第五章【呼応】2

 私と沙矢は他愛ない話をしながら、沙矢の家へと向かった。そのささやかな時間が私にとってはひどく幸せで、限り無く大切なものに思えた。自分以外の人が自分のことを想ってくれるという、その温かさを今まで以上に感じていたのだ。そして、その感覚を初めて知ったのは四年前の夏で、教えてくれたのは慧だということを、私は思い出していた。


 沙矢の家へは、小学生の頃から何度か来たことがあった。市内に建つマンションの中ではかなり立派で、私は初めて来た時に、少なからず驚いた記憶がある。


「ちょっと待ってね」


 ロビーに着くと、いつかのように沙矢は暗証ナンバーを押し、オートロックを解除した。


「そういえば、うちに来るのは久し振りだね」


「そうだね。一年ぶりくらい?」


 自動扉をくぐり、右に曲がったところにあるエレベーターで十二階へと上がる。


 沙矢の家はエレベーターから一番近い所にあり、以前に沙矢が「近くて良かったよ」と言っていた。確かにエレベーターから最も遠ざかった部屋を見遣ると、ちょっと距離がある。そう思ったことを、まるで昨日のことのように思い出す。


 かちゃ、と沙矢はドアノブを回し、マンションの廊下の奥を見つめる私に声を掛けた。


「有来?」


「あ、ごめん。ぼんやりしてた」


 沙矢はドアを引き、先に私を玄関へと入れてくれた。


「ただいま」


「お邪魔します」


 靴を揃えて上がると、沙矢のお母さんが、ぱたぱたとスリッパの音を小さく立てて歩いて来た。


「あ、お母さん。有来も一緒なの」


「こんにちは、お邪魔します」


 私が頭を下げると、以前のように沙矢のお母さんは柔和な笑顔を見せた。


「有来ちゃん、久し振りね。今、ジュースとか用意するから、ゆっくりしていってね」


「あ、どうぞお構いなく」


「お母さん、昨日に買ったチョコチップクッキーが食べたいな」


 沙矢のリクエストに返事をしながら、沙矢のお母さんは居間へと戻って行った。


「有来、どうぞ」


 招かれるままに私は沙矢の部屋に足を踏み入れ、そっとドアを閉めた。一年ぶりに訪れた沙矢の部屋は少し様変わりしていて、以前よりも整然とした雰囲気を醸し出している。


「何だか、すっきりした部屋になったね」


 鞄を置き、くるりと部屋を見回しながら私は感想を述べた。机や本棚、チェスト、ベッドなどの位置は変わってはいないものの、辺りに沢山、並べられていた小物類などが姿を消していた。ベッドの上にあった、多くのぬいぐるみも見当たらない。


「うん、シンプルを目指してみました」


「私の部屋とは全然違うね。大人っぽい」


 私の部屋にはぬいぐるみが沢山あるし、アクセサリーケースやガラスの置物などが所狭しと並んでいる。


 そう告げると、


「それは可愛い部屋で良いじゃない。私の場合は、物がひしめき合っていただけだもの」


 と、沙矢は苦笑気味に言った。


「そんなこと無かったよ」


 答えながら、私はふと、机の上にノートパソコンが置かれているのが目に入った。


「沙矢、パソコン買ったの?」


「あ、買って貰ったんだ。どうしてもほしくて」


 ノートパソコンを広げ、


「何か見る?」


 と、沙矢は私に尋ねる。


 その時、控え気味に部屋のドアがノックされ、沙矢のお母さんが顔を出した。


「沙矢、テーブルを広げて」


「うん」


 部屋の片隅に置かれていた、折り畳み式の小さな丸いテーブルを沙矢が広げて行く。そして、沙矢のお母さんが、二人分のクッキーとジュースを置いた。私は、その一連の流れを、ぼうっと見つめていた。


「それじゃあ、ゆっくりしていってね」


「ありがとうございます」


 答える私に沙矢のお母さんは微笑み、部屋を出て行った。


「いつも、良いお母さんだね」


 思わず、私はそう洩らしていた。


「そうかな?」


 不思議そうに私の言葉に反応し、沙矢は私を見つめた。


「うん、良いお母さんだよ」


「ありがとう。あとで伝えておくよ。喜ぶと思う」


 沙矢は笑い、テーブルの前に座った。私もそれに倣うようにして沙矢の正面に座る。沙矢は私にお菓子とジュースを勧めて、ジュースを一口、飲んだ。


「いただきます」


 私もジュースを飲む。良く冷えた林檎ジュースは、喉を潤し、心地好く流れて行く。私がコップを置くと、それを待っていたかのように沙矢が口を開いた。そしてそれは、あまりに衝撃的過ぎる言葉だった。


「それにしてもびっくりしたよ。有来ってお付き合いしている方がいたんだね。それも、あんなに落ち着いた大人な人が」


「え?」


 私は驚き、沙矢の顔を見つめた。


「昨日、保健室に来てくれた人。お付き合いしてるんでしょ?」


「そんなこと無いけど」


 私が否定すると、沙矢は心底から驚いたようだった。クッキーを食べようと伸ばし掛けていた沙矢の手は止まり、私を凝視している。


「どうしたの、そんなに驚かなくても」


 見かねて私が声を掛けると、まるで時が止まっていたかのような沙矢が、もう一度、疑問を重ねて来た。


「お付き合い、していないの?」


「うん」


 私が短く肯定すると、沙矢は本当に驚愕したように、また、あるいは感嘆でもあるかのように、はあ、と溜め息をついた。今度は、それに私が驚いてしまう。


「私の勘違いだったのか」


 沙矢は、半ば独り言のように言った。そして、クッキーに伸ばし掛けていた手を動かし、一つをつまみ、口へと運ぶ。


「……あの、どうかしたの?」


 私が先程と同じような問い掛けをすると、沙矢は何かを考え込むように宙を見据えた。私は、そんな沙矢を見て不思議に思いながら、クッキーを一つ食べた。やがて沙矢は私に視線を戻し、直球的な質問をして来る。


「どうしてお付き合いしないの?」


「どうしてって……?」


 林檎ジュースを一口飲んでから、私は尋ねた。すると沙矢は私から視線を外すこと無く、かなり真剣な口調で話し掛けて来たのだ。


「言いたくなければ無理に言わなくて良いんだけどね。有来、あの人とのことについて何か悩んでいない?」


 私は、自分の目が僅かに見開かれるのを確かに感じた。


「あ、見当違いだったらごめんね」


 沙矢はそう付け加え、ジュースをごくごくと飲んだ。私は、沙矢に私の心の奥底を捉えられたような気がしていた。不安と緊張と、微かな期待に似た何かが入り混じって、どくどくと心臓が鼓動している。


「どうして、そう思ったの?」


 私は平静を装い、沙矢に尋ねた。沙矢が慧に会ったのは、二度だけだ。雨の日と、昨日と。雨の日は、挨拶程度に言葉を交わしただけ。昨日については分からないが、私が悩んでいるという現状まで把握出来る程の何かがあったとは思えない。まして私が、慧のことを沙矢に話したことは一度も無い。だからこそ沙矢の言葉は衝撃的で、鮮烈的だった。沙矢は不意にコップを置き、私を見て話し出す。


「私は、二人のことを知らないけど、有来を保健室に迎えに来てくれたあの人を見て、二人はお付き合いをしてるんだと思ったんだ。もしくは、それの少し手前か。それくらい、素敵な雰囲気だったの」


「素敵? 慧が?」


 私の問い掛けに、沙矢は微笑んだ。


「羽野慧さん、って方だったよね。あの人も素敵だけど、羽野さんと有来、二人が一緒に作っている雰囲気が素敵だったの」


「そう……?」


 私の曖昧な返事に沙矢は力強く頷き、言葉を続けた。


「すごく、素敵だった。優しくて、温かかったよ。有来は寝ていたから知らないと思うけど、羽野さんは、とても有来を心配していたよ」


 一度言葉を切り、更に沙矢は言った。


「有来を心から想っているのが、すごく良く伝わって来たの。羨ましいくらいに。だから有来がお付き合いしていないって言って、少しびっくりしたんだ」


 沙矢は残りのジュースを一息に飲み干し、クッキーを口に入れた。私はそんな沙矢の様子を目に映しながら、心ここに在らずだった。自分自身の気持ちと慧の気持ちを考え、そして今、沙矢の話を聞いて、色々な感情や考えが絡み合ってしまった。


「有来?」


 沙矢の声で私は現実に立ち戻り、視点を合わせた。


「あ、ごめん。あの、昨日、慧と何か話したの?」


 私は、先程から少し気になっていたことを、思い切って尋ねてみた。もしかしたら慧と話して、沙矢は何か察するものがあったのかも知れないと。


 沙矢はそんな私に、


「何って程じゃないけどね、ちょっとだけ」


 と言い、言葉を続けた。


「私が保健室で先生といたらね、羽野さんが保健室にノックをして入って来たの。ちょっと息を切らして。それでね、『都筑有来さんの幼なじみで、羽野慧と言います。有来さんから電話を貰って、こちらに参りました』って。礼儀正しくて、大人だなあって思ったんだ」


 まるで夢みる少女のような、少しだけぽわんとした目で沙矢は語り、更に言葉を紡いで行く。


「保健の先生がね、保健だよりの原稿が書けたから職員室に置いて来るって言って、その時に私は羽野さんと二人になって話をしたの。先生はすぐに戻って来たから、ほんの五分くらいだけど」


 私は、思わず唾液を飲み込んだ。一体、慧は沙矢に何を言ったのだろうかと気に掛かる。話の続きを待ち望む私の心境を知ってか知らずか、沙矢はクッキーを一つ食べて、小さく息をついた。


「どうして有来が倒れたのかとか、私が先生に知らせてくれたのかとか、そういうことを尋ねられて、お礼を言われたの。その後、『友達でいてくれてありがとう』って」


「え、それは慧が?」


 沙矢は私の問いを肯定し、


「その言い方が、本当に有来が大切で大事なんだって思わせる雰囲気でいっぱいだったの。だから私は、有来と羽野さんはお互いに大切な人同士なんだなって思ったんだ」


 と、付け加えた。


 私は驚きを隠せなかった。慧が沙矢にそんなことを言っていたなんてと、動揺もし、戸惑いを覚えた。


 それが沙矢にも伝わったのだろう、


「まあ、クッキーでも食べて」


 と、沙矢は明るい声で告げて、お皿を差し出した。


 私は勧められるままにチョコレートクッキーを一つ口に入れたものの、あまりおいしさは感じられず、薄められたチョコレートを味わっているかのような感覚を得ていた。


 部屋には少しばかりの間、沈黙が流れた。しかし、やがて沙矢がそれを遠慮がちな雰囲気で、しかし確実に壊し、私を見る。


「有来は、羽野さんのことは好きじゃないの?」


 ぽつり、と沙矢は静かな声を落とした。それは、私にクッキーを勧めてくれた時とは全く対照的な声音だった。私は、あまりに核心を突いたその質問に、思わず目を伏せる。口の中が渇いていたので、私はコップに手を伸ばし、ゆっくりと残りの林檎ジュースを飲み干した。その渇きがクッキーのせいだけでは無いであろうことを思いながら。私がコップを置くと、沙矢は質問を繰り返した。


「ねえ、有来は羽野さんが嫌い?」


「……嫌い、では無いけど」


 私は、俯いたまま答えた。すると、知らず知らずの間に握り締められていた自分の両の拳が目に入り、そして、手の内側にうっすらと汗を掻いていることに気が付いた。心の奥底でざわざわと鳴る音が、私の耳に届けられている。それは、木々が風に揺られて生じる音に似ていた。私が黙っていると、沙矢は申し訳無さそうに言った。


「ごめんね、余計なことを言っているかもしれないけど。でも、心配になっちゃって」


 顔を上げると、かちりと沙矢と目が合う。私には沙矢の目が、優しい、そして少し悲しそうなものに見えた。


「羽野さんが一方的に有来を想っているって感じでは無かったんだよね。有来は寝ていたし、それは私の、ただの勘でしか無いから、否定されたらそれまでだけど。私が二人を見たのは、昨日と、あとは雨の日の二回だけだし」


 ちょっとだけ笑って見せた沙矢は、すぐに真面目な顔になって告げた。


「でも、有来は倒れた時に羽野さんに電話をしたんでしょ? だから羽野さんが来たんだよね?」


「うん……」


「それって、有来が一番、羽野さんを頼りにしていたってことじゃないのかな」


 私は、また僅かに俯き、今の沙矢の言葉を何度も頭の中で反芻した。そうする意思があったわけでは無いのだが、まるで必然のように、沙矢の言葉が何度も何度も私の中で繰り返されていた。言葉が、廻る。


「もし良かったら、話してくれないかなと思って。何か有来が困っているなら」


「でも……」


 特に意味の無い、逆接の言葉が私の口から紡がれる。それは私の動揺と、沙矢の申し出に対しての拒絶を端的に表した二文字だった。そして、意図的に発したわけではなく、私は、するりとそれを口に乗せていた。その事実は、私の動揺と拒絶の強さを証明していた。沙矢に打ち明けることへの期待が、全く無かったわけでは無い。この心の中を打ち明け、相談し、理解して貰えたら、きっと少なからず私の気持ちは軽くなるだろうと思った。けれど私は、私の話したことに対して否定をされることが怖かった。沙矢に拒まれることが、怖かった。


 四年前、慧に否定された時のことは私から未だ消えず、むしろ時が経てば経つ程に、私の心にきつく刻まれて行った。「結局は理解されない」という事実が私を蹂躙し続け、私を疲弊へと追い込んでいた。沙矢の言葉に嘘はなくとも、私の話を聞いて信じてくれるとは思えず、また、信じて貰えなかった時のことを思い、やがて私は心を閉じた。顔を上げて告げる。


「ごめん」


 私の言葉に、沙矢は僅かに悲しそうに表情を歪めた。私はそれを見て、もう一度、同じ言葉を重ねた。


 すると、沙矢は突然立ち上がり、勉強机の前の椅子を引き、腰掛けた。そして、慣れた動作で机の上のノートパソコンを起動させ、画面を見つめたまま私に尋ねる。


「まだ少し時間、大丈夫?」


 鞄から携帯電話を取り出し、時間を見ると、ウインドウには十八時五分と表示されていた。慧からのメールは、まだ届いていなかった。


「うん、七時くらいまでなら」


 私の言葉に返事を返しつつ、沙矢はかたかたと何かを打ち込んでいた。私は沙矢を見上げながら、その様子を窺う。それしか、私には出来無かったのかもしれない。


 しばらくして沙矢は立ち上がり、


「ジュースのおかわり持って来るね。良かったら、その間、ネットでも見てて」


 と、私に告げ、コップを持って部屋を出て行った。


 私はそれを見届けた後、開かれたノートパソコンに目を遣った。立ち上がり、椅子に腰掛ける。ほんの、時間潰しのつもりだった。沙矢が戻って来る数分の間の、暇潰し。私は軽い気持ちで、パソコンの画面を眺めた。そして、強い驚愕を覚えることになる。そのまま、目を逸らすことが出来ず、私はそこにある記事を読み進めた。時々、あまりの驚きに続きを読むことを躊躇いながらも、私はそれを放棄することは出来無かった。


 量的には少なく、難しい言い回しも無いそれは、あっと言う間に読み終わってしまった。私は、一番下まで送ったスクロールをそのままに、目に入る範囲での文章を読み返す。そうしながら、この数分の間に得た信じ難い情報を懸命に整理し、出来得る限り頭の中で検証した。だが、ここに書かれていることが本当だとしたらと考えると、私の心はますます混乱を極め、情報の整理もままならなかった。


 驚愕と混乱と、疑惑と期待。そして、否定と肯定。様々な感情と心情が複雑に入り乱れ、私を侵した。けれども、ただひたすらに、私は画面に表示された文章を繰り返し繰り返し読み、そしてまた何度も何度も思考を繰り返した。その時、それを破るかのように、部屋のドアが開かれて沙矢が入って来た。沙矢はジュースで満たされた二つのコップを静かにテーブルに置き、私の隣に立った。私は複雑な心のまま、沙矢を見上げる。何かを尋ねたいのに、それが出来無い私は、開き掛けた口を再び閉ざしてしまった。

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