第五章【呼応】7
早めに学校に着いた私は、大急ぎで革靴を脱ぎ、下駄箱に入れた。あまりに焦ったせいか、がたん、と大きな音がする。こんなに早くに登校し、こんなに急いで教室を目指し、廊下を走ったことは、未だかつて無かった。
教室に入り、壁の時計を見上げると、まだ七時を五分過ぎたところだった。朝のホームルーム開始まで、まだ一時間以上あった。私はそれを確認した上で席に着き、教科書を広げた。いわゆる試験前の無駄な抵抗というものかもしれなかったが、一時間もあれば急ごしらえとは言え、意外に知識が蓄えられるかもしれない。この最後のチャンスを無視するわけにはいかなかった。たとえそれが、試験後に飛び去って消え去る知識だとしても構わない。
とにかく今は、点数を得る努力が大切だ。まず私は、一時間目の試験科目である家庭科の教科書から広げた。しかし、集中しようとすればする程、嘘のようにそれは乱された。もとより、私の心は乱れていた。乱されていた、というのが正しいのかもしれない。私の心は幸福に満ちて、それが私の心の動揺を誘った。一つしか無いはずの心は、ふらふらと頼り無く揺らめいて、幸せを感じたり不安を感じたり、試験への意気込みを刻んだりと、忙しなかった。
今朝、私は朝五時に起きた。一度、家に戻って教科書などを準備しなければならないし、少し早く学校へ行き、僅かでも試験範囲を見直そうと思ったからだ。唯一、心配無用な科目は得意としている国語だけで、他の技術科目は、はっきり言って自信が無かった。問題用紙が、私に答えられない問いだらけの可能性すらある。
今朝方、私はとりあえず慧を起こさないよう、息すら止めて静かに布団から抜け出た。そして鞄を手に、こっそりとドアを開けて階段を下りた。きい、という僅かなドアの開閉音すら私の心臓を跳ね上がらせ、とんとん、という階段を下りる私の小さな足音すら、私に緊張を与えて止まなかった。ハンガーに掛けて居間に吊しておいた制服を下ろし、私は洗面所に向かった。顔を洗い、制服に着替え、脱いだパジャマは畳んで洗濯機の上に置いた。
「……持って帰って洗った方が良いかな」
無意識に洩れた独り言に対し、想像も予想もしていなかった反応が響いた。
「良いよ、そのままで」
「きゃーっ!」
思わず私は叫んでしまった。
「うわ、こっちが驚いた」
たいして驚いてもいなさそうな声の持ち主は、当然ながら慧だった。
「な、何で」
何でいるの、と聞きたかったのだが、その全ては紡げなかった。あまりに強い驚愕が、未だ私の中を駆け巡っていたからだ。
「何でって、俺の家だし。ああ、具体的には父のものか?」
そんな見当違いの言葉を生み出す慧に、私は今度こそはっきりと聞いた。
「そういう意味じゃなくて、だって物音すらしなかったのに」
「ああ、おどかそうかと計画的に下りて来たから」
慧が私の背後に立ったことなど、私はかけらも気が付か無かった。そして慧の思惑通り、私は思い切り驚き、叫び声まで上げてしまった。そういう意味では、慧の計画は見事成功したと言えるだろう。
「何でおどかす必要があるの?」
少し怒り気味に私が尋ねると、
「面白いかと思って」
と、脱力するような返答が返って来た。
「せっかく泊まったのに朝ご飯も別々って、何かつまらなくない?」
慧が、笑う。ただそれだけのことが、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。どうしてこんなにも、胸が震えるのだろう。どうして私は、慧に手を伸ばすのだろう。
「うん?」
私の手が、慧のチェック柄のパジャマを掴んだ。
「おはよう」
私は今、ちゃんと笑えているだろうか。あなたが好きだと、慧が大好きだと伝わっているだろうか。私一人の想いでは無いと、私は信じて良いのだろうか。沢山の祈りを抱えながら、私は精一杯の心を込めて「おはよう」を伝えた。
「うん、おはよう」
私の頭の上に置かれた慧の手が、どうしようもなく愛しかった。その優しさと体温は私がずっと切望していたものだったと、私はその時に改めて実感した。
私達は簡単な朝食を済ませて、六時半前には慧の家を出た。しかし、慧は、こんなに早くに家を出る必要は無かったはずだ。
「ごめんね、起こしたよね」
私の家へ向かう道々、私は慧へと謝った。
「いや? せっかく一緒の朝なのに、有来が一人で帰ってた方が嫌だったな」
まだ早朝の秋の空気は冷たく、ひんやりという表現がとてもしっくりくる感じだった。私達は手を繋いで公園を抜け、同じ歩調で歩いた。
「でも、慧までこんなに早く家を出なくても良かったのに」
「まあ、そこはお約束ってやつですよ」
慧は何だか分からないことを言って、私を困惑させた。
それを知ってか知らずか、
「試験、頑張れよ。もし学年順位が上位だったら、オレンジジュースを沢山、プレゼントするよ。濃縮還元では無いやつ」
と、話題を変えた。
「えっ、もっと早く言ってよ」
「いや、もっと前はそういうことが言える間柄とは認知しづらいんですが。ねえ、有来さん?」
皮肉めいた言葉で私に同意を求める慧は、何だかとても近くに感じられた。物質的な距離では無く、もっと心の奥底から感じられる距離、精神的距離とでも言うのだろうか。それがとても近いように思えた。
見た目はどんなに近くにいても、真実、そうだとは限らない。同じ家に住んでいても、同じ教室にいても、まして、手を繋いでいても。それらは、ほとんどの場合が、ただ目に見えるだけの白昼夢のように儚いものだと、私は知っている。けれども、だからこそ今、こうして隣に立ち、私の右手を繋いだ慧が本当に近くに感じられることが、心の底から嬉しかった。
「有来の影響かな、あれから俺もオレンジジュースが好きになってさ。高校三年生でオレンジジュース好きって、どう思う?」
「可愛くて良いと思うよ、私は」
私達は秋の空気を体に受けて、他愛ない会話をして笑った。それはどんなに願っても得られないと思っていた、私の夢だった。
――期末試験最終日は、何とも微妙な手応えのまま、その幕を閉じた。まあ、こんなものだろうと、私は一種、諦めのような気持ちを抱きながら帰り支度をした。技術科目に関しては、大した勉強もせず、朝の一時間と各試験時間前の数十分だけで一時的に蓄えた知識の割には、だいぶ健闘したと言えるだろう。正答率は未知数だけれど仕方が無い。こんなことは初めてだった。
国語はさすがに得意科目と自負しているだけあって、見直しを二度しても、時間が余った。誤字が無ければ満点かもしれないと、私は少し嬉しくなった。以前に解いた高校生向けの国語の参考書には、二項対立を用いて文章読解に臨むよう説明されていた。しかし私に言わせれば、二項対立などを紙に書いて考えている間に、問題を解いてしまった方が断然に早いと思う。むしろ二項対立を捉えて図式化する時間と思考力が、勿体無いとすら感じた。実際、高校生になると、やはり二項対立は重要なものになるのだろうか? 今度、慧に聞いてみようと思いつつ、私は教室の扉を開けて廊下に出た。
そして昇降口へと向かう途中に、沙矢の後ろ姿が見えた。
「沙矢」
「あ、有来。どうだった?」
試験後にはお決まりとも言える会話をしながら、私達は一緒に正門へと向かった。
「有来でもそういうことあるんだ、意外」
試験の正答率にあまり自信が無いことを告げると、沙矢は本当に驚いたように言った。
「もしかして、羽野さんが関係してる?」
「何で?」
私は内心、動揺しながら、努めて冷静に聞き返した。だが、それは単なる私の思い込みだったようで、動揺は明らかに私の様子に表れてしまったらしい。
「すごい動揺ぶりだね」
沙矢は面白いとでも言うかのように笑った。私は、若干、顔が紅潮するのを感じ、それを誤魔化すかの如く言葉を紡いだ。
「えーと、何で沙矢はそう思ったの?」
私の問いに対する沙矢の回答は、筋が通った極めてシンプルなものだった。
「だって、あんな風に私と有来が話した日の翌日が試験でしょ。あの日は羽野さんからメールも来てたみたいだし、二人で何か話をしたのかなって」
沙矢は一度、言葉を切り、それに、と続けた。
「加えて、いつも試験は、ばっちり勉強して順位も上位の有来。その有来が試験結果に自信が無いとくれば、勉強する余裕が無いくらいの何かが昨日あったに違いないと推察されます」
「なるほど……」
私はまるで他人事のように感心し、沙矢の言葉に頷いた。
「これだけ鍵が揃えば、自ずと想像への扉は開かれますね」
沙矢は物語のストーリーテラーのように、改まった口調で言葉を紡いだ。その様子が面白くて、私は小さく笑う。
爽やかな秋晴れの今日は、いつもより空が高く遠く、薄く広がる細長い雲が綺麗だった。その青空は、まるで私の心を映し込んだように思えた。
「ねえ、言いたくなかったら良いんだけど。羽野さんとはどうなったかなー、なんて」
沙矢は、遠慮がちに私に尋ねた。私は沙矢に感謝しているし、何より大切な友達だ。特に隠す理由も無いので、私は、ありのままを話した。
「一応、お付き合いすることになったんだ」
「一応っていらないでしょ」
私の言葉を受けて、沙矢は笑う。秋空の下を歩きながら、私は沙矢に昨日のことを話した。
自分の気持ちを錯覚する程に苦しかったが、それは慧も同じだったということ、四年も経って今更、私が慧を好きだと告げて良いのかどうか迷ったこと。慧が私を責めなかったこと、遠回りして、やっと辿り着いたような気がすること。
そして、最後に私は沙矢にお礼を言った。
「沙矢が色々言ってくれなかったら、私はまたずっと逃げたままだったかもしれないんだ。本当にありがとう」
「そんなに改まらなくたって良いよ」
沙矢は軽く片手を振り、何でも無いことのように言った。
そして、
「それに、そんなに素直にお礼を言われると、少し罪悪感が生まれるし」
と、私の予想のしていなかった言葉を紡いだ。
「え?」
私が反射的に聞き返すと、沙矢は先程と同じように、軽い口調で言った。
「少しだけ、羽野さんのことが好きだったから。だから、有来のことで悩んでいるような様子を見て、力になりたかっただけなの」
それは、まさに寝耳に水の如しの事実だった。私はあまりの驚きに、思わず足を止める。
「あ、勿論、有来を心配したのも本当。有来は大切な友達だし、事情らしい事情なんて知らなかったけど、何とかしてあげたいと思った」
沙矢の言葉は、水が静かに絶え間なく流れるかのようだった。とうとうと話す沙矢は、怒っているわけでも無く、悲しんでいる風でも無かった。
「それに、あの雨の日も、保健室で羽野さんを見た時も思ったんだけど、私は、有来と一緒にいて、有来を大切に想っている羽野さんが好きみたい」
沙矢は私に倣って止めていた足を、ゆっくりと進め始めた。慌てて私もそれに続き、そして沙矢の横顔を見上げながら、次の言葉を待った。沙矢は、すぐに続きを話し始めた。それは本当に淡々とした口調で、けれども、それがかえって私の胸を打った。
「有来が羽野さんを慧って呼ぶのを聞いて、少し羨ましくなったのは本当。でも、有来と羽野さんがうまくいけば良いなと思ったのも本当。その中から、私は私のしたいことを選んだんだ。だからそれが良い結果に繋がったのなら、こんなに嬉しいことは無いよ」
私は何かを言いたいのに、何を言いたいのか分からないまま、沙矢を見つめていた。感謝も謝罪も、この場にはそぐわないと私は思った。沙矢の心に、簡単な言葉一つで応え切れるとは思えなかった。私は必死に言葉を探した。そして、焦りが全身を包んで行くことを感じた。
私達は沈黙したまま歩き、やがて横断歩道に差し掛かった。そして赤信号で必然的に歩みを止め、押しボタンを押して信号機を見上げた。
「隠しておくの、嫌だから言っちゃった。自分が楽になりたかっただけかも。ごめんね」
前を見つめたまま、沙矢は小さく、そう言った。けれど、やはり私は返す言葉が見付けられず、それでも何とか懸命に話した。
「沙矢、でも、あの……謝ることなんて無いよ。私は沙矢が話を聞いてくれて嬉しかったし、助かったし……」
続く言葉を見失い、私は途方に暮れた。どうするべきか心底、悩んでいた私に、沙矢は明るく言った。
「ありがとうって感じ?」
私を見た沙矢は、いつもの沙矢だった。私を否定するでも憎むでも無い、私の友達のままの笑顔だった。だから私もそれに応えた。応えることが出来たのは、沙矢の声と笑顔のおかげだった。
「うん、ありがとうって感じ」
私の返事を聞いて、沙矢は更に笑顔を咲かせた。私はそれがとても嬉しくて、もう一度、感謝の言葉を伝えた。
「あ、青」
沙矢の言葉に、私達は横断歩道を渡った。やがて分かれ道に差し掛かると、沙矢は少しだけ真剣な顔をして言った。
「諦めないで、頑張ってね」
私は頷き、
「うん、もう諦めない。本当にありがとう」
と、返した。そして軽く手を振り、私達はそれぞれの道を行った。
初めて聞いた沙矢の気持ちは衝撃的だったし、沙矢に悪いという感情が生じたのも事実だった。けれども、沙矢が変わらない友達として私に接してくれる以上、私も沙矢にそう接することが出来る。沙矢の態度が通り一遍のものでは無いことは、私には良く分かっていた。だからこそ、沙矢の気持ちが嬉しかった。
自宅前の公園が見えた辺りで、携帯電話が短く振動し、開いてみれば慧からのメールが届いていた。私はそれを読んで、携帯電話を閉じた。もう二度と失わないように、胸の奥に誓いながら。
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