第五章【呼応】3

 私が黙っていると、


「ごめんね」


 と、沙矢は謝罪を口にする。


 そして、その理由を私が尋ねるよりも先に、沙矢は言葉を続けた。


「私、保健室で羽野さんと他にも話したことがあるの。多くは無いけれど」


「……何を、話したの?」


 私は、速くなって行く鼓動を押し殺すようにして問い掛けた。


「『イマジナリーフレンドって知ってる?』って聞かれたんだ」


 それは、まさに私がたった今、読み、知り、理解に努めていたことだった。


「知らないです、って答えたら、半ば独り言のように羽野さんは続けたの。『有来は、俺とイマジナリーフレンドとの間で悩んでいるんだ』って」


「イマジナリーフレンド……」


 沙矢の言葉を受けて私が呟くと、


「心当たり、あるよね?」


 と、沙矢は確認するように私に尋ねた。それは、確信に満ちた発言だった。


「慧から、他に何を聞いたの?」


「これで全部だよ。あの後、すぐに保健の先生が戻って来て、私は先生に言われて家に帰ったから。遅い時間になっていたし、羽野さんもそう勧めたし」


 私は視線を沙矢からパソコンの画面へと戻し、乱れた思考をまとめるべく、冷静になろうとした。その私の隣で、沙矢は静かに話し続ける。


「イマジナリーフレンド。聞いたことの無い言葉だった。私は昨日、家に帰ってすぐ、インターネットで検索したの。そうしたら、沢山の記事が見付かった。それは、その中の一つだよ」


 沙矢の言葉を耳に受け止めながら、私は、ただ画面を見続けていた。


「単刀直入に聞くね。有来は、羽野さんとイマジナリーフレンド、そのどちらを選ぶかで悩んでいるの?」


 私は、思わず立ち上がった。がたん、と椅子が大きな音を立てる。それは間違い無く私の動揺を表していた。


「違うの?」


 沙矢は、そんな私に動じることも無く、相変わらず静かに、淡々とした声音で話し掛ける。そこには恐れも怒りも感じられず、ただ純度の高い疑問だけが存在しているように思えた。沙矢は私を責めているわけでは無い。尋ねているだけだ。しかし――いや、だからこそと言うべきか――私の困惑はいよいよ以て頂点に達し、冷静であろうとすればする程、それは叶わないものになって行った。私のその心情を知ってか知らずか、沙矢は追い打ちを掛けるかのように言葉を発する。


「もしも、イマジナリーフレンドを選んだら、羽野さんは切り捨ててしまうの? 有来は、あの人の優しさを、無かったことにしてしまうの?」


「……どうしてそんなことを聞くの」


 私には、それを言うことが精一杯だった。精一杯の反論だった。しかしそれは、沙矢の前では簡単に力を失い、遠く、遥か彼方に追いやられてしまったのだ。


「イマジナリーフレンドが、有来にはいるのね?」


 不意に落とされた問い掛けは確信に満ちて、私へと届けられた。私には沙矢の真意が汲み取れず、何故か涙が溢れそうになった。混乱した頭で、相手の思考を読み取ることなど困難を極めるのかもしれない。しかし、私は必死に沙矢の考えに触れようと努力をした。


 沙矢は考え無しに発言をする人では無く、また、私を傷付ける存在でも無かった。小学校三年生で同じクラスになり、それ以来ずっと、親しい友達でやって来た。大きな喧嘩も無く、私達はうまく行っていた。


 限られた小さな世界の中での、女の子同士の独特な仲間意識とでも言うのだろうか。学校において、連れ立ってお手洗いに行ったり、短い休み時間を数人のグループでお喋りをして過ごしたりすることが、私は苦手だった。そのせいで私は、陰口を囁かれることがあったし、距離を置かれることなどが多々あった。


 けれど、沙矢はそれをしない内の一人であり、私の気の合う友達の一人だった。その沙矢が、私の心の奥底に突然触れてきたことに対して私は激しく動揺し、困惑していた。それ以前に、「イマジナリーフレンド」というものについて知った時点で、私の心情は相当に揺らぎを覚えていた。よって、相乗効果が生じ、私は今、自分が何をすべきなのか、何を話すべきなのか、全く分からなくなってしまっていた。


「そこに書いてある通り、イマジナリーフレンドがいることは別におかしなことじゃないよ。私も初めはびっくりしたけど、それは知識が無かったから。知ってしまえば、難しいことでも、まして、理解出来無いことでも無かったよ」


「理解、出来たの?」


 遠慮がちに発した私の問いに、沙矢は軽快に答えた。


「難しいことでは無かったもの。日本では馴染みが薄いかもしれないけど、欧米では普通のことみたいだね」


「……そうみたい。私も知らなかったけど」


 ――イマジナリーフレンド。


 想像上の友人、と訳されるそれは、文字通りの意味であり、幼少時の子供に良く見られる現象である。想像上の友人、という言葉から察することの出来るように、子供の想像力が生み出した、架空の友人である。欧米では当たり前の概念として存在し、普通、イマジナリーフレンドは子供の成長につれて消失するものとされている。それは、イマジナリーフレンドという存在が、子供が自立していない幼少時に生み出されるということから、子供が成長し、自立心が養われて行くにつれて、自然に消えて行くものと考えられていることによる。また、子供自身に実際の友人が増えて行くにつれて、イマジナリーフレンドは役目を終えて消失するという説もある。つまり、子供の孤独感から生まれた存在とも捉えることが出来るのだ。


 私は、沙矢の淡々とした、知識を語るだけの言葉に少しだけ冷静さを取り戻していた。そして、自分が今、得た情報をゆっくりと整理し、理解して行こうと努めた。


 沙矢は、慧が告げた言葉から、イマジナリーフレンドという概念を知り、それを私に結び付けたのだろう。また、慧の発言や態度、私が慧と付き合っていない事実、そして私の様子から色々と考え、推測したのだろうと思った。けれども、そこまでは分かっても、私には沙矢の真意が理解出来無かった。沙矢は、何を思ってイマジナリーフレンドということについて、私に伝えて来たのか。私に何を言おうとしているのか。そこが見えなかった。


「あの、どうして沙矢は私にこれを?」


 思い切って、私は沙矢に尋ねた。あれこれと考えるよりも、今、目の前にいる本人に聞く方が遥かに確実で、簡単だからだ。答えを聞くことに恐れはあった。単なる好奇心だとか、それならばまだ良い方で、あるいは私を軽蔑、もしくは奇異の目で見るのではないかと。いくら沙矢とはずっと親しくして来ていて、今でも気の合う友人だとしても、やはり反応を見ることは怖かった。加えてそれは、沙矢への信頼や好意とは、また別の問題だと思った。もしも、私にイマジナリーフレンドがいる――あるいは、いた――として、それは、ごく一般的なことでは無いように思えたのだ。たとえ欧米では当然のように受け入れられている概念だとしても。


「ごめんね。突然、こんな話をして。お節介かもしれないとは思ったんだけど、でも、とても黙ってはいられなかったの」


 沙矢は僅かに目を伏せ、何度か瞬きをした。そして、少しばかり不安そうな視線を私に向けて話し出した。


「イマジナリーフレンドのことは、すんなりと私の中に入って来た。概念を理解することは、そう難しいことじゃなかったの。そして羽野さんの言葉から、有来が羽野さんとイマジナリーフレンドとの間で悩んでいることが思い浮かんだ。もしかしたら有来は、羽野さんのことを好きだと思いながらも、それを抑えているんじゃないかと思った。そうしたら、もう居ても立ってもいられなくなっちゃって」


 沙矢は一度言葉を切り、自分の黒髪を撫で付けるようにして右手を添えた。沙矢は言葉を選び、それについて思考し、様々な取捨選択をしながら慎重に私に話しているように見えた。


「それで、私に伝えようって思ったの?」


 緩やかに、先を促すように私が問い掛けると、沙矢は頷き、話を続けた。


「イマジナリーフレンドが、もしも有来にいるなら、話を聞いてみたいなと思った。それは、ただの興味。でも、そのイマジナリーフレンドの為に、有来が羽野さんを諦めようとしているなら、そんなに悲しいことは無いと思った」


「悲しい?」


 小さな姫君の為に慧を諦めることを、沙矢は悲しいことだと言い切り、私の聞き返しにも肯定を示した。私はそれに疑問を感じながら、もう一度、沙矢に問いを投げ掛ける。


「もし、私の中にイマジナリーフレンドがいるとして、その為に慧を諦めることが悲しいことだと、沙矢は思うの?」


「思う」


 端的に、しかし、はっきりと言い切る沙矢に、私は少なからず圧倒された。ともすれば自信と確信に満ちた声音にも聞こえるそれは、私に更なる疑問を抱かせるに至る。


「どうして、そう思うの?」


 沙矢は、一旦、私から離れる。そして、テーブルからジュースの入ったコップを二つ手にし、再び私の隣に立った。コップを一つ私に手渡し、沙矢は一口、ジュースを飲んだ。私は手の中でゆらゆらと揺れる、優しい林檎色の液体を見つめながら、沙矢の次の言葉を待った。しばらく沈黙したままだった沙矢は、やがて言葉を発する。


「ねえ、座らない?」


 沙矢は私の想像に反して、核心に触れる発言とは別の発言をした。顔を上げると、沙矢はテーブルを指差し、私を誘っている。


「そうだね」


 私は沙矢の言葉に頷いて、床に置かれた丸いテーブルの前に座り直した。そして、林檎ジュースを飲み、喉の渇きを癒やす。やがて、沙矢は少し逡巡するような顔をして、再び口を開いた。


「さっきの続きなんだけどね。イマジナリーフレンドの為に、羽野さんを諦めることが悲しいことだっていう」


「うん」


 心持ち緊張しながら、私は沙矢の前置きに頷いた。


「先に聞きたいんだけど、有来はそうは思わないの?」


 予想に反した話の流れに私は面食らい、すぐに返事を返すことが出来無かった。


「有来は、羽野さんの気持ちを受け止め無いことが、悲しくは無いの?」


「そういうわけでは、無いけど」


 言葉を濁す私に、沙矢は更に重ねる。


「二度と羽野さんが有来を想わなくなっても、有来は平気?」


 沙矢のその言葉は、今日一番、私の心に強く、強く絡み付いた。沙矢にイマジナリーフレンドの存在を指摘された時よりも、ずっとずっと強く。そして、それに私が気が付いてしまったことは、ひどくいけないことのように思えた。


「私は、羽野さんとは二回しか会っていないし、大して話もしていない。有来から詳しい話を聞いたわけでも無い。それでも、すごく良く分かったんだよ。羽野さんが、有来を本当に大切に想っていることが」


 沙矢は真剣な目で私を見た。


「有来には分からないの?」


 私は、思わず沙矢から目を逸らす。視界の片隅で、林檎ジュースがとろけるように湛えられている。


「有来が羽野さんのことをそういう風に見られないのなら、それはそれで良いと思う。仕方無いと思う。でも、私にはそうは見えない。それに、有来はさっきから否定しないよね」


「否定って、何を?」


 視線を合わせないまま私が尋ねると、


「イマジナリーフレンドと羽野さん、どちらを選ぶか迷っているってこと」


「……それ、は」


 核心に迫って来る沙矢と、それに追随するようにして色を変えて行く私自身の心に恐怖すら覚え、私は言い淀んだ。これ以上、心の奥底に踏み込んではならない。踏み込ませてはいけない。自分自身ですら、そこに立ち入り、何かに触れることを禁じて来たのだ。今更、それに触れるわけにはいかないし、触れさせてもいけないと思った。


「沙矢、悪いけど」


「有来は羽野さんが好きなんでしょう?」


 間が空く。それは私の思考に必要な時間だったのだろうか。


「私が、慧を好き……?」


 誰に尋ねるでも確かめるでも無く、私の口から言葉が洩れた。


「違うの?」


 沙矢が穏やかに問い掛ける。そして私は、急速に収束しつつある自分自身の心と向き合わねばならなかった。本当は、自分の心など知りたくは無かった。知らないままで良かった。


 小さな姫君を想い、彼女との再会を願い、信じていることで、きっと私は私の心のバランスを保ち続けて来たのだろう。それが今、唐突に崩れて行く予感がしていた。いや、既にもう崩れ落ち掛けていたのかもしれない。私はここに来て、私の心の奥底に潜り、私自身と向き合わざるを得なかったのだ。意思とは無関係に上がり始めたのであろう心の温度が、もう決して無視出来無い程に高まっていた。それは、私が私から逃避することを許さなかった。


「慧のことは嫌いじゃないけど、好きなのかどうか分からなくて。ずっと慧は優しくて、それは嬉しかったけど」


 しかし、今、この時点では、まだ私は私を偽っていた。きっと無意識に、今までそうして来たように。


 少しの間、私達の間には沈黙が訪れた。私の視線は、ぎゅっと握り締められた自分の両手を捉え、じっと動かなかった。否、動かせなかった。私の視線は体ごと凍て付き、反対に、私の心は沸騰しているかのように熱かった。触れれば、じゅう、という音すら聞こえて来そうな程に。水が沸騰する際に生まれる沢山の気泡の如く、私の感情が、思考が次々と湧き出し、瞬く間に溢れて行った。そして、もはや、それを止めることは私の力では叶わなかった。


「じゃあ、もし羽野さんが、二度と有来に優しくしてくれなくても平気?」


 沙矢は私の言葉を受けて、質問を投げ掛ける。それが先程と同じように、強く、ひどく強く私を掴んで離さなかった。


 二度と慧が私のことを想わなくなったら。二度と慧が私に優しくしなくなるとしたら。沙矢の発したこの二つの仮定を、まるで実際、現実に起きたことのように私は想像し、受け止めていた。


「……嫌だよ」


 私は未だ俯き、視線を自分の両の手に合わせたまま呟いていた。


「そんなの、嫌だよ」


 握り締めた手のひらが痛かった。それが分かっていても、どうしてか私は手を広げることが出来無かった。


「私、本当は……」


 ぽたん、と涙が零れたのが見えた。小さな雫は手の甲に当たり、皮膚の上を伝い落ちて行く。私は、自分が何故泣いているのか分かっていた。そして、それを思い、また別の涙が零れた。


 ――私は、慧が好きだ。四年前から今日までずっと、私は慧が大好きだった。慧の優しさ、声、心、繋いだ手の温度、笑顔、慧を形作る全てが大好きだった。本当はずっと気が付いていて、だからこそ私はその心を奥底に封じ込め、触れないようにして来たのだ。しかし今日、それに触れてしまった。本当の意味で気が付いてしまった。心の奥底に踏み込み、自分の本心を連れ出してしまった。私は姫君をずっとずっと待っていたけれど、それ以上に強く慧を望んでいた。どれほど否定しようと、覆い隠そうと、これが私の偽らざる真実だった。


「有来」


 私は痛む手で涙を拭き、ようやく顔を上げて沙矢を見ることが出来た。


「私、慧が好きなの。ずっと好きだった」


 言ってから、また涙が滲んだ。


 慧を好きだと認めること。それは姫君では無く、慧の手を取ることに繋がる。だから私は、ずっと自分の気持ちに気が付かない振りをし続けて来たのだ。私は姫君の手を取りたい、慧よりも姫君を大切にしたいと、そう言い聞かせて来た。そして、それが真実、私の本心だという振りをして過ごして来た。演じ続けていれば、思い込み続けて行けば、まるでそれが本当であるかのようになることを、私は知ったから。その時点で、本心を偽っていることが分かっているはずなのに。けれども、今度こそ、もう駄目だと思った。これ以上、無理をすれば、きっと自分が壊れてしまうだろう。


 そして、これ以上、慧を拒み続ければ、近い内に沙矢の言った言葉が現実のものになると悟った。そのことに、私はきっと耐えられない。


「……無理をしていたのかな」


 私は、独り言のように言った。だが、聞いている人間がいると分かっている上での発言であったことは確かだ。甘えていたのかもしれない。聞いてほしかったのかもしれない。


 言葉になったそれは、思考の道を進んで行く上で、ぶつかった紛れも無い私の心情だった。慧と距離を置くこと。慧よりも小さな姫君を大切に想うこと。私は無理をして、それを演じて来たのだろうか。こうして泣いてしまう程に?


「ねえ、羽野さんを好きになると、有来のイマジナリーフレンドは消えてしまうの?」


 私は、沙矢の言葉を一度、頭の中で繰り返す。言葉の意味を正しく私の中に落とし込むように。そして、伝えた。


「ううん、もういないの。姫君は」


 沙矢の質問に対し、私が改めて声に出して事実を答えると、一層のこと胸に悲しみが広がり、あっと言う間に私を内側から覆い尽くして行った。


「姫君って言うの? 名前」


「うん、小さな姫君」


 ――私が、姫君のことをこうしてきちんと話すのは、沙矢が二人目になる。他に姫君のことを知る唯一の人は慧であり、慧には四年前に姫君のことを話した。慧の家を訪れている時、私は、慧が席を外した際に姫君と少しの話をすることがあった。私が誰かと話しているような声を慧は何度か聞いたらしく、それについて慧が私に尋ねて来たことがきっかけだった。


 当時の私は、自分の中に姫君がいることを特に不思議に思うこと無く過ごしていた。その為、私は素直に姫君のことを慧に話した。慧は少し驚いたようだったが、やがて姫君と私の関係を受け入れてくれた。今、思うと、当時から慧にはイマジナリーフレンドについての知識があったのかもしれない。あるいは、私の話を聞いて、後で沙矢のように色々と調べたのだろう。慧は、あまりにも早く姫君の存在を受け入れてくれた。


 私は、姫君の存在自体を不思議に思うことが無かった。まるで息をすることのように、自然なことだと思っていた。だから、慧に尋ねられた時に素直に姫君のことを話し、慧が姫君を受け入れてくれたことにも特別、驚きはしなかったのだろう。


 沙矢は、慧から「イマジナリーフレンド」という言葉を聞いている。もしも四年前の慧にイマジナリーフレンドの知識が無かったにしても、現在の慧が、姫君をイマジナリーフレンドと捉えていることは確かだった。


「有来?」


「あ、ごめん。ちょっと色々、思い返してた」


 沙矢は特に気分を悪くした風でも無く、


「羽野さんのこと?」


 と、少しの笑顔で尋ねる。


「うん」


 私は、まだ目に残っていた涙を拭き、答えた。その時、携帯電話から高らかにピアノの音色が響いて、私にメールの着信を知らせる。私は沙矢に一言断り、携帯電話を開いた。思った通り、メールの送り主は慧だった。


「羽野さんから?」


「うん、良く分かったね」


 私は顔を上げて沙矢に答えた。


「何となくだよ。有来、七時には帰るって言ってたよね?」


「うん、ごめんね」


 携帯電話のディスプレイは午後七時の五分前を表示している。携帯電話を閉じて鞄に戻し、私は沙矢に謝った。すると、沙矢は首を横に振り、笑顔で告げた。


「また遊びに来てね。それと、頑張ってね」


 一瞬、言葉の後半が何を指しているのか分からず、私は内心で首を傾げた。しかし、すぐに沙矢が何を言っているのかということに予想が付いた。


「慧のこと?」


 確かめるように投げ掛けた私の問いに、沙矢は軽く頷き、


「勿論」


 と、明るい声で付け加えた。


 私は、心から沙矢に感謝していた。今日、こうして沙矢に会わなければ、私はまだ逃げ続けるところだった。慧から、自分自身の心から、小さな姫君からも逃げて、大切なものを置き去りにしたまま毎日を繰り返して行くところだった。進歩も発展も無い日々を進んで行くところだった。自分が逃げているという事実にすら、気付かないままに。全てが理解出来たわけでは無く、整理出来たわけでは無かったが、私が今、一番すべきことは、もうはっきりと分かっていた。


 既に、あの夏の「始まりの日」から四年という時間が過ぎてしまっている。そしてもしかしたら、もっと遥かに長い時間が、これからも流れてしまったかもしれなかったのだ。


 私は、沙矢と話が出来て良かったと思った。そして、沙矢が友達でいてくれて、本当に良かったと。


 鞄を持ち、私は沙矢に感謝を告げる。


「沙矢、ありがとう」


 すると、沙矢は少し照れたように笑い、


「踏み込んだことを話してごめんね。でも、どうしても有来が心配だったから」


 と、答えた。


「うん、本当にありがとう。頑張ってみるね」


 私は、とても素直な心で、そう告げることが出来た。そこには沙矢への感謝と、自分に対する少しばかりの誇らしさが有った。


 ようやく私は、私自身と本当の意味で向き合うことが出来たようだった。四年の間に降り積もった何もかもを透明に出来る程、時間も心も、まだ足りてはいないけれども。しかし、核心に触れることの出来た私は、明らかに、それ以前までとは変化していた。私は別れ際に、もう一度、沙矢にお礼を伝えて玄関のドアを開けた。


 笑顔で沙矢に手を振ることの出来た自分自身が、私は、切ない程に嬉しかった。

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