第五章【呼応】5

「さすがに、今日も有来に拒まれたら終わりかなと思っていたからさ。好きとか嫌いとか、そういう感情ってコントロール出来るものでは無いし」


 慧は私の涙を指で拭うと、


「でも、まだ隠していることがあるよね」


 と、静かに言った。


 その声は冷たくは無く、むしろ温かくすらあった。だが、誤魔化しや偽りを許さない、強い意思を秘めたものだと感じた。私は、それに決して少なくは無い緊張を覚えながらも、慧に全てを話すことを決めた。


「あの」


「あ、その前に」


 考えを整理しつつ話し出そうとした私の言葉を遮り、慧は部屋に掛けられた時計を見上げた。


「夜、遅いし、家に電話しておいた方が良くない? 今日のこと、言ってある?」


 私は首を横に振った。見上げた時計は、夜の八時前を指そうとしているところだった。


 慧は、


「俺が電話しようか?」


 と、言ってくれた。


 けれども、私は更に無言で首を横に振り、その申し出を断った。


「どうして?」


「良いの」


 答えになっていない私の言葉に慧は少しの間、沈黙した。


「家にいないかもしれないし」


「携帯は?」


「外出中に掛けると怒られるから」


 以前、夜に母の携帯電話に掛けたことがあった。小学生の時、プールカードに押す印鑑が必要だったからだ。朝に体温を計っているのでは慌ただしいので、私はプールの日の前日に体温を計って、プールカードに記入していた。それでは、プールに入る当日の体調を見る意味があまり無いのは分かっていたが。


 その日の夜遅くになっても母は帰宅せず、不安に思った私は母に電話をした。もし、翌日の朝になっても母が帰らなければ、印鑑の場所を知らない私はプールカードに判が押せない。小学生の私の頭の中は、たちまちその不安でいっぱいになったことを覚えている。


 そして、結果、受話器の向こうから届けられた母のヒステリックな声と、それによる恐怖が強く記憶に残ることになった。そういったことが少しずつ少しずつ、まるで溶けない雪のように静かに確実に降り積もり、私は緩やかに色々なことを諦めて行った。それが自分を守ることに繋がると、当時の幼い私は本能的に分かり始めていたのかもしれない。知らず、自己防衛本能を働かせていたのかもしれない。


 そこまで考えて、私は気分が薄暗くなって来たことを感じた。すると、私の頭の上で、慧の大きな手のひらが、ぽんぽんと動かされる。


「分かった。でも、連絡しないと、何かあったと心配になるかもしれないしさ。俺が家に電話して、留守だったら留守番電話に入れよう。留守番電話になる?」


「……うん」


 すると、名案が浮かんだというかのように、慧の顔は笑顔になった。つられるように、私は少しだけ笑った。


「な、良い考えだろう? ちょっと待ってて」


 慧は私の頭を軽く撫でてから立ち上がり、階下へと下りて行った。慧がどんな風に留守電にメッセージを入れるのか気になったが、私は、そのまま部屋で慧を待つことにした。万一、母が電話に出た場合を思うと、慧には申し訳無いことになるかもしれない。不必要に鋭利な言葉を受けることになるかもしれない。しかし、私にはそれを隣で聞く勇気が出ない。きっと、あの大きな声で勢い良く話すのだろう。相手を怒鳴り付けるかのような、あの強い口調で言葉を発するのだろう。それは絶対と言って良い程、隣にいる私にも聞こえるはずだ。ハンズフリーにしたのかと思う程に大きく、叩き付けるかのようなあの声と口調に、私は、とても耐えられない。


 私は祈るような気持ちで、慧が部屋に戻って来る時を今か今かと待っていた。


 緊張を誤魔化すように、足元に置いていた料理の本を手に取る。しかし、ぱらぱらと捲ってみるも、先程のように頭に入っては来なかった。


 やがて、慧の話す声が一階から二階に届き始めた。何を話しているかまでは分からない。聞きたいような聞きたくないような複雑な気持ちで私はただ座っていた。少しでも時間が経つように、私は鞄からハンカチを出して目や頬に残された涙を拭ってみる。そして、部屋のドアが再び開かれる、その時を待った。おそらく時間にしてみれば数分後に、慧は軽く足音を立てて二階へと戻って来た。私には、とても長く感じられた数分間だった。


 きっと私は、ひどく不安に満ちた顔をしていたのだろう。慧はドアを開けてすぐに、元のように私の隣へと座った。


 そして、軽く私の頭に片手を置いて、


「留守電に入れておいたから大丈夫だよ」


 と、穏やかに、何でも無いことのように私に告げた。


「何を話したの?」


「いや、有来は俺の家にいますとかさ」


 私の問い掛けに、慧は、はっきりとは答えなかった。


 それが気になり、更に問いを重ねようとしたら、


「じゃあ話の続きだけど、あとは何を俺に隠しているのかな、有来は」


 と、慧に先手を打たれてしまったので、私は諦めてそれに応手を打つことにした。


「隠してるっていうか、その、単に私が思い込んでいるというか決めたというか……」


 先程も考えを整理しつつ話をしようとしていたくらいなので、突然の慧の言葉に私はうまく答えることが出来ず、曖昧な表現が並んでしまうこととなってしまった。しかし、慧はそれに苛立つ様子も無く、ただ私の次の言葉を待っているようだった。


 私は一度、浅く呼吸し、再思考をして話し始めた。


「私が慧を好きでいると、姫君は二度と戻って来ない気がして。姫君よりも慧を選んだって、姫君に思われることがすごく悲しくて、つらくて。だから、慧と距離を置けば姫君が帰って来てくれるかもって、そう思ったから」


 私は一息にそう告げて、今度は深く呼吸をした。心臓がかなりうるさく鼓動音を奏でていて、それが殊更に私の緊張と不安を煽る。


 しかし、ずっとずっと隠していたことを慧に告白したことで、私は不安と共に、少しばかりの安堵を得ていた。自分で選択して決定したこととはいえ、やはりその意思を貫き通して行くことはつらかった。けれども、貫き通していたかも実は定かでは無かった。結局、慧を完全に遠ざけることを私は出来ず、いつも自分さえ手を伸ばせば慧に触れられる位置に、私は立ち続けていた。自分にとって都合の良い距離を保ち続けていた。


 慧は、その間、どんな気持ちでいたのだろうか。四年という時間の中、慧はどんな気持ちで私を見ていたのだろうか。私の勝手で、あまりにも長い時間を慧に頼り甘えていた私は、一体どんな風に慧の目に映っていたのだろう。


 私は、今更ながらに慧に対して激しく罪悪感を感じ、改めて不安になった。まるで最後の審判を待つ人類の如く、私は怯えて慧の言葉を待った。それは否定か肯定か、同情か蔑みか。私は逃げ出したい心を抑え付けて、慧を見つめた。せめて慧の言葉を正面から受け止めることが、私に出来る残された唯一の償いとさえ思いながら。


 けれど、慧は私の思いに反して、少しばかり目を細めて微かに笑った。


「多分、そうだろうと思った。彼女がいなくなったことは自分自身のせいだと、有来は自分を責めているんだろうって。だから俺は余計に諦め切れ無かった。彼女がいなくなったことと、俺を否定することは違うんだと気が付いて欲しかった。有来が、また俺と正面から向き合ってくれるのを、ずっと待っていた」


 慧は、まっすぐに私を見て言った。私は、すぐにはその言葉の意味の全てを理解することが出来ず、ただ慧に視点を合わせ続けていた。


「それで、ここが大事なことなんだけど」


 慧は私の両手を自分のそれで包み、真剣な声で私に尋ねた。


「有来は、俺と付き合ってくれますか?」


 私は息を飲み、食い入るように慧を見ていた。先程の言葉と併せて、今の慧の言葉を正しく理解しようと、私は思考回路を働かせた。それは、私が慧の言葉を咄嗟には信じられていない証だった。


「…………本気で?」


 失礼にあたるかもしれない疑問はそれでも端的な言葉になり、微かに震える私の唇から生み出された。慧は至極真面目な顔で頷き、私の両手を包む手に力を込めた。そして、少し笑った。


「俺は嘘は言わないよ」


 それは私への皮肉なのか、軽い響きを持って私の耳に届けられた。しかし、それに笑うだけの余裕も、反論するだけの余力も、既に私には無かった。


「慧が好き。一緒にいたい。一緒にいたい…………」


 また涙が滲み、瞬く間に私の視界はぼやけていった。次の瞬間に、私は慧の体温を全身で感じていた。閉じ込められたかのように抱き締められた私の体は、いつの間にか細かく小さく震えていた。痺れるような幸福が私の中を駆け抜け、だが、それに隣接して不安と悲しみがあった。


 不安は、幸福の影。あまりに大きな幸せが、私の心に生んだ陰影だった。そして悲しみは、今度こそ小さな姫君よりも慧を選び、その手を取った私への悲嘆。私の残酷と、姫君の心への謝罪。

 私は今まで、自分のことを不幸だと思ったことは一度も無かった。たとえ、母が私に冷たくとも。小さな姫君が消えてしまったその時も、慧に距離を置こうと告げて姫君の帰りを待とうと決めた時も。私は決して不幸などでは無かった。けれども、私は心から幸福だと感じたことも、一度とて無かった。


 四年前、慧への想いを自覚した時も、慧が私を好きだと言ってくれた瞬間も、私は心から幸せだとは思わなかった。それは私が年齢的にも精神的にも幼く、幸福というものがどういうものなのか、はっきりと知らなかったせいもあるのかもしれない。だが、おそらく、私は慧と一緒にいることを心から幸福だと感じる前に、慧から離れてしまったのだ。


 慧の隣に並んで公園を歩き、慧の家に向かう時。慧の部屋で勉強を教わったり、慧と話をする時。幸福だと思ったことはあった。けれど、それは心からの幸福では無かった。私は、いつも心のどこかで怯えて、諦めに似た何かを抱えて過ごしていた。それは慧と同じ時間を過ごしている時ですら、心の隅で私を縛っていたのだ。こうして慧の温かな体温を感じている今ですら、私はそれを僅かながら感じていた。幸福を感じることが、まるで罪悪であるかのような、禁じられた果実に手を掛けているかのような、ひどく怯えた気持ちに苛まれてしまう。それでも、私はもう二度と慧から離れて行くことはしたくなかった。自分の気持ちを偽り続ける内に、まるでその気持ちが自身の真実であると錯覚してしまうようになる程、苦しいところには立ちたく無かった。


 そう、私は苦しかった。姫君への罪悪と謝罪、慧への罪悪と謝罪、そして自分に欺瞞を言い聞かせる毎日が、苦しくて仕方無かった。私は姫君が一番大切で大事だから、慧よりも優先させなければならないことだから、それが私の心からの望みだからと、毎日毎日、自分の奥底にまで刷り込んで行くことが実を言えば苦しかった。やがて苦しみは感じなくなったが、それこそが錯覚であり、悲しい現実であったのだ。細胞の一つ一つにすら染み込み、そしてどんなに細胞が生まれ変わろうとも、何度でもそれはすぐに染みて私の一部になっていった。何度でも、何度でも。


「苦しかった……」


 絞り出すように洩れた私の感情。慧は私を抱き締める手に一層のこと力を込めた。それは、ここにいて良いよと、慧に言われたようだった。私は、ようやく許されたように感じていた。私の涙は次々と流れ落ちて、頬や制服を濡らして行った。痺れるような頭の中で、ああ、これが幸福なんだと、二度と手放してはいけないものなんだと、私は噛み締めるようにして感じていた。


「落ち着いた?」


 慧は私が泣き止むまで、ずっと抱き締めたままでいてくれた。伝わる慧の体温と、そして、私の頭や背中を撫でる大きな手が、私を安らぎへと導く。


「……ごめん、泣いてばかりで」


 私が少し慧から体を離して言うと、慧は再び私を閉じ込めるように抱き寄せた。


「あの、もう大丈夫だよ」


 気持ちが落ち着いて来たせいか、今頃になって気恥ずかしくなった私は、慌ててそう告げた。それでも慧は手を緩めようとはせず、代わりに私の頭の上で長い溜め息がつかれた。


「どうしたの?」


「安心したら、気が抜けた」


 慧は短く答え、更にもう一つ、溜め息を生み出す。


「さすがに、今日、有来に拒まれたらどうしようかと思っていたから。何せ四年越しだし」


 四年。その言葉に私の肩が瞬間的に震えた。


 それを慧が見逃すわけも無く、


「念の為に言うけど、有来を責めているとかは全く無いよ。ただ、やっと有来と本当に会えたというか、報われたというか。ちょっと安心して気が緩んで」


 と、次々に私への弁解を慧は口にした。


「うん」


「本当に真剣だったんだ」


「うん、ごめん」


 そんなことしか言えない私は、何て無力だろうと思った。まして私のしたことは、してきたことは、謝罪の言葉一つで許されるようなことでは無いことが明白だった。それは他の誰でも無い、私が一番良く分かっている。私はこれからどうしたら良いのか、切に考えて行こうと思った。ただ、慧の傍を離れることは二度としたくないし、するつもりも無かった。それが、たとえ小さな姫君への裏切りになるとしても。そして、考えたくは無いが、姫君に会えなくなるとしても。


 慧と距離を置くことは、私にはもう不可能だった。細胞の一つ一つが、そう訴えていた。


「そういえば、慧は小さな姫君がイマジナリーフレンドだって、いつ頃、思ったの?」


 私は涙を拭って、慧を見上げる。すると、慧は驚きを隠せない顔で私を見ていた。


「有来、それ、どうして?」


 動揺を露わに尋ねる慧に、私は答えた。


「沙矢が言ってた。保健室で慧に聞かれたって」


「ああ、なるほどね」


 慧は天井を仰ぎ、何かを考え込むような顔付きになった。


「あ、でも別に言いたくなければ」


「調べたんだ」


 私の言葉を遮り、慧は告げた。同時に慧の視線は私の視線とぶつかり、僅かの間、沈黙が訪れた。


「調べたんだ。最初は、一人遊びとか、そういうことだと思って深く考えていなかった。そんな有来が可愛いとも思っていた」


 慧の言葉が途切れて、再び沈黙が部屋を包む。私は緊張しながら、慧の次の言葉を待った。


「でも、俺が彼女を否定した時の有来を見て……」


 慧は最後まで言わなかったが、何を言おうとしているのか私には分かった。慧は以前、小さな姫君の存在を否定した。それが私への悪意などでは無いことは、当時の私にも分かっていた。けれども、私は慧の言葉を受け入れることが出来無かった。その時、私は話を終わりまで聞くことすらせずに、慧へ反論の言葉を投げ付け、その場から走って逃げ出していた。


 ――あれは、私が中学生になって半年くらい経った頃だった。季節は今と同じ秋で、糸のように細く冷たい雨が降っていた。今でも鮮明に思い出すことが出来る。季節、風景、気温、天気。そこに立っているかのように、全てが生々しく蘇る。慧の言葉と口調、私の反論と口調。それらの鮮やかな記憶の中で、何故かその時の慧の顔だけが思い出せないものになっていた。


「悪い、思い出させたね」


 時間の流れを遡っていた私を引き戻すように、慧の言葉が降った。そして慧はようやく私を抱き締めていた腕を緩め、私の顔を覗き込むように見た。そこには、心配と不安が映し込まれている。


「あ、大丈夫だから。本当に」


 偽り無く慧にそう言えた自分に、私はひどく驚いていた。以前の私ならば、ましてあの時の私なら、とてもこんな風には言えなかったし、思えなかったに違い無い。思えなかったからこそ、私はあの時、慧にひどい言葉を投げ付けてしまったのだから。慧は私の頭に手を置いて、安心したかのように小さく息を吐いた。そこに凝縮されたかのような慧の優しさが静かに伝わり、私は胸が苦しくなった。 そして、また少しの間、静寂が訪れる。僅かな夜風を受けてさらさらと流れるカーテンの音と、時計の小さな秒針の音が広がる中、私と慧の息づかいが、ささやかに生まれていた。


 私は、とても穏やかな気持ちで、慧と共にそこにいた。しばらくして、その空気に声を挟むことを躊躇うかのようにしつつ、慧が遠慮がちに口を開いた。


「ところでさ」


「うん?」


 私が見ると、慧はちょっと困ったように笑った。


「お腹、空かない?」


 言い知れない間が空く。


「いや、もう九時近いし。夕御飯の時間はとっくに過ぎてるしさ」


 言い訳のように焦って言葉を付け足す慧を見て、私は少し笑ってしまった。そして壁に掛けられた時計を見て自分でも時間を確かめ、時の経つ早さに驚く。


「ごめんね、遅くまでいて。私、帰る。また色々話そうね」


 慧から体を離して立ち上がろうとすると、慧は私の腕を掴んでそれを押し留めた。


「夕食、食べて行かないの?」


「でも、これ以上いたら、ご両親にも迷惑が掛かるよ」


 しかし、慧は私の言葉をすぐさま否定した。


「父は出張で帰って来るのは来週頭だし、母は町内会の旅行で帰りは明後日だし」


 その言葉に私は少し驚き、


「そうだったんだ」


 と、告げるのが精一杯だった。


「だから食べて行ったら? 有来の好きなもの作るよ?」


 思わず私は、自分が笑顔になったことを感じる。


「じゃあ、ウニのスパゲティを」


「いや、それはちょっと。ウニが無いし」


 私と慧は少しの沈黙の後、声を上げて笑った。私達は幸せに包まれ、互いを目に映してそこに座っていた。ようやく、長い間、凍り付いたままだった距離が、音もなく溶けて行った。そんな気がした。

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