第三章【邂逅】1

 ――静かな、細い雨音が聞こえ始めた。私は本を捲る手を止め、椅子から立ち上がる。小さく軋んだ音が生じ、消える。白いレースのカーテンを少しだけ開けると、どんよりとした灰色の雲から糸のように雨が落ちて来ているのが見えた。少し冷たい空気が流れ込む、僅かに開かれた窓の傍で、私はまたいつもと同じことを考えてしまう。


 考えても仕方の無いことというのはある。また、考えて辿り着いた結論が、その時点では何の意味も持たず、何ももたらさないこともある。それを、私は知っている。それでも、こうして時間が流れ去った今でも、考えずにはいられないのだ。考えても仕方の無いことを、ぐるぐると考え続ける。出口が無いと知っている迷路の中を彷徨い歩くように。


「間違っていたのかな」


 その言葉に答える声はない。聞こえるのは、秋も終わりに近付いた空から落ちる、静かな雨の音。そして、かちかちと時を刻む小さな秒針の音。雨音と、流れ込む冷たい空気。秒針の音と、私自身の心。それらが少しずつ混ざって行く。


 私は、いつになったら考えることをやめるのだろう。いつになったら後悔することをやめるのだろうか。果たして、この気持ちが後悔とも断言出来無い。後悔なのか、懺悔なのか。それとも、ただ悲しんでいるだけなのか、あるいは全く別の気持ちなのか。


「間違っていた?」


 答える声がないことを知っていて、私は尋ねる。私の声は、ささやかな雨音にさえ吸い込まれるようにして消える。そして、やがて室内はまた元の静寂を取り戻す。私の思考はいつも通り、ゆっくりと、しかし確実に加速して行く。出会いから別れまでの時の流れが思い出となって蘇って行く。私は、ずるずると引き摺られるように窓際に座り込み、外を眺めた。雨は静かに降り続けている。






 ――私と「小さな姫君」との出会いは、およそ五年近く前に遡る。私と彼女は、私が小学四年生の頃に出会った。夏が始まろうとしていた、少し暑い日のこと。


 今でこそ、自身に降り掛かる沢山の理不尽や、多くの納得の行かないことをうまく切り抜けて行く知恵を少なからず手にした私だが、当時は、とてもそうはいかなかった。小学四年生という背景を踏まえれば当然のことなのかもしれないが、私にとってはそれが、ひどく息苦しく、毎日は重い枷のようでしか無かった。


 また、私は言いたいことのほとんどを告げることが出来無かった。周りの、特に大人は信用が出来ず、発言を奥深くに閉じ込めた。それはおそらく、自分にとって最も身近であった大人の母が、信じられなかったからであろう。今でもそれらが大きく変わったわけではないが、以前よりは幾分ましになったのかもしれない。


 当時、友達と呼べる人間がいなかったわけではない。きっと私は不幸では無かったはずだ。クラスメイトの中には沙矢という友達がいた。他にも何人か話が出来る人はいた。そして、大切な幼なじみの慧が、私をずっと支えてくれていた。私は恵まれていたはずだ。それでも時折、形容のし難い、複雑なような単純なような、良く分からない感情の波が私を飲み込んだ。それはおそらく悲しみという感情か、それに近いものだろう。しかし当時の私にとっては、そのような一言では決して済まされないものだった。私は、日々の時間の流れから逸脱しないよう、柔らかい泥のような感情に飲み込まれて溺れないよう、現実だけをしっかりと見て生きて行くことを、いつも考えていた。


 今にして思えば、私は相当に無理をしていたのだろう。おそらくは小学四年生以前の私から、ずっと連続していた何かしらの感情があり、それが私を知らずの内にある一点へと向けて導いていたように思える。明確な自覚がなかったにしろ、そういった毎日を繰り返す私にとって、「小さな姫君」の存在は救いであり、拠りどころであったのは確かだ。


 あの頃の私に、寄り添うようにしていてくれた姫君。彼女は何を考えていたのだろうか。頼り無い私を、何を思いながら支えてくれていたのだろうか。私が間違っていたというのなら、あの夏の「始まりの日」からだろうか。それとも、もっと以前からだろうか。






 間断なく落ち続ける雨は、止まらない私の思考と似ていた。いつ消えるとも知れない渦の中で、私はずっとこうして動けないままでいる。断ち切られた繋がりが再び結ばれることを、私は望んでいる。それが正解か間違いかは分からない。ただ、望んでいる。


 その時、私の思考を打ち破るかのようにして、薄暗い室内に明るいピアノの音色が短く響いた。窓の外から机の上に視線を移すと、携帯電話が光っているのが見える。私は、のろのろと立ち上がり、携帯電話を開く。メールが届いていた。読んだ後、私は返信をするかどうかを少し迷い、結局いつもの通り、そのまま携帯電話を静かに閉じた。端末の光がやがて消失すると、再び室内は薄暗い空間に戻る。私はまた元のように窓際に座り込み、鈍色の空を見上げた。まだ、雨は止まないままだった。


 ――随分、長いこと窓際に座り込み、雨を見ていたようだ。体がうっすらと寒さを訴え始めて、私はようやく窓を閉めた。しかし、また同じところに座る。ぼんやりと窓ガラス越しに暗い空を見上げる。私は、取り返しの付かない過ちを犯したように思っていた。


 再び室内にピアノの音が響く。机の上で、携帯電話が先程のように紺碧の光を放ち、メールの着信を知らせている。私は立ち上がる気力が無かった。数分後、今度は電話の着信音が鳴った。暗い室内と今の私の心情には不似合いな、明るい音楽が鳴り渡り続ける。私は何とか立ち上がり、携帯電話のウインドウを見る。思っていた通り、着信相手は慧だった。おそらくはメールもそうだったのだろう。迷った末、私は携帯電話を開き、通話ボタンを押した。


「――有来?」


 私が黙っていると、慧が続けた。


「……悪かったと思ってる。本当に。有来の気持ちを考えずに」


「その話は、もう良いの」


 私は慧の言葉を遮り、告げた。


「もう何度も言ったでしょ。その話は、良いの」


 慧は何かを言おうとしたのだろうが、それを飲み込んだように押し黙る。私の耳には、僅かな秒針の音と微かな雨音が聞こえている。そして、電話の向こう側には、慧の息遣いを感じていた。どれくらい経っただろうか、やがて慧が口を開いた。


「ごめん」


 私は、何も答えられ無かった。慧が謝ることでは無いような気がする反面、たとえ何度、謝って貰ったところで決して許せないような気もした。


 慧のせいにするのは簡単だ。しかし、真実、慧が悪かったとは言い切れ無い。それに、誰かのせいにして自分の感情を誤魔化せる程、私はもう子供では無いし、そんな単純なことでは無いと思った。ただ、慧と話していると、思い出す。慧の声を聞けば、鮮烈に蘇る。私が慧を好きになった日のこと、あの「始まりの日」のこと。そして、「小さな姫君」との出会いから別れの全て。私の喜び、私の悲しみ。気が狂いそうな、あの悲しみを手に取るように思い出してしまう。そして他に置きどころのない感情が慧へと向かってしまう。慧のせいだとは言い切れ無い、けれど違うとも断言出来無い。私は、いつもよりも更に渦の奥深くに飲み込まれてしまいそうになる。もう、誰も私を引き上げてはくれないというのに。


 私は、無言のまま電話を切った。携帯電話を閉じ、その光の消失を見届けると、心なしか安堵したことを感じた。私はまた、そのままそこに座り込む。


 明日も学校がある。内申の為にも、欠席するわけにはいかなかった。勉強は難しくは無い。小学生の時から知識を求め、勉強して来た私の習慣は、変わらず今も続いている。授業を良く聞く。分からなければ自分で勉強する。参考書を買っては応用問題を解き、ゆくゆくは習う範囲をも学ぶ。学期ごとの中間試験や期末試験で、私は上位に入った。出題範囲が決まっている試験なのだから当然と言えば当然なのかもしれない。


 私は、数式や知識によって導き出される、シンプルな解答が好きだ。正しい知識は正しい解を弾き出す。あの頃の私の選択にも、それに相応しい、正しい知識があったなら、今のこの気持ちを味わうことは無かったのだろうか。ずっとずっと、一緒にいられたかもしれないのだろうか。


 やがて本格的な暗闇が外を包み、部屋を包んだ。私は部屋の扉を開けて居間へと向かう。そして、私の部屋と同じく暗闇が支配しているそこで、冷蔵庫を開けた。途端、脳裏に色濃く蘇る。


『……私は、有来のことしか見ていなかったから』


 あの言葉。あの時の声。あの時に感じた恐怖に近いもの。それすらも私にとっては、もはや失えない。彼女が私と共にいた証。私が忘れない限り、彼女は決して消えない。


 チーズと食パンとバター、牛乳と卵を取り出し、野菜室からピーマンやニンジンを取り出す。台所の上に設置された小さな照明のスイッチを引っ張ると、幾度かの明滅の後に明かりが点く。食パンにバターを塗り、チーズを載せてトースターで焼く。目玉焼きを作る為にフライパンを温め、油を引く。野菜炒めを作る為にピーマンなどを洗って刻む。私は、黙々と夕食を作った。どうしても止まらない思考を押し留めるように、何も考えていない振りをするように。


 暗い室内には、僅かに月の光が入り込み、台所に立つ私を静かに照らした。青白い、満月まであと一歩の月だった。

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