第五章【呼応】1
翌日の朝。髪をブローしている時、携帯電話がピアノ音を奏でた。メールの着信を知らせる音だ。ドライヤーを止め、私は携帯電話を開く。慧からのメールだった。
――今日の放課後、数学の講習があるから、家に帰るのが夜の七時くらいになると思う。ごめん、うっかりしてた。時間、大丈夫?
私は、少し緊張を覚えながら返事を書いた。慧にメールを書くのは、かなり久し振りだ。
――うん、大丈夫。家に着いたらメールくれる?
送信ボタンを押すと、水色のドレスを着た小さな女の子が表示される。「送信中だよー」と言い、両手を万歳しながら、ぴょんぴょんとジャンプしている。
私は、このメール送信動画が気に入っていた。以前に姫君に見せた時、姫君も気に入った様子を見せていたことを覚えている。
『私の方が気品はあるわね』
なんて言いながらも、私がメールを書いていると、
『メール、送るの?』
と、何か期待したように尋ねて来たことが何度かあった。
私は懐かしくなり、思わず小さな笑いが洩れた。すると、再び携帯電話がピアノの音色を奏で、慧からの簡潔な返信が届けられた。
――分かった。
携帯電話を閉じ、背面ディスプレイを見ると、午前七時三十五分と出ていた。私は髪を整え、リップクリームを塗り、通学鞄を持つ。鏡に映った私は、心なしかすっきりとした表情をしていた。 きっと、今日、結着が付くせいだろう。どんな形になるにしろ、私と慧は今日、変化する。
「四年越しか……」
私は、思わず呟いた。四年という数字は、長いような短いような不思議な感覚だった。しかし、いざ終わりを迎えるとなると、短かったように思う。もし、姫君を失ったように慧をも失うとしたら、私は、その後、どうしたら良いのだろう。一人で、ちゃんと立って歩いて行けるのだろうか?
結局、私は、自ら慧と距離を置きながらも、心のどこかで慧を頼りにし続けていたのだと知った。それは自分の都合で慧を遠ざけた私の、限り無く汚れた部分だった。慧の心より自分の心を大切にし、慧を自分にとって一番適度な距離に配置した、私の自分勝手な欲望だった。
今日の夜、私は、どんな風に慧と話をするのだろう。慧は、どんな風に私の話を聞いてくれるのだろうか。そして私達二人は、どう変わるのだろう。不安と、僅かな期待のような何かが私を押し包む。私は、一つ大きく深呼吸をし、部屋の扉を開けた。
――今日は期末試験の二日目。正直なところ、今回はあまり試験勉強らしい試験勉強は出来ていなかった。全く分からない、お手上げという試験科目は今の時点では無いものの、確実に今までより点数も順位も落ちるだろうことが予想された。今までの私なら、とても耐えられないことだった。
私は、学校の授業は完璧に理解するよう努め、疑問があれば早い内に教師に質問をした。参考書を買い、先取り先取りで勉強を進めた。それは、小学校四年生から続けて来た私の習慣だった。思えばのことだが、おそらく早く大人になりたいがゆえの心の顕れだったのだろう。とにかく色々なことを知り、知識を蓄えて行くことくらいしか、私には大人になる為に必要なことが分からなかったとも言える。別に勉強自体が楽しいわけでは無かったし、地理や体育、理科の第一分野など、苦手科目だってあった。ただ、私には勉強を頑張って行くことでしか、未来を見出す方法が分からなかった。今も、それは変わらない。
特に、小学校四年生の当時は、大人になれば、今、抱えている問題の全てがクリアになるという、何の根拠も無い確信を私は抱いていた。さすがに今はそうは思わないし、それが如何に儚い願いで、ただの希望、願望でしか無かったかということが良く分かる。けれども当時の私の、そう思わざるを得なかった心境というのは理解出来た。
子供だから、大人に従わなければならない。子供で世間知らずだから、沢山の知識や経験を持つ大人に付いて行かなくてはならない。納得が行かない環境も、子供だから我慢するしかない。何かを変えたくても、その力が今の自分には無い。全ては「子供だから」受け入れなければならず、それしか選択肢は存在しなかった。
だから「大人になれば」全てがクリアになると、極端な発想に傾いたのだろう。それだけ抑圧されていたのだ、小さな私は。そして、勉強を懸命にするようになった。それは、ちょっと整理をしてみればすぐに分かる、非常に簡単な図式だった。
「はい、書くのをやめて。後ろから答案用紙を集めてください」
教師がそう告げるとほぼ同時に、今日、最後の試験時間終了を知らせるチャイムが鳴った。手元の解答用紙の表裏を一瞥したところ、とりあえず空欄は無かった。
音楽の期末試験は、毎回、何だか微妙だと感じる問題が多い。今回、それに当て嵌まったのは、解答用紙の裏に、たった一つだけ設けられた問いだ。
――音楽史に関わる一人の人物の名を挙げ、それについて書け。
そして黒線で大きく囲いがあり、そこに解答せよというわけである。しかも配点が百点満点中の四十点と、全体の四十パーセントを占める割合だ。こんなにもアバウトな問題を出すこと自体に加え、それに四十点も割り振ってしまって良いのだろうかと私は疑問に思った。中学校二年生ということを踏まえれば、ベートーヴェンとかショパンとか、名前は知っていても人物自体については詳しく知らない人の方が多いのではないだろうか。授業で学んだというのならまだしも、そんな事実は無い。私は音楽教師の心を疑った。
しかし、それはまた別問題として置いておいて、私はモーツァルトについて書いた。解答用紙に文字枠はなかったが、かなり解答スペースが広く設けられていたので、知識をアピールする為、加えて字数を稼ぐ為にも、
「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト」
と、人物名を記載した。
「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、古典派音楽の代表であり、ウィーン古典派三大巨匠の一人である」
と、書き出し、以下、ずらずらとモーツァルトに纏わる知識で解答用紙を埋め尽くした。以前に音楽の自習で観た「アマデウス」という映画の影響で、その後、私はモーツァルトについて詳しく調べていた。もともと音楽史は嫌いではなく、「アマデウス」を観た後だったので余計にモーツァルトに親近感が湧き、知識を蓄積するに至ったというわけだ。思わぬところで役に立った知識と知識欲に感謝をしながら、私は解答用紙を提出した。
勉強は、きっと重要だ。知識も知識欲も大切なものだと思う。知らないことが沢山ある現実は楽しくて、知って行く喜びがある。そうして私の中に積もって行く知識は、確実に私の糧になり、素養になり、武器になって行くだろう。大人になる為の階段の一つとして、「学ぶこと」はとても大事なことに違いない。
私は、今まで沢山のことを学んで来たつもりだった。学校の勉強は勿論、図鑑を眺め、文学小説を読み、教養や一般常識も多く取り入れて来た。客観的に見ても、同学年のクラスメイト達より知識的に秀でていると思う。
しかし、私は、一番近くにいて一番私を支えてくれた慧を踏みにじり続けて来た。慧の心を傷付け続けて来たのだ。その私の姿は世界中の誰より劣悪で、救いようが無いように思える。昨日の夜、私はそれにはっきりと気が付いてしまった。気付かされた、というのが正しいのかもしれない。そして私は、今まで何を見つめて何を学んで来たのかを激しく疑問に思い、自分自身の行動の残酷さを呪った。
全くの無自覚だったわけでは無い。距離を置きたいと慧に告げた時、慧がどう思ったかを少しも察せない程、私は鈍感でも愚かでも無かった。しかし、私は慧の気持ちを知った後も、それでも尚、慧に背を向け続けた。その距離は私にとって、私が振り向けば慧の姿が捉えられる距離だった。それは私が慧を諦め切れず、慧を完全には遠ざけられなかった結果だと思った。今、改めて私は思う。本当に、その通りだと。
しかし、私が振り向けば慧に会えたのは、他ならぬ慧が、私を追い掛けてくれていたからだ。四年もの間、慧が私を諦めないでいてくれたからだ。その事実に触れた私は、今日、どうすれば良いのだろう。どうすべきなのだろう。
私は昨日の夜に慧と別れてから、幾度も考えを巡らせていた。けれども答えは出なかった。ただ、慧の真剣な言葉が、慧の優しい声が、耳からも脳からも離れなかった。手を繋いだ時に伝わった慧の体温と心が、見上げた綺麗な星空が、頭から離れなかった。何一つ忘れられなかった。長い間、封じ込めていた私の想いと記憶が、昨日のたった一時間程で、急速に溢れ出していることを感じた。溶けるはずも無かった氷山が、突如として陽光に晒され、目に見えるスピードで溶けて行っているようだった。私は悲しい程に悩んだ。いっそ泣いてしまいたいくらいに。だが、泣いたところで何も解決などしないだろう。
慧と小さな姫君が、私に手を差し出しているのが見えたから。どちらかしか選べないことが、私には分かっていたから。
「有来。一緒に帰らない?」
教室の扉を開けると、沙矢が廊下の壁に寄り掛かって立っていた。そして、私を認めると軽く片手を上げて見せる。私は嬉しくなり、それに笑顔で答えた。
「うん、一緒に帰ろう」
私達は並んで廊下を歩き始めた。私は昨日のことを謝ろうと思ったが、その矢先、沙矢が口を開いた。
「ねえ、昨日、大丈夫だった? ちゃんと帰れた?」
心配そうに私を見る沙矢に、私は明るく告げた。
「うん、大丈夫。ごめんね。心配掛けて」
沙矢は私の言葉を受けて、少し、ほっとした顔付きを見せた。その瞬間、私は心が温かくなったことを感じる。
「もう頭は痛くないの?」
「うん、平気」
昇降口を出て正門へと向かいつつ、私達は期末試験の内容などについて話をした。それは中学校二年生の日常らしい日常で、一週間、学校を休んだ私にとっては、若干だが懐かしいような新鮮なような印象を受けた。それだけ、休んでいた間の私は日常的な時間から切り離されていた――自己を通常の現実から切り離していたのかもしれない。
「あ、有来。今日、時間ある?」
期末試験についての話が一段落したところで、沙矢が尋ねた。
「今日?」
「うん。良かったら、ちょっと私の家でお茶でもどうかなーって。明日は試験最終日だけど、保健体育とかが集まってるし」
大丈夫じゃない? と言外に告げ、沙矢は私を見た。
「そうだね。でも、お邪魔して良いの?」
慧との約束は夜七時くらいだから、それまでなら大丈夫だ。そう考えつつ、私は頭によぎった慧との約束を思い、不安が蘇って来るのを感じた。そして慧を前にして、私はうまく話すことが出来るのかどうかと、今から緊張が生じたことを自覚する。
「勿論だよ」
「ありがとう、行く」
「じゃあ、このままうちにおいでよ」
明るい沙矢の声が耳に届き、私は一旦、その不安に蓋をして頷いた。
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