第五章【呼応】4

 夜の七時を回り、外はもうすっかり暗くなっていた。秋は夏と比べ、日が落ちるのが早いことを感じながら、私は慧の家へと急いだ。沙矢の部屋で慧のメールを読んだ時、私は何故だか分からないまま、とてもほっとした。その理由は、今、考えるとはっきりと分かった。


 慧が私に約束通りメールを届けてくれたこと、メールの文面が短いながらにも優しく、いつも通りの慧であったことに、私は心から安堵したのだ。その心情は、きっと昨日までなら感じなかっただろうと思う。沙矢の言葉が結果的に私に不安と疑惑を与え、慧がそれを拭い去ったことにより生まれたものだった。慧が二度と私を想わなくなっても、慧が二度と私に優しくしてくれなくても、私はそれで良いのかどうか。それを受け入れることが出来るのか。沙矢は見事に核心をついた。そして私を、自身の本当の気持ちに気付かせるまでに導いた。沙矢からの問い掛けが無ければ、きっとこれからも私は逃避し、心を封じ、気付かない振りを続けて行っただろうと思う。それを考えると、改めて沙矢への感謝が生まれた。


 正直、慧と真っ直ぐに向き合う勇気は未だに見付からない。これから慧の家に行って慧と会うこと自体にも、私はとても緊張していた。正体が不透明な不安を抱えてもいた。実際、慧と会って、うまく話が出来るのかどうかも自信が無く、複雑な心を抱えたままという点においては、今までと何ら変わりが無かった。


 それでも、私は足早に歩き続けた。慧からのメールに書かれていた、「近道をしないで、明るい道を通って来て」という言葉を守りながら。この時間帯ならまだ車通りの多い道路、それに平行して伸びる、街灯に照らされた歩道を、私は急いで歩き続けた。珍しく風の無い夜のせいか、私は、ほんの少しだけ暑さを覚え、そしてまた少しだけ、息を弾ませていた。


 知らない内に鞄を持つ左手には力が入り、右手では乱れた前髪を軽く払った。髪が少し乱れるくらいに、歩くスピードが先程よりも早くなって行った。私の焦燥に比例するかのように、足早になって行く自分がいた。それは何故だろうと、私は歩く速度は落とさずに思考する。


 慧に会ったところで何をどう伝えるべきなのか、そもそも何を話そうとしているのかさえ、自分自身、分からないでいるというのに、思考は止まらない。まとまらない。けれども、もう機会を逃したく無かった。これは沙矢が与えてくれた、そして私がやっと掴めた、最高のチャンスだと思った。そう信じたかった。しかし、その前提で考えてみても、同時に、最高で最後のチャンスかもしれないとも思った。予感すらあった。きっと私はこれを逃せば、もう二度と慧に正面から向き合うことは出来無いだろう。


 そして、いつしか近い内に、慧も私から離れて本当の意味で私と距離を置くだろうと思う。それだけは、どうしても避けたかった。そう気が付いた。私にはきっと耐えられない。慧が、私に電話もメールもしなくなる。部屋に入れてくれることは勿論、遊びに誘ってくれることも無くなる。優しい笑顔も声も、心も遠ざかってしまう。二度と、私には手も声も届かないどこかへ行ってしまう。そんな現実に、きっと私は立っていられない。そんな事実を受け入れることは、きっと私には出来無い。


 ふと、両目に涙が滲んだことに気が付く。私にそんな権利など無いと、もうとっくに分かっていた。もしも慧が、私から真実、離れたとしても、私はそれを責められない。引き止めることも叶わない。他ならぬ私が招いた現実を目の前にしたとして、どうして私が慧を責めることが出来るだろう。そんな理不尽や勝手が許されるはずも無く、たとえ誰に許されようと、それこそ慧に許されようとも、私は私自身を許せない。しかし、その時が近付いているような足音を感じて、私はそれに捕まらないように更に足早に歩き続けた。


 もうすぐ近所の公園に差し掛かるというところで、鞄の中から明るいメロディーが響いた。私は慌てて鞄を開き、吸い寄せられるようにして携帯電話を取り出す。


「はい」


「あ、有来。今、どの辺り?」


 機械越しに、穏やかな慧の声が聞こえる。安堵が生まれる。


「公園に着いたところ。もうちょっとで行けるよ」


 私が焦りつつ告げると、慧が軽く笑った。


「そんなに慌てなくたって大丈夫だよ。オレンジジュースは逃げないから」


「そ、そんなこと考えてないよ」


 子供扱いをされたようで少し腹を立てた私は、すぐに慧の軽口に反論を返した。しかし、それがまた慧の笑いを誘ってしまったらしく、押し殺したような慧の笑い声が私の耳に届けられてしまった。その声を聞きながら、立ち止まっていた私は再び歩き始めた。公園の中心を通り、慧へと続く道を辿る。


「メールが返って来なかったから、約束を忘れてたりしてと思ってね」


 ようやく笑いを止めた慧は、いつもの調子に戻って告げた。


「あ、ごめん。メールを返すより、急いで行った方が良いかと思って」


「ああ、なるほどね。でも暗くなってるから心配したよ」


 私の回答に納得したかのような返事の後、慧は私を気遣うように言葉を続けた。それが、ひどく嬉しかった。


「ごめんね」


 私の喜びと安堵は素直に謝罪を生み出し、私の心から唇に届けられる。その事実に、自分でも驚いていた。


「いや、何も無かったなら良いんだ。それじゃ、待ってるから」


「うん、じゃあね」


 私は、そっと右耳から携帯電話電話を離し、通話を切った。携帯電話を鞄にしまう時間も惜しく、私は、折り畳んだ携帯電話をそのまま右手で握ったまま歩く。鼓動が早くなっているのは、足早に歩き続けたせいだけでは無いであろうことを自覚しながら、私はその心に従うように足を進めた。そうすることが、まるで自然で、当然のように。


 ようやく辿り着いた慧の家の前で、私は少し息を整えた。しかし、先程よりも遥かに音が大きくなっていると思われる心臓を抱えたまま、私は慧の家のインターホンを押した。ピンポーン、という可愛らしい音が響いた後、すぐに慧が顔を出す。


「やあ」


「あ、久し振りです」


 久し振り?


 私は、自分で言った言葉に疑問を持った。ついさっき電話で話したばかりだし、昨日も慧と会っている。


 慧も同じように感じたらしく、


「昨日も会ったのに。しかも、どうして敬語?」


 と、笑って言った。


 慧は玄関のドアを大きく開き、私を家へと招き入れた。


「お邪魔します」


 そう告げて、私が靴を脱いで揃えると、


「先に二階へ上がっていて良いよ。すぐ行くから」


 と慧は言い、私が返事をすると居間へと入って行った。


 階段を上ると、とんとん、という軽やかな音が立つ。その音とは正反対に、今も尚、私の心臓はうるさいくらいの音を立てていた。


 少し遠慮がちに二階の奥のドアを開くと、見慣れた慧の部屋が姿を現す。私は、そっと足を踏み入れ、ゆっくりと部屋を見渡した。頻繁に様子が変わることは無い慧の部屋だったが、こうして部屋に入った時に見渡すことが、何となく私の習慣になっていた。ここが慧の部屋だと、改めて認識するかのように。


 半分程、開け放たれた窓からは、ごく僅かに秋の夜の空気が入り込み、部屋の中をささやかに巡っていた。今日はあまり風が無い夜だなと思いつつ、私は窓辺に立って空を見上げた。闇に覆われた空には、昨日のように小さな星が散るように飾られ、メレダイヤのような輝きを放っている。私は、それらを視界に収めながら、これから慧と話をすることへの緊張を和らげようと努めた。


 十分くらいは経ったのだろうか。慧はまだ、上がって来なかった。私は夜空から部屋へと視線を戻し、何とはなしに本棚を見た。私が小学生の頃、この大きな本棚と、そこに綺麗に収められた沢山の本がとても羨ましかったのを覚えている。今も以前のように、漫画は勿論、文学小説や植物図鑑、鉱物図鑑に写真集、参考書など、実に多くの本が、ぎっしりと詰められていた。


 ふと本棚を見上げると、上から二段目にある、「簡単に作れる今日のおかず」と書かれた背表紙が目に入る。私は興味を持ち、つま先で立って、その本を手に取った。


「こういうの読むんだ」


 意外性に驚き、私は独り言を洩らす。そして、ぱらぱらと数ページを捲ると、様々な料理がカラー写真で現れた。


「あ、良いな」


 私はページを捲る手を止め、その写真を眺めた。料理名は「じゃがいものツナチーズ和え」。それは、じゃがいもが好きな私の興味を強く惹いた。いつしか私は真剣に材料をチェックし、作り方を順に見て行った。


そのレシピを忘れないようにしつつ読んでいると、


「何、読んでるの?」


 本から目を離し、声のした方向を見上げると、慧が立っている。階段を上がって来る音すら耳に届いていなかったことに私は気が付き、また、余程、集中してレシピをチェックしていた事実にも気付かされた。


「ごめん、勝手に」


 私が慌てて本を戻そうとすると、慧はそれを遮って、私の持っていた本を覗き込んで来た。


「あ、それか。有来は料理、好き?」


「うん、好き。本当はもっと色々作ってみたいんだ」


 かちゃ、とガラスのテーブルにお盆を置き、慧はジュースやお菓子をお盆からテーブルへと移して行く。


 私は本を仕舞い、テーブルの前に座った。視界の先でオレンジジュースが、ゆらゆらと揺れ、その向こう側には慧が見えた。そして、オレンジ色の液体同様、私の心も、ゆらゆらと揺れていた。まず、どうやって話を切り出そうか。しかし、そもそも私は何を話そうとしているのか?


 私は、おそらくかなりの混乱状態にあった。とにかく冷静に考えを整理しようと努めてみても、それはなかなかうまくは行かなかった。


 しかし、慧が私に望むこと。それだけは分かりすぎるくらいに分かっていた。自惚れでも勘違いでもなく、驕りでも不遜でもなく。実質的に一緒にいた時間は短いかもしれないものの、慧はずっと私の傍で私を支え、四年という時を越えた今も、私を望んでくれている。そこには複雑なようで、ひどくシンプルな感情が存在しているように思えた。対する私の心には、シンプルなようで、ひどく複雑な感情が潜んでいるように思えた。この二つの心が、綺麗に混ざり合って溶け合う選択肢はあるのだろうか?


 私は強い不安を覚え、心なし下を向いて透明なテーブルに置いた両手を見つめた。


「有来。オレンジジュース、飲まないの?」


 不意に明るく降ったその声に顔を上げれば、それに相応しい明るい笑顔で慧が私を見ていた。


「あ……ありがとう。いただきます」


 少しだけ不安が和らぎ、私は、そっとコップに手を伸ばして両手で包むように持った。一口飲むと、程良く冷えたオレンジジュースは私の喉をゆるやかに下降し、お腹の辺りに届く感覚が生まれた。


「おいしい?」


「うん」


 私に尋ねる慧の声は、いつもの通りに優しくて、嬉しい反面、私はそこに切なさすら感じた。瞬間、私の中に再び、強烈な不安感が、じわりと滲んだ。見えない自分の心の奥底から、しかしそれは、はっきりと私の全身を蝕んで行く。


「慧!」


 私は、思わず大きな声で慧の名前を呼んでいた。その声の大きさに自分でも驚きを感じながら、同時に私は、乱暴にコップを置いた。ガラスのコップとガラスのテーブルが反発するかのように鋭い音を立て、オレンジ色の液体は小さな波を生む。


「有来? どうした?」


 慧が、驚きと心配を内包した声音で尋ねた。私はその声を聞いて、更に心が不安を訴えたことを感じた。慧を失うということ。二度と慧が私に笑いかけはしないということ。私から本当に離れて行くということ。そんなことが私に耐えられるはずも無い。


「私、慧がいなくなっちゃうのが嫌なの」


「有来?」


 唐突な私の発言に、慧は驚いたようだった。


 私自身、きちんとした順番で話をしている自覚は無かった。だから、慧が驚くのも無理は無いと思う反面、もう止めることは叶わなかった。今、伝えなければ、慧に話をしなければ、私はまたきっと同じことを繰り返すだろうという確信めいた予感があった。そして、そんなことをしていれば、近く慧は私から遠ざかって行くだろうことも予想が出来た。


 沙矢と話をしてからずっと、そして慧の家に向かう道々で、何度も何度も考えた。恐ろしい可能性が、現実味を帯びて私をじわりじわりと内側から支配して行く。それが、どうしようもなく怖くて、どうしようもなく悲しかった。


「慧が私を好きだって言ってくれて嬉しかった。すごく嬉しかったの。手を繋いで帰ったことも、いつも慧が優しいことも嬉しかった。全部全部、嬉しいの」


 私は、慧から視線を外すことが出来無かった。大切な話だと自分で理解しているからと共に、目を逸らせば私の前から慧がふわりと消えていなくなってしまうような、そんな非現実的な思考が私を縛っていたからだった。本当なら、とっくに慧が私の前からいなくなってしまっていてもおかしくないと思った。慧は私が好きで、私も慧が好きだった。四年前にそれが互いの知るところとなり、私達は距離を縮めて行った。その距離は、きっと限り無くゼロになって行くはずだった。私さえ、慧を拒まなければ。私が、慧と距離を置かなければ。距離を置きたいなどと、私が慧に告げなければ。


 後悔と悲しみが一時に湧き出し、私はまるで窒息するのではないかと思う程に胸が苦しくなった。それでも思考は止まることが無く、溢れ出る感情も留まることが無かった。


「慧に謝らないといけないの。私は慧に嘘をついた。距離なんて置きたく無かった。私は慧との間に距離なんて欲しく無かった。ずっと、一緒にいたかった」


 視界がうっすらとぼやけていた。私の目には知らず涙が滲んで、慧の顔が揺らめいて見えた。しかし、私は慧から視線を外すことはせず、そのまま言葉を続けた。


「慧が私から本当に離れて行くのは嫌、私が慧から離れるのも嫌。距離なんかちょっとだっていらない、ずっと一緒にいたい。慧と、一緒にいたい……」


 ぽたぽたと涙が流れて落ちて行く。私はもう耐え切れずに、慧から視線を逃がして下を向いた。すると一層、多くの涙が溢れ、重力に従って雫が落ちて行った。


「やっと、有来の本当の気持ちが聞けた」


 頭と右肩の上に穏やかな温かさを感じて、私は顔を上げた。そこには優しく、同時に、少し苦しそうな目で、私を見ている慧がいた。いつの間にか私の隣に座っていた慧に、私はそこで初めて気が付いた。

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