第三章【邂逅】4
慧と話した翌日から一週間、私は学校を休んだ。その間、携帯電話の電源は切っていた。学期末試験の直前に学校を休むことが得策とは思えなかったが、心が付いて行かなかった。
あの日、慧と話して分かったことがある。私は、真実、本当に姫君を忘れられない、忘れていないということ。彼女の存在を信じ、求めているということ。そして、私は、やはり慧が好きだということだ。それに気が付いたのは、慧の部屋で二人で話している時だった。慧が私を心配してくれているということ、気に掛けてくれているということ。さり気ない心配りや、優しい心遣い。私は嬉しく、だが、苦しかった。抑えていた感情が流れ出して行きそうだった。そして、それに気が付いた瞬間、私は心を押し殺したのだ。
私が慧と距離を置いたのは、小さな姫君に、もう一度出会う為。あの「始まりの日」を、やり直す為だ。
小学校四年生の夏、私が慧を好きだということを姫君に告げてから、彼女は変わってしまった。ほんの少しずつ、ゆっくりと緩やかに、彼女は変化して行った。私が慧を好きだと言わなければ。姫君を一番、大切にしていれば。こんなにも悲しい思いに沈まず、今も姫君と一緒にいられたはずだった。いつもアドバイスを与えてくれ、導いてくれた。暗く冷たい家に、いつも一緒にいてくれた、優しい彼女。私が慧に重心を預けて行き始めたことに、きっと、いち早く姫君は気が付いたのだろう。そして、私を繋ぎ留めようとした。私ばかりが姫君にしがみ付いているのかと思っていたけれども、姫君もまた、私に依存していたのだ。きっと、私が知る、ずっと以前から。
『有来しか見ていなかったから』
あの言葉が、それを証明しているように思えた。
歩いても歩いても、幾つもの思い出の輪っかが私をきつく捕らえる。それは不幸のようであり、幸福のようでもあった。確かに言えることは、今の私の幸福は、慧と一緒にいることよりも、姫君を信じて待つことだった。いつか会える、もうすぐ会えると信じて。
一週間後。さすがに期末の試験そのものを休むことは問題があると思い、私は気怠い体を引き摺るようにして何とか登校した。七日ぶりの学校は、どこか不思議な印象を私に与える。その建物も、それに付随する空気も、まるで私の生活から切り離された存在のように見えた。クラスメイトの何人かが私を心配し、声を掛けてくれる。私は出来るだけ笑顔で、それに答えた。
久し振りに握ったシャープペンシル、そして私の脳味噌は、ある程度の正答率を弾き出したようだった。今までよりは順位や点数が下がるかもしれないが、仕方が無い。むしろ試験前に学校を休んだことを考えれば、あれだけ解答出来れば良い方だと思った。とにかく私は、いつも通りに学校での時間を終え、家に帰るつもりでいたのだ。明日も期末試験は続く。勉強をしなければならない。
しかし、帰りのホームルームが終わり、昇降口に向かう途中で、唐突に私はひどい頭痛に見舞われた。歩きながら右手で頭を押さえる。気のせいなどというような痛みでは無く、頭の奥が軋むように痛かった。そういえば今日の登校時には、頭痛こそ無かったけれども、かなり体全体が怠かったことを思い出す。一週間ぶりに登校するからかと思っていたが、今の頭痛と合わせて考えると、体調を崩しているのかもしれない。試験前なのに、と思いつつ、私は早く帰って少し横になろうと思った。
「あ、有来」
不意に、私の後ろから明るい声が聞こえた。振り向いた先には沙矢が立っている。
「良かったら一緒に帰ろう?」
「うん」
私は返事をしながらも、頭痛が激しくなって来ていることに気が付く。
「もう体調は大丈夫なの?」
私を覗き込むようにして沙矢は聞いた。
「うん、大丈夫……でも、頭が痛い」
答え終わるよりも早く、私は片手で頭を押さえたまま歩みを止める。そして、その場に座り込んでしまった。
「有来!」
沙矢が、慌てて私を支えるようにして膝を着いたのが視界の片隅に映る。更に二度、沙矢が私の名前を呼んだ。しかし、私は返事をすることが出来無かった。
「待ってて、先生、呼んで来るから!」
遠ざかる沙矢の足音が、ぼんやりとした頭の片隅で聞こえる。私は痛む頭を押さえながら、空いている手で鞄から携帯電話を取り出した。少しの眩暈が生まれ始める。何故か浮かび始めた涙を堪えて、私は震える指で電話帳から「羽野慧」を探し出した。発信ボタンを押すと無機質な呼び出し音が響き始め、ほどなくして慧の声が耳に届いた。
「有来?」
その途端に堪えていた涙がぼとぼとと零れ落ち、制服に染み込んで行く。
「有来、どうした? 今、どこにいる?」
「学校……」
私はそれだけ言うと、携帯電話を持つ手から力が抜けてしまった。がしゃん、と少し大きな音が廊下に響いた気がする。
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