第四章【痛み】1

『有来は、あの人が好きなの?』


『有来が幸せなら、良いわ』


 あの暑い夏の日、小さな姫君は私に言った。私が幸せなら、良いと。


 けれども、姫君が少し寂しそうにしたような気がして、


「姫君も大好きだよ」


 と、私は告げた。


 私は姫君のおかげで、慧への気持ちに気が付いた。それは幼く淡い恋心だったのかもしれないが、私にとっては柔らかな光のような、大切な心だった。しばらく後に私は慧に想いを伝え、慧も同じ気持ちだったことを知る。私は幸せだった。初めて自分を認めて貰えたようで、自分を見付けて貰えたようで。そして、姫君も私の幸せを一緒に喜んでくれた。


『最近、有来が嬉しそうだから、私も嬉しいわ』


『ねえ、有来。良かったわね』


『明日も、有来が幸せでありますように』


 偽りだとは思えなかった。姫君は心から私を祝福し、包み込んでくれていると思っていた。しかしながら、今、思うと、以前の私のように彼女も無理をしていたのかもしれない。嫌われないように、不快にさせないように、気を遣っていたのかもしれない。私は、それに気付くことが出来無かった。


 決して姫君を蔑ろにしたわけでは無かった。でも、慧に想いを伝えてからは、私は慧のことばかりを考えていた気がする。退屈な学校も、悲しみしかない家も、慧のことを考えれば気にならなかった。慧が私に幸せを与えてくれた。そうやって彼から幸福を享受し始めた私は、それ以前に私に光を与えてくれていた、彼女の――姫君の存在を少しずつ忘れて行ったのかもしれない。


 いや、忘れて行くという表現は的確ではない。ただ、時間の経過や環境や現状の変化によって、人が少しずつ心情の変化を受けるようにして、私は僅かずつではあるが、絶対的に姫君の存在を必要としなくなって行ったのかもしれない。それが、緩やかな忘却に結果として繋がったのだろう。どちらにしろ、彼女にとって残酷な仕打ちを、私はしたのだ。自然と私から姫君に話し掛ける回数が減り、姫君のことを考える時間が減って行く。時々の会話のほとんどが、姫君から話し掛けて生まれるものだった。


 当時の私は、それに気が付いていなかった。会話が減ったことにも、姫君が悲しんでいたことにも。私を支えてくれた姫君は、私が慧への気持ちを自覚した日から、少しずつ変化して行った。今までよりも口数が減り、少しばかりきつい口調になることが増えた。しかし、それらは思い返してみればの話であり、当時の私は本当に鈍感だった。慧を好きだという心が、姫君への注意を削り取っていたに違いない。また、姫君の変化も、私に悟らせないかの如く、本当に少しずつ、少しずつだった。冷たい氷が、ゆっくりと溶けて行くように。液体となった姫君の心が零れて行く音に、私は耳を傾けることが出来無かった。手のひらで受け止めることが出来無かった。


『ねえ、有来は今、幸せ?』


『私と出会った時より、幸せ?』


『私の方が、あの人よりもずっと前に有来に会っているのよ。ずっと一緒だったの。有来が覚えていなくても』


 姫君は、慧に嫉妬していたのだろうか。あるいは私の心が慧に傾き、姫君を振り返ることが減って行くことを悲しんでいたのか。それでも、ずっと私といてくれた。小学校四年生の夏が終わり、秋が終わり、冬が終わっても。私が小学校五年生に進級しても。また季節がひと巡りし、小学校六年生になっても。


 ――そして、初めて姫君が本当に怒りという感情を露わにしたのは、私が小学校六年生の夏休みの時だった。


 当時、高校一年生だった慧が、友人と二泊三日で北海道に旅行に出掛けた。事前に聞いていた私は、冗談半分でお土産を頼んでいたのだ。いつもの笑顔で頷いた慧だったが、本当に買って来てくれるとは思わず、かなり驚いた記憶がある。


「失礼な奴だな」


 と、慧は笑いながら私にお土産を手渡してくれた。


 そのお土産の量が多いことに、また私は驚き、感激した。慧の部屋に二人で座って、次々と包装紙を開く。深く青い色をした丸いガラス製のトップが付いたペンダント、ラベンダー畑のポストカード、ラベンダーの石鹸、ラベンダーのポプリ、ラベンダーの栞。可愛いきつねがプリントされた巾着に、ぎっしり詰まったバター飴。そして、ガラス瓶に入った小さな二つの、まりも。私は本当にびっくりしてしまった。


「これ、全部?」


 と、思わず聞いてしまった程に。


 慧は少し得意そうに笑い、


「そう。全部、有来の」


 と、告げる。


 私は、その場で泣いてしまった。涙が次々と流れて落ちた。慧が心配そうに私に声を掛け、体を支えるように手を添える。それがまた嬉しくて、私は余計に泣いた。私は、慧の優しさが心から嬉しかったのだ。それは涙が溢れる程に。こんなに嬉しいことがあって良いのだろうかと思った。自分以外の人が、私を大切に想ってくれる。そして、私のことを想いながらお土産を選んで買って来てくれた、その事実。私の小さな胸を打つには、有り余る程の感動だった。


 やがて涙が止まり、落ち着いた頃、私は慧にお礼を言った。慧は私の頭に軽く手を置いた後、きつく抱き締めてくれた。私は、その温かさと強さにひどく安心し、心がそれ以前よりも落ち着いたことを覚えている。


 ――その日、家に帰った私に、姫君が話し掛けて来た。


『ねえ、お土産、貰うと嬉しい?』


 今にして思えば、静かな、少し冷たい話し方だった。けれど、気持ちが高揚していた私は、そんな姫君の様子に気が付か無かった。


「うん、すごく嬉しい。こんなに嬉しいの初めて。慧といると、いつも嬉しいんだ」


『私といる時は?』


 ここで姫君の気持ちに私は気付くべきだった。私は愚かな子供だった。


「姫君といても嬉しいよ。でも、慧といる時の気持ちは今までで初めてなんだ。今までで一番嬉しくて、楽しい」


『一番……』


 私は、その姫君の囁くような小さな声を気に留めず、慧から貰ったお土産を机の上に広げていた。そして、一つ一つを手に取ってゆっくりと眺めていたら、唐突に姫君が告げた。


『じゃあ、私はもう必要無いわね』


「え?」


 ラベンダーの石鹸に伸ばし掛けていた手を止め、私が聞き返すと、姫君は淡々と言った。


『あの人が一番なんでしょう? 有来は、あの人といることが一番幸せで、一番満たされている時間なのよ。私と話すことよりも、ずっとずっと』


「そんな」


 言い掛けた私の言葉は姫君のそれに遮られる。


『真実よ。けれど、有来が幸福ならそれで良かったわ。そう思っていた。でも、有来は私に話し掛けなくなった。私のことより、あの人のことを考えるようになった』


 私は、そこで初めて、姫君との会話が以前よりも格段に減っていることに気が付いたのだ。更に姫君は続けた。先程よりも強い、私を責めるような口調で。


『有来は、もう私を必要としていないわ。私が話し掛けなければ、有来は振り向いてもくれない。心の中は、あのケイって男のことでいっぱい!』


「姫、あの……」


 私は、何か言おうとした。けれど、何を言って良いのか、何を言うべきなのか分からなかった。ただ、混乱した頭のどこか冷えている一部分で、姫君が慧の名前を口にしたのはこれが初めてだと、ぼんやりと思っていた。


『有来は幸せね。大切な人に大切に想って貰える。一番にして貰える。私は、一番じゃなくても良かったの。今まで通り、有来が私を想ってくれれば、それだけで幸せだったのに』


 私はこの時、強い焦燥を感じた。


「あの、姫君。聞いて、私はちゃんと姫君が大好きだし大切だよ」


 焦って早口になってしまったが、私の心からの言葉だった。それが伝わったのか伝わらなかったのかは、今でも良く分からない。伝わっていてほしいと願う。最後に姫君は笑った気がしたから。


『我が儘なお姫様でごめんなさいね。本当は私、有来の一番が良かったのかもしれないわ』


 そして私が口を開くよりも早く、姫君は別れの言葉を告げた。


『さようなら、有来』


「待って!」


 思わず立ち上がった瞬間、椅子が大きな音を立て、机の上に置かれたお土産が揺れた。


「……姫君?」


 ――この日以来、小さな姫君の声も気配も、私の中から消えてしまった。


 私は、自分の行いを恥じた。姫君に指摘されるまで、私は気が付か無かった。慧を想う余り、姫君のことを疎かにしていた自分を省みることが無かった。


 あの日、どれだけ大きな声で名前を呼んでも、心の内側に話し掛けても、彼女から返事が返って来ることは無かった。存在ごと、いなくなってしまっていた。唐突に姿を消した姫君。私はその事実が信じられず、何度も名前を呼んだ。最後の方は涙声になっていた。だが、何度呼ぼうと、叫ぼうとも彼女は応えなかったのだ。彼女の存在が感じられなかった。


 小さな姫君がいない。その事実を本当に理解した瞬間、私は声を上げて泣いた。呼吸すらままならない程に胸が苦しく、心が苦しかった。涙が頬を伝い、次々と流れ落ちた。しかし、どれだけ泣いても、彼女が戻って来ることは無かった。それは、私が姫君を大切にしなかったことが招いた結果だと思った。彼女の心を大切に出来無かった、私への報いだと。


 今更、遅いのかもしれないと数え切れないくらいに考えた。それでも私は彼女を取り戻したかった。その為に、私は慧と距離を置いた。私は、姫君を一番大切にしたいから。私にとっての一番が姫君だと伝わってくれれば、姫君はきっと帰って来てくれる。そう信じて、願って、毎日毎日、祈っていた。


 彼女と別れて約二年が経った今も、それは変わらない。不変の願い。もう一度、会いたい。

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