第五章【呼応】6
結局、私は慧の家で夕食をごちそうになり、しかも泊まって行くことになった。少し抵抗があったが、それは慧に対して申し訳無いとか、修学旅行以外で初めての外泊だからという理由で、決して慧の家に泊まることが嫌だからということでは無かった。
「泊まって行く?」
そう慧に尋ねられた時、動揺が表に現れた私を見て、
「無理にとは言わないけどね」
と、少し残念そうに付け加えた慧を目にし、誤解があってはいけないと、私は懸命に慧に気持ちを伝えた。
「あの、嫌とか思っていないよ。ただ、ちょっとびっくりしたというか驚きというか、夕食も頂いたし、さすがにこれ以上は慧に悪いかなとか、そういうことでね」
焦って話す私を、慧は面白そうに見ていた。その様子に、何故か私は余計に焦ってしまった。
すると、
「びっくりと驚きって一緒だよね」
と、慧は笑いを堪えているかのように私から視線を逸らして、少し下を向いて言った。
その後、若干の笑いの余韻を携えながら、慧は私に再度、尋ねた。
「泊まって行く?」
「……うん」
二度目の慧の問い掛けは、私の心情を見透かし、全てを承知している上で、敢えて確認の為に尋ねたような響きを含んでいた。それに少しの悔しさのようなものを感じながらも、私は慧の言葉に頷いた。それは同時に私の幸福でもあったからだ。慧と私で一緒に夕食を作り、居間に置かれた木目の美しいテーブルで、慧と私は一緒に夕食を食べた。それの何て幸福なことか。私は、その幸せの余韻を残したまま、お風呂に入った。
「あるもの、どれでも使って」
慧はそう言い残して、お風呂場と洗面所へと繋がるドアを静かに閉めた。慧が遠ざかって行く足音を聞きながら、私は少し緊張しつつ制服を脱いだ。自宅以外でお風呂に入るのは、何故だか緊張する。
修学旅行の時など、私は部屋に備え付けられたお風呂を使い、みんなと一緒に浴場へは行かなかった。たいして親しく無い人を含める大勢の中で、自分が裸になってお風呂に入るなど、私にはとても出来無かったのだ。
そんなことを思い出しながら、私は浴室へのドアをそっと開けた。足の伸ばせる大きな浴槽がまず目に入り、私は嬉しくなった。蓋を開けると、張られたお湯が微かにゆらんと揺れる。お風呂場の片隅には、銀色の金属製の籠の中、シャンプーやコンディショナーが数種類置かれ、石鹸やボディソープも置かれていた。それから、洗面器が花柄で、とても可愛かった。私は気分が高揚し、シャワーを浴びて、そっとお湯に身を浸しながら、思わず歌を歌っていた。
慧の声や笑顔が次々と思い浮かび、それらは私の口から小さく生まれて行くメロディーに鮮やかな色付けをしていった。こんなに満たされた気持ちで歌を歌ったのは、今までで初めてだった。
――私は湯船の中で夕食時を思い出す。夕食はトマトスープと、鶏肉とチーズのリゾット、ツナサラダだった。
「有来はチーズ好き?」
「大好き!」
慧は私の言葉を受けて、夕食のメニューをチーズリゾットに決めてくれた。
「さっき、じゃがいものツナチーズの料理を見ていたから。好きなのかなーと思って。でも今、じゃがいも無いからさ」
慧は、冷蔵庫から鶏肉やチーズを出しながら言った。私は慧の目敏さに少し驚き、それをそのまま言葉にした。
「あの一瞬で、良くそこまで見てたね」
「お褒めに与り、光栄の至りです」
ふざけて答える慧に、私は笑った。そういった一瞬一瞬が、宝物になって行く。私は、それを全身で実感していた。トマトスープには、バジルとオレガノというハーブが使われていた。それを聞いて、私が小学生の時、慧が作ってくれたトマトスパゲティにバジルが使われていたことを思い出す。
「あれから、ハーブとかを料理に使うことが楽しくなってね」
慧はそう言って、キッチンの上の戸棚を開けてくれた。そこには沢山の小瓶が並んでいて、バジル、オレガノ、タイム、セージ、クミン、シナモンなど、私の聞き慣れない単語がそれぞれの小瓶に書かれていた。
「ハーブと食材の相性が良いと、料理の味が全然違って来る。好みはあるだろうけど、ハーブ有りとハーブ無しでは、料理の深みが格段の差だよ」
そう語る慧は、何だか嬉しそうで、楽しそうに見えた。そしてそんな慧を見て、私も嬉しくなった。
私は、慧と一緒に料理をした。トマトを洗って、くし型に切ったり、ツナに塩と胡椒をまぶして混ぜたり、鶏肉と一緒にご飯を炊いたり。同じキッチンに立って二人で料理をするということが、こんなに幸せで楽しくて満たされたものだと、私は初めて知った。長い長い時間と距離が溶けた後に過ごす、初めての慧との時間、慧と交わす言葉、笑顔。全て色鮮やかで、温かいものだった。
たった数時間の間に起きた様々なことを思い返し、私は名残を惜しみながらお湯から上がった。髪と体を洗って浴室のドアを開けると、オレンジ色を基調とした花柄のパジャマと、パッケージに入った下着が置かれていた。
「新しい?」
私は思わず呟き、パッケージを開いた。
どうして新しい下着があるのか不思議に思いつつ、私は手早く着替えた。慧にその理由を尋ねてみたいのと、今、慧は何をしているのか気になったからだった。花柄のパジャマは少しだけ大きくて、袖が余った。ズボンの丈も同じで、私はそれをずるずると引きずりながら歩いた。居間へと続く扉をそっと開けると、慧はソファに座って本を読んでいた。
「やっぱり、少し大きいね。大人用だから」
慧は私に気付いて顔を上げた。視線が、かちりと音を立てて合ったような気がして、私は少しどきりとする。
「あ、うん。でも、大丈夫だよ」
ズボンの裾を引きずりながら、私は慧の傍に寄った。
「眼鏡、掛けるんだね」
慧は、細い黒のフレームの眼鏡を掛けていた。私は慧が眼鏡をしているところを初めて見たので、少し驚いて言った。
「ああ、読書の時とパソコンの時だけね。あとは勉強する時かな」
慧は眼鏡を外し、大きく伸びをした。そして私の足下に目を遣って笑った。
「それ、折れば良いのに。転ぶよ?」
「あ、そっか」
私は慧の隣に腰掛け、ズボンの裾へと手を伸ばした。両裾共を折り終えて顔を上げると、再び慧と目が合う。私は、何故か鼓動が早まって行くことを感じた。それは、慧に隠していたことを話さなければならない時の緊張などから生じるものとは違っていた。私のすぐ近くに慧という存在がいる、ただそれだけのシンプルな事実が私に与える感情だった。その感情の正体は、はっきりとは私には分からなかったが、それは嫌な心地では無かった。早鐘のような鼓動、生じる感情、不透明な緊張、そのどれもが私にとって不快なものでは無く、むしろ新鮮で、それらはどこか遠いところで幸せに繋がっているとすら思わせた。
「幸せ、だね」
滑るように、ごく自然に生まれ落ちた私の小さな言葉は、静かな部屋にひどく大きく響いた。言ってしまってから、急激に頬が紅潮するのを感じる。そしてそれが、お風呂上がりのせいでは無いことくらいは、私にも分かっていた。
慧は無言のまま私の頭に手を置き、そのまま私の右頬へと緩やかに手を滑らせた。そして、ごく自然に私の唇に自分のそれを重ねた。ほんの数秒で離れた温もりは、けれど確かに、私に喜びと幸せの溶け合った甘い感情を与えて残して行った。微かに、涙の滲む程に。涙腺が緩くなったのかと思う程、私は泣いてばかりいるような気がする。同時、それは約四年間の反動のようにも思えた。
自分で選んで自分で決めた行動だったけれど、それは私に相当な負荷を掛けていたようだった。誰が悪いわけでは無い。私も、慧も、勿論、小さな姫君も。ただ、私は姫君と出会い、慧と出会った。そして私は姫君を好きになり、慧を好きになった。姫君も私を好きになり、慧も私を好きになった。それらの点が、数え切れ無い程多くの無数の線で結ばれて行ってしまっただけだ。そして、時が経てば経つ程に線は複雑に絡み合い、やがてほどけることすら忘れてしまったかのように、当たり前のようにそこに存在し続けていた。私はそれに気付いていたのだろうか、気付いていなかったのだろうか。あるいは気付かない振りをしていたのだろうか? 自分の心が真実の感情を錯覚してしまう程に。
私は思わず、すぐ近くに座る慧の服を掴んでいた。
「有来?」
もう二度と、離れるのは嫌だった。離れてはいけないとすら思った。そして、慧の隣に胸を張って立てるような人になりたいと思った。私は、この幸福に手を伸ばし続けて行きたいと思った。
「……ねえ、どうして新しい下着があったの?」
私は心臓の鼓動を押し込め、先程までの幸福を押し込めるように慧に質問をした。そうでもしないと、あまりに大きく甘い幸せに、溺れてしまいそうだったから。
「……さっき買って来たんだよ」
照れ隠しをするかのように、少し無愛想な感じで言う慧は、確かに私の隣にいた。私も慧の隣にいた。この距離が更に溶け合うことはあっても、これ以上、距離が開いて、ましてやそのまま凍てついてしまうことにはならないよう、私は胸の奥でひっそりと祈った。
慧がお風呂から上がった後、私と慧は寝室で眠ることにし、二人で布団を並べた。
しかし、布団に入ってもすぐには眠りは訪れず、
「そういえば明日、期末試験最終日なんだ」
と、私は天井をぼんやりと見つめながら、独り言のように、ぽそりと呟いた。
「勉強した?」
「ううん、そんなに」
「科目は?」
「保健体育、家庭科と技術、国語」
国語以外は主要教科五科目から外れているので、一見すると簡単そうな気もするのだが、これが意外とそうでも無いのだ。確かに数学や英語、公民や地理などに密集されるよりは良いかもしれないけれど、実は保健体育などが密集した場合も少し苦しい。実技教科は、ほとんどが知識勝負になるからだ。数学や英語は、ある程度、勉強して公式や文法を理解していれば解ける場合が多い。考えれば出来る問題もある。しかし音楽や保健体育などは、その知識を知らなければ解答が書けないというものがほとんどである。
たとえば、
――小フーガ・ト短調は誰が作りましたか? また、この曲に使われている楽器は何ですか?
なんて尋ねられ、考えて解答が出て来るわけも無い。
――ヨハン・ゼバスティアン・バッハです。パイプオルガンが使われています。
という解に当たる知識をピンポイントで知っていなければ、答えられる問いでは無い。技術科目の試験問題には、そんな意外な落とし穴がある。と、私は思っていた。とりあえず、昨日の音楽に関しては、モーツァルトについて多くを書き記すことが出来たので良かったと思う。
「じゃあ今から勉強する? 手伝おうか」
その言葉に思わず右隣を見れば、薄暗がりの中で不敵に微笑む慧と目が合った。
「良い。ある程度は出来ると思うし。もう眠たいし」
私がそう言って再び視線を天井に戻すと、押し殺した笑いが隣から聞こえ始めた。
「健闘を祈るよ」
「笑った後にそんなこと言われても、説得力が無いんですけど」
年の差のせいだろうか、私は慧に一歩も二歩も先を歩かれ、からかわれている気がした。しかしそれは特別不快には思えず、むしろこうして隣に慧がいて、私と話をしてくれているという現実が嬉しくあった。
四年。それだけの時間が流れて行く中で、逆の立場だったら私はどうだっただろうか。ふと胸に生まれた疑問は、波紋のようにゆるゆると私の中に広がって行った。もしも立場が逆だったなら、私は慧が私にしてくれたように慧を想い、慧に接することが出来ただろうか。慧を信じることが出来ただろうか。
仮定から真実は生まれない。だから何とも言えない話なのかもしれないが、慧の心を思うと考えずにはいられなかった。慧は私を責めなかった。ただずっと、待っていてくれた。私が慧との間に、自分に都合の良い距離を保ち続けている間も、慧はそれを容認していた。その距離を無理に縮めようとすることも、果てしなく遠くへ自分から遠ざかることも出来たはずなのに、慧はそれをしなかった。
「どうかした?」
私は、いつの間にか天井から慧に視線を移していた。そしてその慧の問い掛けは、そのまま私の問い掛けになる。
「どうかしてるんじゃないかと思って」
言ってしまってから、私はそんな言い方しか出来無い自分を恥じた。けれども、疑問に思っていることは事実だ。そこまでして貰えるだけの何かが私にあるとは思えない。メリットは何だろう。デメリットは何だろう。明らかに後者の割合の方が勝るのではないだろうか。拒絶され、否定され、それでも手を伸ばし続けていた慧は、今、何を考えているのだろうか。私は急に不安になり、目を伏せた。
「今、何か余計なこと考えてるだろう」
顔に出したつもりは無かったけれど、慧はそう私に告げた。そして、僅かに羽毛布団の動く音がした。
「俺は今、幸せなの。やっと有来が俺と向き合ってくれたから。それだけだと駄目なの?」
私が伏せていた目を上げると、慧は上半身を起こして私を見下ろしていた。
「証として真っ赤な薔薇の花束を贈ろうか? それとも誓いの指輪? でもまだ高校生だし、そんなに立派な指輪は買えないけど」
少し茶化すように言う慧を私は見上げ、その目を見た。声音とは違い、その二つの目は真剣で、少しも笑ってなどいなかった。
「薔薇も良いけど、有来には、かすみ草が似合うかもな。粉雪のように真っ白な、かすみ草が」
そう言って、慧は私の頭の上に軽く片手を置いた。
「これからは隠さないで、色々、話して欲しいな。不安とか悲しみとか、つらいこととか。勿論、楽しいことも」
慧の手が私の黒髪を何度も撫でて、そのたびに慧の体温が私に伝わって来る。そして、肩よりも上の私の髪がさらさらと音を立てて微かに動いた。
「慧は、いらいらしないのかなと思って」
「いらいら?」
慧は手を止め、聞き返した。私は少し気後れしながらも、ゆっくりと話す。
「ずっと長い間、慧は私から嫌な態度を取られて。それで、やっぱり慧が好きなんて、図々しいというか非常識というか何というか……慧はいらいらしないのかなって。どうして怒らないんだろうって思って」
私が口を閉ざして俯くと、ややあってから慧が口を開いた。
「嫌な態度だったって自覚があるんだね」
その言葉に、私は反射的に慧を見た。しかし予想に反して慧の顔は、いつも見せてくれる、あの優しい笑顔だった。
「自覚して、それが自分への後悔に繋がるなら、改めれば良いだけじゃないの?でも、別に俺は怒ってないけどね。ただ、悔しかっただけ」
「悔しかった?」
先程の慧のように、今度は私が聞き返す番だった。慧は頷き、言葉を続けた。
「そりゃあ悔しかったよ。有来に気持ちが伝わったかと思えば、数週間で『距離を置こう』とか言われるし。理由を尋ねても明確な答えは返って来ないし。わけが分からなかったね、本当に」
一息に慧は言い、そして更に衝撃的な事実を私に告げた。
「小さな姫君、彼女に嫉妬したね。有来に選ばれた彼女を思うと、羨ましかったし悔しかった」
「選んだって……それ、私は今日、初めて言ったよね? 私、今までに慧に話したこと無いよね?」
思わず起き上がり、私は慧を見つめた。
「……俺が姫君を否定した日。覚えてる?」
――慧が姫君を否定した日。それは細い雨の降る、少し肌寒い秋の日。忘れるわけは無かった。むしろ私の中で未消化のまま、ずっとずっと溶けない事実となっていた。
「あの時の有来の言葉を聞けば、簡単に分かったよ。ああ、有来は俺では無く彼女が大事なんだなって」
私は慧の言葉を聞きながら、記憶の糸を手繰った。その先がつらい想いに繋がっているとしても、今の私には必要な行為だった。今の慧が思っていること、感じていること。あの時の慧が思い、感じたこと。それらを私は正しく理解したかった。たとえ百パーセントは無理でも、近付くことは出来るはずだ。そのきっかけが二人共通の思い出の中にあるなら、尚更、可能性は底上げされるだろう。
私はそう信じて、緊張しつつ記憶を遡った。その結果が、思い出と呼ぶには苦く、悲しいものに辿り着くとしても。
「本当はもっと落ち着いて話をして、有来の本音を聞ければ良かったのかもしれないと今は思うけどね。でも、どんな形であれ、有来の気持ちを聞くことが出来て良かったと思ってる」
慧の言葉は、私の記憶を呼び起こす手伝いとなった。やがてその記憶は生々しく私の脳に蘇り、その時の光景が目の前に広がっているかのようにも感じられた。
――公園で、私と慧は傘を差して向かい合っていた。糸のような雨が、しとしとと落ちて地面に吸い込まれていた。秋を感じさせる、肌寒い日の午後。
悲しい記憶をこんなにも鮮明に思い出せる自分に、私は僅かながら苦笑した。いや、むしろ悲しかったからこそ脳味噌に強く刻まれて、それは少しのきっかけで鮮やかに姿を現すのかもしれない。
「……どうして慧には分からないの、私はこんなに姫君が大切なのに」
あの日、姫君を否定した慧に、強く鋭く私は言葉を投げ付けた。そして、それを悪いとは思わなかった。それどころか自分の正当性を証明したかのような、幼稚な自尊心を満たす、満足感すら感じていた。
「思い出した? あれを聞いて、俺はそう思ったって寸法。有来は俺より姫君が大切なんですね、と」
若干の皮肉が込められたかのような慧の口調と言葉に、私の胸は確かに痛んだ。
「でも、あれは俺が言い過ぎたところがあるから、仕方無いけどね」
「そんな、ことは…………」
無い、と言おうとして、私は言葉を止めた。あの日の慧を肯定するなら、それは姫君の存在を過去に遡ってまで否定することになる。それだけはしたくなかった。
けれども、今なら慧の気持ちに近付けた気がした。あの日の慧の全てを肯定するわけでも、姫君を否定するわけでも無いけれども、ただ、あの日の私と同じように慧に痛みを投げ付けることは、今の私には出来無かった。
もう、幼いままの私では無い。そして、こんなにも近くにいてくれた慧の気持ちが分からない程、私は愚かでも無かった。きっと慧だって苦しかったはずだ。一度は慧の気持ちを受け入れ、私も慧に気持ちを打ち明けたというのに、すぐに遠ざかった私を見て、慧は何を思っただろう。何を考えて何を悩んで、何を決意したのだろうか。
それらは、原因を作った私が慧に容易く尋ねてはいけないような、ある意味、神聖さすら持ち合わせて、私の中に鋭く舞い降りた。慧は苦しかったはずで、悩んだはずだった。そういった全てが凝縮された一言だったに違い無かった。今の私は、ようやく慧に辿り着いた気がした。
「……どうして、見えもしない彼女にそこまで執着するんだ」
あの日、広がって行く口論の果てに、慧は絞り出すかのようにそう言った。
「……やっぱり覚えてるよな。あの時は言い過ぎた」
慧は私に言い、そして更に告げた。
「言い過ぎたとは思ってる。でも謝らないから。はっきりした理由を言わない有来に、俺がじらじらしていたのは事実だし、はっきり言わないまでも、言葉の端々には姫君の存在が見えていた。そのことに一瞬、理性をなくす程、俺は追い詰められていた」
一度、慧は言葉を切り、右手を私の頬に静かに添えた。
「だから、謝らない」
私は言葉をなくして慧を見つめた。小さな明かり一つの部屋で、慧は、ほんの僅かにだが微笑んでいるように見えた。その慧が生み出す雰囲気に、私は危うく飲み込まれそうになる。
「じゃあ、そういうわけで。とりあえず有来は明日の試験、頑張ってね」
「え?」
突然に変わった話に頭は付いて行かず、私は思わず拍子抜けしてしまった。
慧は私の頬から手を離して、
「早く寝ないと起きられないんじゃない? もう十二時過ぎたし」
と、いつもの口調で淡々と告げた。
「慧、あの」
私の言葉に、羽毛布団に潜り掛けていた慧は振り向いた。
「何?」
「あの…………」
うまく言葉が見付けられず、私は言い淀んだ。お礼を言うべきか謝罪を言うべきか、それとも他に何か相応しい言葉があるだろうかと、私は必死に考えた。そんな私の思考回路を知ってか知らずか、慧は小さく笑って言った。
「ゆっくりやっていけば良いんじゃない?」
その慧の言葉に、私はひどく安心して、とても素直な気持ちで頷くことが出来た。
「うん。あの……ありがとう」
そんなありきたりな言葉しか、私の唇は生み出さなかった。もっともっと他に、慧に言うべきことも伝えるべきことも、心の中に溢れていた。それでも私は、そのたった一言しか慧に届けることが出来無かった。私の感情も心情もはっきりとした形を取らず、マーブル模様の如くに揺らめいて溶け合っていた。そして私はそこから、「ありがとう」の一言しか拾い出せなかった。それでも慧は優しく笑い、その長い腕を伸ばして私の頭にそっと片手を載せた。
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
慧の温かい手は、私の頭からつま先、そして私の心の奥底に至るまで、その優しさを届けて行った。それが、切ない程に、嬉しかった。
私は布団を胸まで引っ張り上げて、目蓋を閉じた。そっと耳を澄ませば、隣から慧の息づかいが僅かに聞こえた。私は、闇の中で眠りに手を伸ばす。そして、やがてそれを掴み掛けた時、慧と小さな姫君の笑顔が目蓋の裏に浮かんだ。
――伝わっていて欲しいと思う。私は慧も姫君も大好きだということ。それは今も変わらないこと。たとえそれがただの自己満足だとしても、伝わっていて欲しい。
慧と姫君、どちらかの手しか取れないと思い、私が悩んだこと。胸を痛め、涙を流し、感謝と謝罪を二人に思ったこと。私の心の全てとまでは言わないけれど、たとえそのかけらでも伝わっていてと願う。慧と二人で眺め、そして私一人でも眺めた小さな星のような輝きは、そこに宿っていて欲しいと祈る。どうか、伝わっていますように。その祈りは、慧と小さな姫君だけのものだから。どうか、届きますように。薄れゆく意識の中、眠りの海に潜る瞬間まで、私は二人を想った。それが私の真実だった。
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