第六章【核心】

 私は制服のまま、公園を抜けて慧の家へと急いだ。慧からのメールには、「試験後に時間があったら家に来て、と思いました」という変な文面が書かれていた。実は少し笑ってしまったのだが、一体、何を考えてこういう文章を書くのだろうかと疑問に思う。


 昨日と変わらない、ピンポーンという可愛らしい音の後、ドアが開いて慧が出て来た。


「うわ、早い」


「えっ、何が?」


 招かれるまま玄関に入りながら私が尋ねると、


「メールしてから来るのが。少し驚いた」


 と、慧は意外そうに告げた。


「だって変な文章で気になって」


 私は、慧に続いて二階への階段を上がった。途中の見慣れた壁や階段の美しい木目が、何故か私の目を引く。昨日一日、泊まっただけで、何となく親しみのような温かさのようなものを、慧自身とこの家とに私は感じているような気がした。


 かちゃり、とドアを開けて、慧は私を先に部屋へと導いた。


「あ、ありがとう」


 些細なことかもしれないが、私はひどく嬉しかった。それを誤魔化す為に、


「レディファーストっていうんだよね?」


 と、明るく尋ねてみた。


「レディと呼ぶにはまだ小さい気がするけどね」


 慧は若干、笑いながらそう言い、ぽんぽんと私の頭に手を置いた。子供扱いされているようで少し悔しかったけれども、それは不快では無く、むしろ慧が私に触れることが嬉しかったので私はされるがままになっていた。


「さて、と」


 慧は改まったような口調で言い、私をクッションの上に座るよう勧めた。何か違和感を覚えた私は、その疑問を口にした。


「何か、あったの? ちょっと変だよ。あのメールも変だけど」


「あれは力作なのに」


 軽く答える慧だったが、私は、やはり何か様子が違う気がした。私は、他人の感情の動きや機嫌などを、かなり敏感に感じ取る節がある。それはおそらく家庭環境が影響しているのだろうが、今は原因などはどうでも良かった。ただ、慧がいつもと少し雰囲気が違うことに、私はじわじわと不安になった。


「もしかして、やっぱり駄目とか?」


 私は、不安をそのまま言葉にした。言葉にせずにはいられなかったと言う方が正しいだろう。そうしなければ、私は簡単に、ぺしゃんこになってしまいそうだった。


「え、駄目って何が?」


「だから、私とお付き合いするのが」


 私は、自然に震えてしまった声で尋ねた。その短い言葉が、私の僅かな勇気の全てだった。


「違う違う、それは有り得無い」


 けれども、すぐさま慧は私の言葉をはっきりとした声で否定してくれた。私は、それにほっと息をつき、知らずに張り詰めていた神経をほどいた。


「じゃあ、他に何か?」


 間を空けない私の問い掛けに、慧は少し動揺したように見えた。慧は私の前に座って、私と目線を揃える。その視線に心臓が跳ねた気がして、私は思わず片手で胸を押さえた。


「……慧?」


 恐る恐る、私は慧の名前を呼んだ。慧は、少しの沈黙の後にゆっくりと言った。


「将来、結婚してくれませんか?」


 私は、自分の目が見開かれたのを感じた。かちかち、という時計の秒針の音がいやに大きく響いて部屋の静寂を強調していた。


「え…………、私?」


 逡巡した思考の末、ようやく絞り出した私の声は、僅かにかすれていた。それは私の動揺の大きさを自然と表していて、私自身、それを自覚していた。


 私は、慧のあまりに真剣な視線に息が苦しくなった。まるで、半径二メートル四方の酸素濃度だけが薄くなってしまったかのように感じられた。慧の視線から逃れたいような逃れたくないような、目を逸らしたいよう逸らしたく無いような、相反する気持ちが振り子のように胸の奥で揺れる。


「有来は、これから高校に進学するだろう? 頭が良いし、大学へも行くかもしれない。毎日を一生懸命に生きて行くと思う。その時間も含めて、ずっと俺と一緒に過ごして欲しいんだ」


 心拍数が、確実に上がっている。きっと顔も紅潮している。そして、私の体全身が、火照ったように熱かった。


 私は、慧が好きだ。もう二度と、この気持ちを偽ることはしないだろう。遠回りの果てにやっと辿り着いた私の心、慧の心。決して手を離してはいけないと感じていた。


 私が結婚というものを正しく理解しているとは思えない。それには中学二年生という背景もあるし、私自身、結婚というものを意識的に考えたことは無かった。だが、慧は私より年上だし、年齢だけでは無く、心も私よりずっと大人だ。だから慧は、きっと私よりもしっかりと色々なことを見据えているのだろうと思った。慧が見つめたその未来に私が立てるなら、それは私の幸せだった。誰にも譲ることの出来無い、私の心、そのものだった。


「ずっと一緒にいたいので…………あの、どうぞよろしくお願いします」


 慧の目をまっすぐに見て伝えられたことが、私の誇りとも言えるべきものだった。けれど、言ってしまってから、私は更に頬が紅潮して自らの鼓動がうるさくなるのを感じた。慧は私の右頬に触れた後、その手で私の左手を取った。


「高価なものじゃないけど。また改めて贈るから」


 慧は、黒のカッターシャツの胸元から小さな指輪を取り出し、私の左手の薬指にゆっくりと嵌めた。私は、その一連の動作を、まるでスローモーションのように感じて見つめていた。


 慧は銀色の輪から手を離して、私の指先を包むように両手を添える。


「ぴったり…………」


 私は、たったそれだけしか言えなかった。そしてしばらく黙ったまま、薬指で銀色に輝く指輪を見つめた。シンプルな輪の中心には小さな石が埋め込まれていて、指輪は僅かに重量感があった。きらきらと手元で光るそれは、私が今まで見た何よりも綺麗で輝いていた。


「メレダイヤ一粒でごめん。いつか、もっと大きなダイヤモンドを贈るから」


 私は、慧の言葉に慌てて首を横に振った。その拍子に、目にかろうじて留まっていた涙が床に落ちて行った。


「ありがとう」


 またも一言しか紡ぎ出せなかった私は、もっとちゃんと気持ちを伝えたくて、まっすぐに慧を見つめた。けれども、慧の顔を見たら余計に涙が伝うだけで、尚更、何も言葉にはならなかった。


「結構、遠回りしたせいか、何か焦ってさ。約束をしておきたかったから。急ぎ過ぎた?」


「そんなこと無いよ、嬉しいよ。本当に、嬉しい…………」


 私から更に生まれた涙を、慧の指が優しく拭った。それがまた私の胸を締め付け、今以上に全身に幸福が届き渡る。響く。


「悲しいこととか苦しいことは、これからはちゃんと話して。怒らないし、全部、聞くから。有来が一人で考えなくて良いんだからさ」


 私は言葉も無く、ただ頷くだけだった。しびれるような甘い幸せが私の全てを包んで、そのまま溶かしてしまいそうな程だった。慧は私の頭を撫で、頬を撫でて、未だ溢れている涙を拭った。そして涙に唇を寄せ、そのまま泣いている私の唇に口付けを落とした。それは今まで一番長く、一番幸せな口付けだった。


「ちょっと落ち着いた?」


 未だ私の目の先に残っていた涙を、慧は指先で拭いながら尋ねた。私は頷きつつ、急速に恥ずかしくなって行く心を感じた。私は、慧の前で泣いてばかりいるような気がする。


 そもそも私は人前で泣いたことなど、ほとんど無い。さすがに小さい頃のことまでは覚えていないけれど、少なくともここ数年は泣いたことすら無かった。


 それなのに、私は慧を前にすると、苦しくて泣いた。そして今は嬉しくて泣いた。泣くつもりなど無くても、私の意識の裏側から泣きたいという切ない叫びが出されていた。私は残った涙を払いながら、その不思議について考えていた。


「泣いてばかりだね」


 私の気持ちを見透かしたかの如く、慧が言った。けれども、そこに私を責める響きはかけらすら無く、むしろ温かい何かが溢れていた。


「……どうしてだろうね」


 私は恥ずかしさを隠すように、慧に尋ねた。


「ちゃんと俺と向き合っているってことなんじゃない?」


 慧は笑顔で私に答え、私の頭を撫でた。ちゃんと慧と向き合っている。慧のその言葉が、とてもぴったりと私の隙間に嵌まった気がした。 


 今まで私は、逃避とも言うべき態度を慧に取り続けて来た。しかし、今は慧の心に少しでも触れたくて、慧の考えていることを正しく分かりたくて、私は私の意思で慧と向き合っている。だから、悲しみがあれば喜びもあって、泣いたり笑ったりという基本的で大切な感情が零れ出す。私の中に、ちゃんと慧が息づいている。そしてそれは、私が選んだ結果だ。


 もう慧に嘘はつかない、自分を誤魔化すことはしないと、心ひそかに誓った結果だ。だから私が慧の前で涙を流すことは、恥じることでは無いのかもしれない。


「あの、ありがとう。本当にすごく嬉しい。私、頑張るから。ちゃんと慧と向き合って行くから。それは私が決めたことだから。えっと…………これからもよろしくね。慧」


 私は笑えているのか不安になりながら、慧を見つめる。また涙が滲んで来ているような気がした。私の気持ちが、ちゃんと慧に伝わっているかどうか、それはどうしたら確かめられるのだろうか。幸せと不安、感謝と謝罪が、それぞれ別のカップの中で、くるくると溶け掛け、混ざり掛けているように感じた。だが、僅か数秒ごとに不安が大きくなって行っても、私は慧の目から自分の目を逸らさなかった。それが今、私に出来る、慧の心を感じる為の全てだった。


「……有来に名前を呼ばれると嬉しいね。ようやく本当に呼んでくれた気がする」


 慧は、嬉しいのか苦しいのか、図りかねる顔をしていた。


 それを見て私が何かを言おうと口を開きかけた時、


「愛してる」


 と、慧は私に告げた。


 同時に私の体に慧の体温が伝えられた。抱き締める慧の腕は私よりもずっと長く、力強かった。私は遠慮がちに、けれど止められない力に従って、慧の背に腕を回し、洋服ごと握り締めるようにして慧を抱き締めた。私は慧の体に包まれて、慧の心に包まれて、泣いた。嬉しくて、そして今までの全てを謝りたくて、許されたくて、泣いた。慧は片方の手を私の頭に置いて、あやすように撫でていてくれた。それがひどく優しく、切なくて、私は余計に涙を流した。


「ごめんなさい」


 ささやきのように小さな言葉が、私の心から唇から何度も洩れた。涙に混じって、慧に許されたい私の身勝手な欲望が流れ落ちた。


 慧は私を撫でる手を止めないまま、


「大丈夫だから」


 と、何回も何回も私に告げた。


 私の数え切れ無い謝罪に応えるように、慧は何度もそう言ってくれた。ただ、慧の声は少しだけ震えていると、私は冷静さを失った頭の片隅で捉えていた。そして、もしかしたら慧も泣いているのかもしれないと、私は慧にしがみつきながら思った。


 私のこの心の全てが慧に伝わりますようにと祈り、慧の心がもう痛むことがありませんようにと祈った。本当にひどいことをしたと、私は思う。それでも私は慧から手を放せない。ずっと前から今日まで、そして、きっとこれからも、私は慧に手を伸ばし続けて行く。私は慧に許されたくて、隣にいて貰いたくて、心から好きになって貰いたかった。好きでい続けていてほしいと願う。そして私も慧の隣に立ち、並び、心から好きでいたい。好きでい続けたいと願う。


 私が泣き止んだ後、私達はもう距離を置くことは無いと、見えない約束を結べた気がした。


 ようやく二つの恋心が巡り会えたように思えた。それはきっと錯覚などでは無いと、私は心から信じられる。

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