな時間が大好きで大切だった。もう二度と失わないよう、手放さないよう努力していこうと、私は密かに誓った。


「じゃあ、帰るね」


「ああ、気を付けて」


 途中、振り向くと慧と目が合った。私が手を振ると、慧もそれに応えて、肩の辺りまで手を挙げ、振ってくれた。ひどく幸せだった。帰り道、手の中で微かに揺れて、小さな音を鳴らす琥珀は、まるでその象徴のように感じた。


 家の前に着き、もう一度、空を見上げると、オレンジ色よりも濃紺の方が遥かに広く大きく空中に広がっていた。私はしばらくそれを目に映し込み、静かに首を正面に戻した。たとえ冷たい無機質な扉の音と、暗闇に包まれた室内が私に手を伸ばそうとも。慧と、琥珀と、そして姫君との思い出があれば、私はきっと大丈夫。


 そう信じて、私は重たい鉄の扉を開けた。

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