第四章【痛み】2
「起きた?」
耳慣れた声が私に届き、ぼやけた視界が、ほどなくはっきりとした世界を映し始める。
「慧?」
私は起き上がり、辺りを見回した。
「廊下で倒れたんだよ。ここは保健室」
その時、周囲を囲んでいた真っ白なカーテンが開かれた。
「あ、気が付いたのね。都筑さん、廊下で突然、倒れたみたいよ。お友達が知らせてくれたの」
私は、次第に覚醒して行く頭の中で次々と思い出していた。急な頭痛に倒れた私の為に、沙矢が教師を呼びに行ってくれたこと。そして、確か慧に電話をした。しかし、何を話したかは思い出せ無かった。
「もう遅いからお友達には帰って貰ったの。具合は大丈夫? 帰れる?」
「大丈夫です、帰れます」
私は掛け布団をどけて、ベッドから下りる。
「それにしても急に倒れるなんて……。一度、ちゃんと病院に行った方が良いと思うわ。顔色も良くなかったし」
私は曖昧に返事をし、鞄を手に持った。
「どうもありがとうございました」
「気を付けて帰ってね」
保健室の扉を開けた時、視界の隅で、保健教諭に会釈をしている慧が見えた。私は開けた扉はそのままに、一人、廊下に出て昇降口への階段を上った。
「有来」
私の背中越しに、慧の声が響いた。靴を履いて立ち上がり、振り返ると、心配そうな、それでいて少し怒ったような顔付きをした慧が、私を見ている。慧が何か言うよりも先に、私は口を開いた。
「高校はどうしたの?」
慧は、何故か溜め息をついて下を向いた。
「早退した」
慧は、すたすたと早足に歩き、素早く私の目の前まで来ると、その腕を伸ばして私の頭に手を置いた。そして、先程よりも深く長い溜め息を洩らす。
「良かった」
そう短く告げ、慧は私の頭から手を離した。
そして黙々と靴を履くと、
「帰ろう」
と、私の先に立って振り返った。私は声も無く頷き、慧の後を追った。
外はもう暗く、正門前にある時計は午後六時を回っていた。秋は夏に比べて格段に日が落ちるのが早く、辺りが薄闇に包まれるのも、あっと言う間だった。私の好きな夕方は、もう、とうに終わってしまっている。オレンジ色の光はかけらさえも見付けられない。
私は、慧の半歩後ろを俯き加減に歩いた。私と慧の影はうっすらと道の上に映し出され、音も無く揺れている。それが何故か、私には悲しそうに見えた。正門を出てしばらく歩いたところで、慧が振り返り、立ち止まる。
「どうしてそんなに離れて歩くの?」
いつの間にか、私と慧の間は五歩分くらいの距離が空いていた。
私が歩みを止めたまま黙っていると、
「理由が無いなら、隣を歩いてよ」
と、慧が言う。
その言葉に顔を上げると、少し困ったような顔をした慧と目が合った。私は僅かに躊躇い、一歩ずつ、ゆっくりと慧の隣に向かって歩いた。私が慧の左隣に並ぶと、慧は笑顔を見せ、また歩き出す。私も、それに倣うように歩いた。
もう辺りに下校中の生徒の姿は無く、見上げれば幾つかの星が小さく光っていた。人の姿もまばらで、辺りには私と慧、二人の足音が、こつこつと響いている。私は、その音に耳を傾けながら歩いた。さらさらと、秋の夕暮れに相応しい風が吹き抜ける。そして、生み出された葉ずれの涼しげな音が、私にきっかけを与えた。
「あの、ごめんね」
「何が?」
私は、俯いたまま続けた。
「電話して、ごめん。それで来てくれたんでしょ?」
「ああ、まあね」
歩きながら、私は、そっと慧の横顔を見上げた。けれども、街灯がまばらな薄暗い道では表情は良く見えず、また、その心を窺い知ることも出来無かった。慧の声は怒っているようでは無かったが、淡々と、ただ言葉を発しているような冷たい響きを含んでいた。私は、それ以上に言葉を紡ぐことが出来ず、再び下を向いて歩いた。
二人分の靴音が響き続ける。メトロノームのような規則正しさを思わせるその音は、静かに私を責めているようだった。やがて、押しボタン式の横断歩道に差し掛かり、慧がボタンを押す。私達は無言のまま、信号が変わるのを待った。その沈黙の空間は重く、一秒がとても長く、苦しく感じられた。青信号に変わった瞬間、慧は一歩を踏み出し、私もそれに続く。
私は、慧に謝らなければならない。心配を掛け、中学校まで来て貰ってしまったことを。そして、ずっと慧の好意を踏みにじり続けていることを。
四年前、お互いの気持ちが同じだと分かってからは、今までよりも、一層、慧と過ごす時間が大切になった。慧が私に優しくしてくれることが嬉しく、私と一緒にいて笑ってくれる慧を見て、幸せだった。その大切な二人の時間を、私の一方的な理由で壊してしまった。それなのに今でも慧は私を心配し、気遣ってくれる。
初めは、ただ「距離を置きたい」と慧に告げ、言葉通り私は慧と距離を置いた。やがて一緒の時間を過ごすことは無くなり、メールと電話をする頻度は劇的に下がった。私が意図的に慧との接触を減らして行った。けれど、慧は変わらず、優しかった。メールでも私のことを気遣い、電話口の声も温かいままだった。
私達は、「付き合っている」という関係にあったことは無い。少なくとも私は、そう考えている。当時、私が小学校四年生だったこともあり、恋愛に対する知識に欠けていたことも要因の一つではないかと思う。そして、やがて私がそういったことを知るより前に、私が慧と距離を置き始めた。先日は、「慧よりも姫君を大切にしたい」ということ同然の発言をした。それでも、こうして慧は私の隣を歩いてくれる。高校を早退し、私の中学校まで来てくれる。
私がしていることは最低だと思った。姫君が大切だと言っておきながら、結局、慧を諦め切れていない。そして自分の都合が良い時にだけ、慧に寄り掛かり、頼り、甘えている。
「慧」
私は立ち止まり、慧をまっすぐに見た。辺りに街灯は少なく、振り返った慧の顔は、やはり良く見えなかった。
「今日は、ごめんなさい」
先程よりも、はっきりと謝ることが出来た。けれど、それに続けるべき心を、どう言い表せば良いのか悩んだ。私は、もう慧に頼っていてはいけない。慧の温かさを踏み付けている自分自身も嫌だった。そして何より、誰より、慧が苦しいはず。もうここで、終わりにするべきだ。
「今まで迷惑を掛けて、本当にごめんなさい。それで、これからはもう、無いようにするから」
「何が?」
まるで感情を含んでいないかのような慧の問い掛けに、私は臆しながらも答えた。
「もう慧に迷惑は掛けない。一人で大丈夫だから」
言ってしまってから、少し鼓動が早まるのを感じた。どうしてだかは分からない。ただ、胸の辺りが苦しくなって行くのは気のせいでは無いと思った。
やがて、しばらく黙ったまま私を見ていた慧は、突然、私に歩み寄った。私と慧の間には、半歩の距離も無くなる。驚いて私が慧を見上げると、とても間近に慧の目があった。こんなにも近くで慧の目を見たことは初めてかもしれない。吸い込まれるような感覚で以てそれを見ていると、慧は私の頭の輪郭をなぞるように片手をゆっくりと滑らせ、移動させる。私の左頬で、その手を止める。
「慧、あの……」
私が口を開くと、慧は頬に置いた右手の親指で私の下唇を軽く押さえ、そのまま触れるように自分の唇を重ねた。起こった事実を私が完全に認識するよりも早く、慧の唇は既に私から離れていた。私は、慧から目が逸らせなかった。
「有来が、好きだ」
それは、いつかの夏の日に聞いた言葉だった。私の想いに応えてくれた、大切な慧からの大切な言葉。一瞬、季節が夏に後戻りし、二度と戻らないあの時間に再び包まれたかのような錯覚に陥る。深く濃い緑、強く光る日差し、蒸すような暑い空気。葉の影が揺れる木漏れ日の下、小さな木のベンチに並んで座っていた、あの日。優しい慧の笑顔、慧の声。
「有来?」
私は泣いていた。泣くつもりなど無かったのに、開いたままの目から、意思に反して勝手に涙が伝い落ちて行った。私の頭の中で、あの夏の慧と、今、目の前に立つ慧が、ゆっくりと重なって行く。思い出してはいけない気持ちが、閉じ込めたはずの心が、ゆるゆると箱の中から溢れ出して行く。そして、それとは反比例して、姫君の姿が遠ざかって行く。
「ごめん、私、一人で帰る」
私は慧から顔を逸らし、足早にその場を去ろうとした。しかし、それを慧が許さなかった。無言のまま慧は私の腕を掴み、離さない。私は、ひどく混乱した。そのせいか再び頭に痛みが走り始める。それは、学校で倒れる直前に感じた痛みと酷似していて、私は不安を覚えた。
「慧、離して」
「それでまた、逃げるの?」
返す慧の声は少し低く、明らかに怒気を含んでいた。
「四年前もそうだったよね。距離を置きたいって言って、俺から離れたよね。特に理由も無く」
私は、左手で涙を拭った。未だ涙は溢れ続けていた。
「それで先日、やっと理由らしい理由を言ったと思ったら、『姫君の為』だったね」
「やめて聞きたくない!」
私は、思わず大きな声を出していた。横を走り抜けた自転車に乗った人が、私達を振り返るのが見えた。けれど、そんなことに構ってなどいられなかった。
私には、慧がこれから何を言うかが分かっている。今までに二度、言われたことがあり、私はそれを否定し、泣いた。慧は、どちらの時も謝ってはくれたけれど、それは決して自分の否を認めて謝ったわけでは無かった。ただ、私が泣いたから謝っただけなのだ。
あれを、今、また慧は私に告げようとしている。走って逃げてしまいたかった。けれど、慧は私の腕を捕らえたままだ。
「お願い、言わないで……」
私は俯き、伝う涙もそのままに懇願した。頭が割れるように痛んだ。その時、私を掴む慧の手に、少し力が込められる。
「じゃあ、いつまで俺は待っていれば良い? 有来が望むならと思って、距離を置いた。一緒に過ごす時間も減らし、最後には皆無になった。その理由が『姫君の為』なんて」
「やめて!」
私は振り向き、叫んだ。慧を見つめる私の目から、また涙が伝う。慧は私の腕を離し、その手で自分の顔を隠すように覆った。しばらくの間、私達は黙ったまま立ち尽くしていた。
慧は、ずっと黙したまま、動かなかった。私はハンカチを出し、涙を拭う。時間にしてみれば数分の間だったかもしれない。そのたった数分で、私の頭の中は立て直しが利かない程に色々な思考や言葉が入り乱れ、混じり、混乱を極めた。頭の奥の方の痛みも治まらず、それが更に私の疲弊に拍車を掛けて止まなかった。
「有来」
唐突に名前を呼ばれ、私が戸惑い気味に顔を上げると、
「とりあえず歩こう」
と、慧が左手を差し出した。
私は驚き、出された手と慧の顔とを見比べた。
「嫌なら良いけど」
そう言う慧の声音は先程とは違い、いっそ切ない程に優しく響いた。私は、もう一度ハンカチで涙を吸い取り、慧の手に自分の手を重ねた。その瞬間、慧が笑ったように見えた。辺りは薄暗く、はっきりとはその表情は窺えないものの、私にはそう見えたのだ。それは、姿の見えない姫君が笑うと、その笑顔が私には見えたような気がした、その時の感覚に似ていた。
「じゃ、行こう」
私の手を引く慧の手は温かく、私は、また零れそうになる涙を堪えて頷いた。いつの間にか、頭痛は嘘のように消え去っていた。辺りはすっかり暗くなり、所々に、ぽつぽつとある街灯がぼんやりと光っているのが見える。高く遠い夜空には、先程よりも沢山の星がメレダイヤのように小さく輝き、何度も瞬いている。
空を見上げながら歩く私に気が付いたのか、
「今日は星が良く見えるね」
と、慧が言った。
「うん、綺麗だね」
私は、空から視線を外さないままに答えた。遠くで輝き続ける星々は本当に綺麗で、私は久し振りに夜空を見た気がした。星の光を見ながら、繋がれた手に意識を馳せると、何故だか胸が苦しくなった。 伝わって来る慧の体温が、そのまま慧の優しさそのもののようで、私は、この手を繋いだままで良いのかどうか迷っていた。
本当は今日、慧に別れを伝えるつもりだった。付き合っているわけでは無いのだから、「別れ」というのも、おかしな話かもしれないけれど。
これ以上、慧に甘え、頼りにしていてはいけないと思った。先日、慧の部屋で自分の気持ちを整理し、伝えたつもりだったが、結局、私はこうして慧を頼っている。慧を諦め切れないでいる。一方的な理由で慧を避け続け、慧の好意を踏みにじり続けた私には、今、こうして慧と手を繋ぐ資格など無いと思った。けれど、慧が手を差し出してくれた時、私は紛れもなく嬉しかったのだ。それこそ涙が出そうなくらいに。そして、慧の手に自分の手を重ねた瞬間、温かくて優しい慧の心に触れた気がした。それは、四年前、慧と一緒にいた時に感じた温かさと同じだった。
それでも、私はこの手を離さなければならない。そうしなければ姫君は帰って来ない。私にはそれが耐えられないし、彼女が戻らない限り、私は自分自身を許すことが出来無い。私一人、幸せにはなれない。なるわけにはいかない。
「あのさ」
慧が、少しだけ繋ぐ手に力を込めて話し掛けて来た。私は、星空から慧へ視線を移す。
「大事な話がある」
「何?」
私は、慧の真意を薄々感じ取りつつ、それでも敢えて尋ねた。それは、私の予測が裏切られることへの期待だったのかもしれない。しかし私の予想は見事に的中し、また、慧の真意はそればかりでは無かった。
「俺と付き合ってほしい。そしてもし、それを断るなら、『姫君の為』っていう理由以外にしてくれ」
私は、すぐには言葉を見付け出すことが出来無かった。
「それと、姫君に関することで俺に隠していることがあるはずだ。それを嘘偽り無く話してほしい」
私は言葉を探し、思考した。けれども言葉は何一つ見付からず、気が付けば私は慧から視線を逃がしていた。こつこつと夜道に響く二人分の足音は、自然に私の鼓動と繋がる。自分の靴の先を見つめつつ、私は、ただ言葉を探し続けた。すると、不意に頭上で小さく慧の笑い声が聞こえた。見上げると、慧と目が合う。
「正直だな、有来は。誤魔化したいのなら、何も隠していないとか、すぐに言い返せば良かったのに」
私は、はっとしたが、もう後の祭りだった。沈黙では、確かに、「隠していることがある」ことを肯定してしまったようなものである。
「有来に隠し事は無理だよ」
告げて、慧はまた小さく笑う。
私は本当に後悔したが、時は既に遅かった。そして私は、心が迷い始めたことを感じる。どんな形であれ、私と慧は今とは違う形にならなければいけないのだ。たとえば、慧が言ってくれた言葉を受け入れ、慧と付き合う私。たとえば、慧の言葉を否定し、慧とは付き合わない私。
今のままの私達二人は非常に不安定で、非常に残酷な関係だった。慧は私を求め、それを遮る「小さな姫君」について話を持ち出しては、私を傷付ける。私は慧の気持ちを知りながら拒絶し、けれど拒絶し切れずに慧を頼ってしまう。お互いに、もう限界が来ているはずだと思った。
やがて公園の前まで来た私達は、どちらからともなく足を止めた。右手には私の家が見え、左手奥には慧の家がある。そこは二人の別れ道だった。
「明日、言う」
私は慧の顔を見上げて告げた。公園の周囲は街灯に囲まれており、今度は慧の表情をはっきりと見ることが出来た。
何を? というような顔をされたので、
「付き合うとか付き合わないとか。あと、隠してること」
と、私は思い切って言った。
本音を言えば、全てを話したいわけでは無かった。けれども、そうしなければ、私達はずっと前に進めないままだ。まるでメビウスの輪の中を歩いているかのような、同じ時間をぐるぐると廻り続けているかのような。この心情から、この状況から、いつまでも抜け出せないままだ。
「やっぱり。じゃあ、先日に俺の部屋で言ったこと以外に何かあるってことだろう。距離を置いた理由が」
「うん……」
私の返事に、慧は大仰に溜め息をつく。
「ごめんなさい」
謝ってはみたものの、私自身、何に対して謝罪しているのか良く分からなかった。
そんな私の心情を見抜いたかのように、
「自分でもどうして謝っているか分かってないんじゃないのか」
と、慧が呆れたように言う。私も慧も苦笑気味に笑った。
「じゃあ、帰るね」
「ああ、明日な」
念を押すような慧の言葉が少し怖かったが、見上げた先の慧の顔は笑顔だったので、私も自然に笑顔になった。繋いでいた手をそっと離すと、途端に慧が遠ざかったように思う。
家に向かう途中で振り返ると、慧は公園の入り口に立ったまま、私を見送ってくれていた。慧が、微かに手を振ったのが見え、私も小さく手を振った。
家の目の前まで来た時に振り返ると、慧が公園の中を歩いて行くのが見えた。私は明日が怖いような、何かを期待しているような、複雑な心境で家の扉を開けた。
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