第八章【恋心】1

「有来は水族館が好きだよね」


 その言葉に、私は右隣に立つ慧を見上げる。


「慧は、あんまり好きじゃない?」


「いや、好きだよ。でも、有来は本当に水族館が好きだなー、って思って」


 慧の言う通り、私は水族館が大好きだ。それは、大好きという言葉では表し尽くせ無い程に。透明なガラスの向こうに、こちら側とは違う水の世界が広がっている。絶えず魚たちは泳ぎ、時折、私と目が合ったように感じたりもする。ゆらゆらと動く珊瑚、底に敷き詰められた小さな石、広く高い水槽、湛えられた水。目の前に広がる全てが神秘的で、幻想的で、切ない程に輝いていた。


「綺麗だね…………」


 私は思わず、そう口にしていた。


 綺麗。そこに凝縮された心は複雑で、本当なら綺麗の一言では表せないものだ。けれど、自然と零れ落ちたその言葉が、全てを語ってくれるようにも感じた。姫君は今、この景色を見ていてくれているだろうか。綺麗だと思っているだろうか。


 私は視点を固定し、その視界に飛び込んで来てはフレームアウトして行く魚達を見つめた。どれほど近くに感じても、その距離は遠い。たった一枚のガラスを隔て、私の手が魚達に届くことは絶対に無い。彼らが泳ぐ水温に触れることも無い。ただ、見つめるだけ。綺麗だと、切なさを抱えるだけ。私が一方的に想うだけ。それはまるで、私と姫君の今の関係性のようだった。


 私が姫君を想っても、姫君からは何も返事が無い。彼女が私の心だけに棲んでいたという事実を認めたとしても、その距離は近いようで、今はとても遠い。どれ程に思い出を浮かべ、見つめてみても、時が経てば経つ程にそれらは掠れて行く。視界に映り込んだ色鮮やかな魚も、刻々と時が経つ程に、僅かずつ印象も映像も薄れて行く。


 突然、静かな寂しさが私の全身を包んだ。はっきりとした理由は分からない。ただ、どんな思い出も感情も記憶も、時間が経てば、それだけ正確性は失われて行く。それを体全体で感じ取ってしまったのかもしれなかった。目の前に広がり、私を包むようなこの水景色が、殊更にその気持ちを増幅させたようにも感じた。


「……どうした?」


 私は、顔に出ていたのかもしれない。頭上から、慧の気遣うような声が降った。


「……綺麗だな、と思って」


 私は、視線を依然、固定したまま、そう答えた。おそらく慧は、何かを感じ取っていただろう。


 けれども慧は、


「そうだね」


 と、一言、短く告げたきりで、それ以上は聞いて来なかった。


 そして私達は、しばらく無言のまま、泳ぎ回る魚達を見ていた。不意に、ずっとガラスに触れていたままだった私の両手のうち、右手に温かさを感じた。振り向くと、そこには慧の左手が重ねられ、やがて私の手は慧のそれと共にガラスから離れた。慧が私の隣にいる。こんなにも近くに立っている。繋がれた片手から伝わる体温を感じながら、私は再び魚達に目を戻した。


「ありがとう」


 私が小さく告げると、


「どういたしまして」


 と、慧の言葉が返って来た。


 私は、切なくも温かな気持ちでそこにいた。左手に光るメレダイヤが、その象徴のようだった。


 私は、ゆったりとした時間が好きだ。木々の多い、あの公園を歩いて行く時間。他愛のない話をしながら、友達とお茶を飲む時間。ゆらゆらと溶けて行くような錯覚を覚える、水族館で過ごす時間。そして、こうして慧と過ごす時間。最近、私は、慧と同じ時間を過ごしている時が一番、落ち着くようになっていた。勿論、緊張したりドキドキしたりはする。それでも慧の近くにいる時が、一番、心が落ち着いている。矛盾しているかのようだけれど、慧と同じ空間にいる時、私にはそれが自分に無理の無い、自然な形のように思える。そしてそれが、ひどく幸せなことだと、私は知っている。


 水族館からの帰り道、慧は、


「良かったら、家でお茶飲んでいかない?」


 と、私をお茶に誘ってくれた。


 慧の家で過ごす時間はとても温かく、どこか懐かしさすら覚える。私は、慧と一緒にいられる時間が増えたことを心から嬉しく思い、二つ返事で頷いた。


「何、飲む? 紅茶、珈琲、牛乳、オレンジジュース、無糖炭酸水……」


 ダイニングで私に振り返りながら、慧は次々と飲み物を挙げた。その様子が少しおかしくて、私は紅茶をリクエストしながら笑ってしまった。


「あれ、何かおかしい?」


「ちょっと。どんどん言うから面白くなって」


 ダイニングには、鍋から生まれる、お湯の沸く、こぽこぽという音と、慧が紅茶の缶やティーポットを用意する音が静かに響いていた。


「紅茶、どれにする?」


「セイロン」


 私の答えに軽く返事をして、慧は手際良く準備を進めて行く。


「手伝おうか」


 立ち上がり掛けた私を慧は軽く手で制し、


「良いから座ってな」


 と、告げた。


 私は、慧が紅茶を淹れているところを見るのが好きだった。うまく言えないけれど、とても穏やかで幸せな気持ちになれる。だから私は再び椅子に座りながら、慧の手元を見つめることにした。やがて二人分のティーカップと、ティーコジーに包まれたティーポット、ミルクピッチャー、シュガーポットがテーブルに置かれた。


「有来はセイロンのミルクティーが好きだよね」


 慧は、私の向かいに座りながら言った。


「うん、好き。ミルクティーは全般的に好きだけどね。何だか落ち着くから」


 慧といる時のように落ち着くから、と思ったけれど、その言葉は私の胸の中に仕舞っておいた。


 私と慧は、少しの間、沈黙を保ちながら紅茶が抽出されるのを待った。


「あのさ」


 静かに沈黙を破ったのは慧だった。


 私が慧に目を合わせると、


「思い違いなら、それで良いんだけど。最近、元気が無いような気がする」


 と、慧は告げた。


「何か気になっていることでもあるのかと思ってさ。さっき、水族館でも少し心配になって」


 私は、慧の言葉を受けて少しの迷いが生まれた。気になっていること、それはある。でも、それは自分の中で解決すべきことであると思っていた。だから私は誰にも言う気は無く、ひっそりと日々、考え続けていた。


「言いたくなければ、それで良い。でも、有来が話したいなら俺は聞きたい」


 慧は、ティーコジーを外して、柔らかな手付きでティーポットで軽く円を描いた。ガラスのポットの中、茶葉がゆらゆらと揺れているのが見えた。まるで私の心のように、それらはゆらゆらと揺れていた。慧は、ティーカップに入っていたお湯をシンクに流し、ゆっくりとティーカップに紅茶を注いで行った。途端、ふわりと紅茶の香りが広がる。温かく、柔らかなセイロンの香りが、私と慧の周りを包み込むかのように立ち昇った。


「思い過ごしかもしれないけど。でも、俺の勘ってあんまり外れないから」


 ティーカップを私に差し出しながら、慧はそう言って優しく笑った。


「こと、有来に関してはね」


 私の心を大きく揺るがすには、充分過ぎる一言だった。


 温かなセイロンのストレートティーに角砂糖を二つ入れて溶かし、私はゆっくりとミルクを注いだ。すると透明な紅茶の水色は、たちまちミルクと混ざり合って行く。私はその様子を眺めながら、慧に話すべきかどうかを考えていた。最近、気に掛かっていること。それは勿論、小さな姫君のことだった。しかし私の中で何かしらの答えを出さなくてはいけないと決めた以上、そこまでは私一人で辿り着かなければならないような気がしていた。また、それ以上に、慧に姫君の話をすることに、私は遠慮というか、引け目というか、素直になれない自分を感じていた。それは、罪悪感に少し似ていた。


 私は、こうして慧と一緒にいられることを本当に嬉しく思っているし、もう自分からその手を離すことは無いと思っている。それが今、現実のものとなっているのは、慧が私のことを諦めないでいてくれたからだ。慧が姫君の存在に気付き、そして私が慧よりも姫君を選んで慧を拒絶してしまってからも、慧は私を諦めないでいてくれた。本当の気持ちを私から引き出そうと、ずっと私の側に立って支えてくれていた。私は、自分の残酷で利己的な面に気付かされたようにも思えて、慧と姫君の間で相当に揺れてしまった。そして結局、私は慧を求めてしまった。でも、もう後悔は無かった。慧から離れたくは無いし、慧を失うことを自分からしたくなかった。ただ、慧を失いたくは無いけれど、姫君を失いたくも無い。


 それは我儘なのだろうか? だから姫君はいなくなってしまった?


「有来?」


 呼び掛けに顔を上げると、慧と目が合った。私は、慧と目が合う瞬間が好きで、そして、苦手だ。私の思っていることが、全て見透かされてしまうような気がするからだ。


「無理に、とは言わないけど。でも、話してみない?」


 誘うような歌うような問い掛けに、私は再び心が揺らぐのを感じた。心を落ち着ける為に、私はセイロンのミルクティーをひと口、飲んだ。温かな紅茶が私の喉を通り過ぎ、お腹の辺りに辿り着く頃、私はようやく慧に言葉を紡ぐことが出来た。


「…………姫君には、もう二度と会えないのかな」


 それは思ったよりも小さく、そして自分でも驚く程に、頼り無い声だった。


「有来」


 慧が、僅かに驚きを含んだ声音で私の名前を呼んだ。私は、うっすらと視界がぼやけたことを感じ、泣いてはいけないと必死にそれを堪えた。姫君のことで涙を流すことは、慧の前ではしてはいけないと思っていた。慧は私を想い続け、ずっと私を助けてくれていた。私は一度、それを強く拒み、それでも最終的には慧と手を繋いだ。慧はそれを許し、私を責めることはしなかった。それだけで、もう私は充分すぎる程に幸せだった。恵まれていると思った。そこに辿り着かせてくれた慧、沙矢、そして姫君に心から感謝をした。これ以上、私は何を求めるというのだろう。これ以上、私は慧に、何を言おうというのだろう。私の子供じみた、駄々っ子のような願いごとを、慧に告げてどうしようというのだろう。


 慧の前で、姫君のことで、泣きたくない。それは私なりの慧に対する誠意だった。私は慧の手を取ったことを後悔などしていない。それなのに私が姫君を想って慧の前で涙を見せることは、卑怯な気がした。慧に申し訳無いと思った。


「有来」


 もう一度、慧が私の名前を呼ぶ。慧の声が、頭の中心に直接、響いたような錯覚に陥った。心の中心かもしれない。そして私の全身が、慧に傾きたいと叫んでいた。慧に、この苦しい気持ちを預けてしまいたいと泣いていた。私は懸命に涙を堪え、慧から目を逸らした。


 がたん、という音が私の耳に届く。


「もしかして、ずっと我慢してた?」


 先程よりも近くで聞こえる慧の声は、慧が私の隣にいることを示していた。肩と背中に感じる温かな体温は、慧の手のひらに違い無かった。


「有来」


 また、慧が私の名を呼んだ。私は俯き、振り向けなかった。振り向いたら、そのまま何もかもを吐き出すように、子供のように、泣いてしまう予感があったから。


 私は、小さな姫君をイマジナリーフレンドだと認めてはいなかった。姫君がそうだと受け入れることは、まるで、姫君は私が作り出した儚く淡い夢のような、幻想のようなものだと認めるようで、きっと無意識下で心が拒絶を示していた。けれど、それに気付いたところで、私はどうしたら良いのだろう。私に出来ることなど、もう何一つ残されてはいないのではないだろうか。


 ただ、姫君を忘れないでいることだけ。彼女は確かに存在し、私を助け、導いてくれたことを忘れずにいることだけ。思い出を繰り返し繰り返し思い出しては、それを日記に綴って書き留めておくだけ。私に出来ることは、きっともう、それだけ。そんな小さな抵抗だけ。


 私は、慧を選択してしまった。けれど、それは決して姫君を切り捨てるような意味では無かったと、今、私は誰に伝えれば良いのだろうか。姫君が何であろうと、どんな存在だろうと、私はもう一度、彼女に会いたい。話がしたい。謝りたい。伝えたい。それを今、私は誰に告げれば良いのだろう。この気持ちを、どうすれば良いのだろう。どこへ導けば良いのだろうか?


「有来」


 呼ばれると共に、私の右頬に温かな体温を感じた。私の顔はそのまま慧に引き寄せられ、半ば無理矢理に、私は慧と視線がぶつかることとなった。


「別に悪いことじゃないよ」


 慧は、静かな声で言った。


「会いたいと思うことは、悪いことじゃない」


 静かに、けれどはっきりと言い切る慧に、私は救われるような気持ちを味わった。


「でも、そうやって有来が一人で悩んで、考えて、泣くことを、俺は望まない」


 一つ一つの言葉を間違い無く私に届けようとでもするような、そんな風に慧は私に話した。穏やかで芯のある慧の声は、静かなダイニングに確実に響いては私の耳に届き、心に吸い込まれて行った。


「これからは色々話してって言ったのに。気付かなかった俺も悪いけど」


 その言葉の後半を否定しようと、私が慌てて口を開き掛けた時、


「いつ頃から?」


 と、慧は私に尋ねた。


「……高校に、入学した時くらいから」


 ぽつ、と私は告げた。未だ話して良いものかどうか迷う心を抱えたまま、それだけが零れ落ちるように私の口から紡がれてしまった。


「じゃあ四ヶ月近く、ずっと考えては泣いていたの?」


 窺うような気遣うような慧の声に、私は答えることが出来無かった。表面上は、ただの意地だったのか、強がりだったのか。勿論、心を締め付けるものは慧への気遣いであり、罪悪感に似た何かであることは間違い無かった。慧を否定し、拒み続けた日々は、忘れずに私に刻まれている。この上、姫君について慧に話すことは、無神経というか配慮不足というか……うまく言えないけれど、慧を頼ってはいけないと思った。


 そして、それ以上に、これは私が一人で越えなくてはならないものだと感じていた。姫君が何者であろうと、どんな存在であろうと、彼女が私を助けてくれたことは事実であり、真実だった。そこから生まれた、未だ私をこんなにも大きく包むこの気持ちを、どこへ導くかは私が一人で決めなくてはならないことだ。それは、小さな姫君への精一杯の誠意であり感謝であり、そして同時に慧への誠意で、私のプライドでもあった。だから私は、勇気を出して心から慧に伝えることにした。私は、大丈夫だと。


「一つだけ、約束して」


 慧は、芯のある声で私に言った。


「限界まで考え続けるのは無し。そうなるより前に、必ず話をして欲しい」


「うん、分かった」


 私が即答すると、慧は少し訝しげな表情になった。


「……あまりに聞き分けが良すぎても不安だな」


 慧は軽く溜め息をついた後、私の頭に手を置き、頬に添えられていた手は肩へと滑って行った。そこから伝わる体温は温かく、いつものように私を安心させてくれるものだった。


「大丈夫、無理しないから」


 私の言葉が確かに慧に届いたのか、慧の表情は和らいだものになった。私は、慧の優しさに甘えている。その声と、体温と、心に、寄り添うように立っている。


 それが悪いことだとは思わない。私達は長い空白を埋め尽くすように、互い共に傍にいることを望んでいたし、互い共にそれが苦痛だと思っていなかった。ただ、小さな姫君のことは、私一人で考えてみたかった。そこには一言では表し切れない、複雑で説明し難い感情と思考があり、それが私の奥底にそっと息づいていた。でも、私が本当に困ってしまった時、きっと慧は私を助けてくれるだろう。それは思い上がりでも自惚れでも無い、信頼というものだった。だから私は大丈夫だ。だから嘘偽り無く、私は慧に伝えることが出来る。


「大丈夫。慧がいてくれるし」


 すると慧は安心したように表情を崩し、


「そうだな」


 と、自信と不敵さを以て付け加えた。


 私は、その言い方に少し笑いながらも、安堵を確かに感じていた。


 ダイニングには、心が安らぐセイロンのミルクティーの香りが漂い、少しの隙間も残さないように私達を包んでくれているようだった。

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