第七章【幸福】
“小さな姫君へ
お元気ですか? なんて書いてみたけれど、何だかおかしいね。でも、どんな風に書き出して良いか分からなかったの。
私は、第一志望の県立高校に推薦で入ることが出来ました。バスで通っています。制服は、深い緑色をしたチェックのスカートが気に入っています。ブラウスの襟の下辺りで結ぶ、小さな赤いリボンもお気に入り。姫君にも似合いそうな可愛らしいリボンです。学校の正門に近付く辺りでは、桜並木が左右に広がっていて、私を乗せたバスはその間を走って行きます。既に散り始めてしまった桜の花びらが、時々バスの窓ガラスに舞い降ります。私はあの道を通る数分間が、とても気に入っています。
姫君は元気ですか? そればかりが気になっています。あの桜を一緒に見たいと思っています。とても優しく淡い色は、意外に姫君に似合うように思います。意外なんて言ったら怒られるかな。
県立は、学費が私立に比べてとても安いので、推薦が決まった時はほっとしました。母は相変わらず、あまり私と話をしてくれません。私よりも、素敵な男の人を見付けることに夢中みたいです。でも、今なら少し、その気持ちが分かります。私とあまり向き合ってくれないことはやっぱり今でも悲しいし、色々、許せないことだってあるけれど、大切な人に会いたい、その心は否定出来無いから。
私が慧に指輪を貰ってから数日後に、「それ、どうしたの」と母に聞かれました。少し迷ったけれど、「貰った」と、端的に隠さずに言いました。母も短く、「そう」と答えただけでした。でも、「良かったね」と付け加えてくれたことが嬉しかったです。
実は指輪をして中学校に行っていたので、後日に担任に職員室に呼ばれ、尋ねられました。小学生の時も職員室に呼ばれたし、私は問題児かな?
あの時は姫君がいてくれたし、アドバイスもしてくれたから心強かったけれど。この時は姫君がいないから一人で頑張ったよ。担任は、特に私を怒りはしなかった。二年生の時と同じ教師だったのだけど、性格も変わってなかったみたい。「自分で責任を持つなら構わない」みたいな、あの村野先生だよ。ちゃんと私が目を見てはっきり話したことが良かったのかもしれない。
「大切な人から貰いました。私の支えで、誓いです。だから外せません」
確か、こんな感じで話しました。とても緊張したし、心臓の音が、すごくすごくうるさかった。でも、目は逸らさなかったよ。
大切な話をする時は相手の目を見て話す。姫君が教えてくれたよね。ありがとう。これがあったから、私は慧ともちゃんと向き合って話が出来たんだと思う。目を逸らしたら、私の心ごと、どこかに行ってしまうように思えて、一生懸命に話したよ。
指輪は意外と目立つみたいで、高校に入学してまだ二週間も経たないのに、既に何人かのクラスメイトから色々と尋ねられました。
でも、私はこれを外さないし、外せません。慧が大切だからということは勿論だけれど、もう二度と逃避しない為の、誓いの証のようにも思えるから。
こんな話、姫君は聞きたくないかな。返事が無いから分からないよ。でも、姫君に聞いて欲しいな。ただの我儘かもしれないけれど……。
そろそろ宿題をやって寝るね。推薦入学で一番上のクラスに入ったから、頑張らないと。高校に入ると周りが勉強を始めて努力をして来るから、油断したら駄目だと慧に釘を刺されました。
今日は英語のプリントです。頑張ります。
おやすみ、姫君。”
私は、高校生になってから日記を付け始めた。というのも、ある日、慧が日記を書いていることを知って触発されたからだ。
「え、日記?」
「そうだよ。小学生の高学年くらいからかな、付け始めたのは」
慧は二人分のオレンジジュースと苺のショートケーキを、ガラスのテーブルに並べながら言った。
私が慧の机に置かれていた本を目にして、
「これ、小説?」
と、尋ねたことが始まりだった。
青く深い、海を思わせるような色をした表紙は美しく、装丁からは上質な雰囲気が窺えた。手に触れた感触も、しっかりとした存在感を私に伝えた。その堂々さすら感じられた日記帳とは裏腹に、私がその表紙に触れた時、慧はかなり焦っていた。
触れながら尋ねた私を振り返り、
「あ、それ日記帳なんだ」
と、短い言葉の中に焦りと動揺が刻まれていた。
私はその時、慧の思ったことや感じたことがこの一冊に詰まっているのかと思うと、とても興味を惹かれた。人の日記を無断で見るなんてことは絶対にしてはいけないことだと思うから、いつか慧が少しだけでも私に日記を見せてくれたら良いなと思った。そしてそこに、少しでも私の名前があったら本当に嬉しいと思う。
こうして私は慧の日記帳の存在を知ったことをきっかけに、私も日記を付け始めた。人は日々、色々なことを考え、色々なことに遭遇していると思うが、その半分くらいは日々忘れて行ってしまっているような気がする。そして、覚えているはずの記憶ですら実は曖昧で、正確性は時間と共に削られて行っていると思う。全部は無理でも、その一部を文字として残し、私の思ったことを留めておくことが、日記を書くという行為で可能になる。そう思った私は高校入学を期に、日記を書いている。
真っ先に浮かんだのは、小さな姫君のことだった。姫君を忘れるなんて有り得無いけれど、記憶は少しずつ削られて行くはずだ。まだ鮮明な内に少しでも多く残しておきたかった。そして、姫君が確かに存在した証にしたかった。
慧の部屋で日記帳を見掛けたのは、高校入学式を三日後に控えていた日のことだった。その翌日、私は文房具屋に足を運び、可愛いピンク色の日記帳を購入した。
派手では無いその色合いは勿論、細い線で描かれた、沢山のカラフルな花も気に入った。まるで姫君をイメージしたかのような、可愛らしく少しの高貴さを感じさせるそれは、私の視線を捕らえ、心を掴んだ。祈るような気持ちで私はその日記帳を購入し、部屋に迎えた。初めて姫君に出会った、あの小学生だった日の時のように高揚した。この日記帳に、姫君に伝えたいことや忘れたくないことを書いて行こうと、私は一人、密かに誓った。
“小さな姫君へ
最近やっと、私は高校生活に慣れて来ました。中学生の時と比べて勉強が難しくなったり、実技科目が減ったり、給食ではなくお弁当持参で、学食があったり給水機があったりと、色々な変化がありました。環境の変化で大変なことも増えたけれど、目新しいことも多く、変化を楽しめる余裕が少しずつ生まれて来ました。友達も出来て、この間、一緒に学食に行きました。無難にうどんを頼んだのだけど、何と希望者には生卵を一つ、くれるのです。びっくり! 卵をうどんに落として食べるなんて初めて。すごくおいしかったし、新鮮な感動があったよ。
やたらと感動していたら、友達が、「有来の反応の方が新鮮だよ」と言いました。でも、うどんに生卵って本当にびっくりしたの。姫君は知ってた? 私は、そばよりもうどんが好きなんだけど、姫君はどっちが好き?
そういえば姫君は、ご飯食べるのかな……今更な疑問でごめんね。今、姫君が聞いたら絶対に怒る気がする。考えたら、私ばっかりオレンジジュースやチョコクッキー、トマトスパゲティをおいしく食べていたよね。ごめんなさい。
今日、久し振りに沙矢からメールが来たよ。お互い落ち着いて来たら遊びに行きたいね、って内容だった。
メールの送信画像は、今もまだ変えていないんだ。だから書き上げた私のメールを、「送信中だよー」ってジャンプしながらお姫様が届けてくれました。やっぱり、あの画像は小さな姫君にちょっと似てるよね。実は、メールのたびに姫君を思い出すんだ。
もう会えない? 私が慧とお付き合いを始めたことを怒ってる? そんなことばかりを考えては、姫君との思い出を思い返しています。もう姫君に頼ってばかりで負担を掛けることには、きっとならないと思うから。もう一度会いたいです。慧とお付き合いをしていると、会ってはくれませんか?”
“小さな姫君へ
桜の花が、ほとんど散ってしまったの。雨の日もあったから余計に早くに散ってしまったみたい。行きと帰りのバスから眺める桜並木が大好きだったから、すごく残念。近所の公園の桜も同じようにほとんど散ってしまって、桜の木の下には花びらの絨毯が出来てしまっています。それも綺麗なんだけど、やっぱりもう少し咲いていて欲しかったな。どうして毎年のように、桜の花が咲き始めると雨が降るのかな。あれは悲しいよね。
姫君と一緒に桜を見たかった。あの淡いパステルピンクは、きっと姫君に似合うよ。この間は、意外に似合うと思うなんて言ってごめんね。通学バスから桜並木を見たり、公園の桜を見たりするたび、姫君はこれを見ているのかなと考えます。だって私にはもう分からない。姫君が何を見て何を思っているか、私にはもう分からない。姫君のことを忘れたくなくて日記を書き始めたけれど、書くたびにどうしても悲しくなります。ふとした瞬間に姫君のことを考え、胸が苦しくなります。もしかしたら、もう二度と会えないのかもしれないと、恐ろしい不安が私を包みます。
今日の帰り、公園に寄って桜の花びらを拾って来ました。今、目の前にあるんだよ。これからこの花びらでしおりを作ります。もし、姫君が今年の桜の花を見ていないとしても、桜が完全に散ってしまっても、それを見たらちょっとだけでも想像出来るかなって思って。
私が姫君と出会ってから、一緒に桜を見たことは何度かあったよね。あの公園で、今年もちゃんと桜は咲いたんだよ。本当は今年も一緒に見たかったけれど、それが叶わないなら、桜はちゃんと咲いたよってことを姫君に伝えたくて。頑張ってしおりを作るね。あんまり器用では無いからちょっと緊張するけど。
実は、慧とは二人でお花見をしたんだ。お花見って言っても、あの公園で、ベンチに座って桜を見上げていただけだけど、二人だから嬉しかったんだ。お菓子とジュース付き。私はあの公園が好きだから、そこで桜をゆっくり見られて良かった。お花見って騒がしいイメージがあるんだけど、私はゆっくり静かに桜を見る方が嬉しいな。
あの公園で、姫君は昼間の星について話してくれたよね。ちゃんと覚えてるよ。姫君は覚えてくれている?
きっと、もうすぐ春は終わりになると思う。濃い緑が強い日光に映える、夏がやって来ると思う。季節が変わるその時までに、姫君に会えたら良いなと思っています。”
“小さな姫君へ
こんにちは、姫君。私の高校生活は、わりと順調です。勉強は難しくなって来たけれど、毎日、頑張っています。
国語は得意科目だったけれど、高校に入ったら、現代文、古文、漢文の、三つに分かれました。実はちょっと漢文に苦労しています。レ点や返り点を振ることが苦手です……。英語は小学生から少しずつ勉強していた甲斐があって、中学生の時と同様に得意科目の状態を維持しています。
体育ではバレーボールをやっています。楽しいけれど、サーブを打つとコートを越えてボールが飛び出して行ったりと、結構、大変です。頑張る。部活動は、まだ考え中。文芸部と美術部に興味があります。どっちが良いかな?
明日の土曜日、慧と会う約束をしました。お昼ご飯を作ってくれるみたいで、とっても楽しみ。何を作ってくれるのかメールで聞いてみたけれど、教えてくれませんでした。余計に気になってしまう。
私も料理を始めてみようかな。ちょっとはするけれど、あんまり素敵なものを作ったことは無いし。トマトスパゲティやバジリコスパゲティが作りたい。
最近は少し暑くなって来始めていて、夏に近付いている感じです。暑いのは苦手だけど、夏特有の緑の葉の輝きが好き。
明日、慧と会うことがすごく楽しみなんだ。でも、姫君は怒ってる? そればかりが気になっています。
私は、もう自分から慧と離れることはきっと出来無いけれど、姫君と離れたかったわけじゃ無いんだ。本当は、慧とも姫君とも一緒にいたかった。何故かそれは出来無いものだと、あの時の私は感じていた。どちらか一方の手しか取れないと思い込んでいた。そして、慧を好きになって行く程に、姫君への罪悪感が募った。私は姫君を本当に本当に大切に思っていた。今もそれは変わらないよ。嘘じゃないよ。
もし姫君が怒っていないなら、私を許してくれるなら、私ともう一度話をして欲しい。もう一度会いたい。叶うなら、ずっと一緒にいたい。
こう思うのは、いけないことですか?”
私は、小さな姫君のことを忘れたくなくて日記を書き始めた。姫君に話し掛けるように、姫君に私の気持ちが伝わるように、祈りながら文字を綴った。その行為は、私が思っていた以上に姫君との思い出を鮮烈に蘇らせ、そして姫君への想いを募らせる結果となった。
姫君を忘れたくない。それを叶える意味では、非常に有効だったかもしれない。事実、私が姫君を忘れて過ごした日は一つも無かった。それどころか、何かがあるたびに、姫君に話したくなる私が生まれていた。体育のバレーボールで、初めてサーブがうまく打てたこと。お昼休み、友達と一緒に食べたチョコレートアイスがとてもおいしかったこと。公園の桜の木に、小さな実がなっていたこと。慧が、いつもとても優しいこと。左手の薬指に光る指輪が、私を強く支えていてくれること。母が、初めてお小遣いをくれたこと。そして、姫君に会いたいということ。
日々のささやかな出来事から大切な出来事まで、全ては私に刻まれ、そしてそれらを姫君に伝えたくて、話したくて、どうしようもない気持ちになる。
伝えるという意味では、日記という形式を取り、姫君に伝えているのかもしれなかった。でも、結局のところ、それはただの自己満足だ。本当に姫君に伝わっている保証など、どこにも無い。彼女は何も言ってはくれない。私の書いたことに対して、否定も無ければ肯定も無い。まるで私は独り言を言っているかのような、一人遊びをしているかのようだ。
一人遊び。私はそこまで考え、はたと思考を止めた。小さな姫君とのことは、一人遊びだったのだろうか。姫君の姿も声も、私以外の誰も知らない。口調も態度も、私しか知らないのだ。慧だって、姫君が私の中にいたということを知ってはいても、その姿を見たことは無いだろう。姫君は、本当の意味で私の中だけに存在し、私とだけ一緒にいた。つまり、私が忘れてしまったら、それこそ本当に姫君は消えてなくなる。私の記憶の中だけに存在している、不確かとも言えるかもしれない彼女。
「そんなこと…………」
私は自分の思考を否定すべく、思わず口にそのかけらを乗せていた。けれども、全てを言い切ることが出来無いまま、その声は空間に吸い込まれるように消失した。
私は、今、思ったことを否定したかった。むしろ、こんなに恐ろしいことを考えた私ごと、否定したいと思った。しかし、それは簡単には叶わず、浮かんだ考えは私を捕らえて離さなかった。
イマジナリーフレンド。そう告げた沙矢の声が蘇った。私は沙矢にそう言われた時、すぐには、その意味を理解出来無かった。言葉自体を知らなかったのだから、当然と言えば当然だろう。けれど、それについて具体的に知った後でも、私には納得しづらいものがあった。唐突に突き付けられた事実だったからかもしれない。時間が経てば飲み込めるものなのかもしれないと、その時の私はおぼろげながら思っていたと思う。けれど、違った。姫君が私の中だけにしか存在していなかったという事実から連想されること、つまり彼女がイマジナリーフレンドであったということを、こんなにも強く否定したがっている自分がここにいる。それなのに、否定出来無い私がいる。否定材料を揃えられない私がいる。そして、私はこんなにも姫君に会いたいと望んでいる。こんなにも姫君を忘れたくないと願い続けている。
涙が静かに零れた。私には聞こえるような気がしていたのだ。忘れないでと、姫君が言っているような気がしていた。私も姫君を忘れたくは無かったし、また会えると信じていた。信じていたかった。今になって思い知った。私は、姫君をイマジナリーフレンドとは認めていない。けれど、それを否定し切れない。ただ忘れないでいることしか、私には出来ることが無い。その無力さから来る悲しみと、絶望。
そこから抜け出す術を持たない私は、一体どうすれば良いのだろう。本当に、忘れないでいることしか私には出来無いのだろうか。
涙を拭いてみても心は少しも軽くならず、むしろ見えない暗闇に捕らわれてしまったかのように、私はしばらく机の前の椅子から動けなかった。
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