第二章【幼馴染】2
慧に図鑑を借りた、翌日の土曜日。私は、少々、学校へ行くことが憂鬱だった。昨日のアンケートのことで担任の機嫌を損ねたのではないかと、やはり気になっていたからだ。気にするぐらいなら担任に意見などしなければそれで済んだ話なのだが、とてもそうはいかなかったということが私の真実なのだろう。とにかく、いわゆる自業自得というものだと私は諦め、通学班に加わって学校までの重い道のりを歩いた。
しかし、朝の会、三時間目までの授業、そして帰りの会に至るまで、担任は特に何も私に言っては来なかった。少し拍子抜けしながらも私は確かに安堵し、ランドセルを背負い、下駄箱へと向かう。
「あ、有来。一緒に帰らない?」
靴を履き掛けた私の後ろで、沙矢の声がした。
「うん、一緒に帰ろう」
私と沙矢は並んで昇降口を出て、正門を抜けた。
「ねえ、国語の作文で何を書くか決めた?」
「うん、決めたよ。私は鉱物について書くことにしたんだ」
三年生から同じクラスになった樹沙矢は、私より少し背が高く、細身の女の子だ。同じ学年だが、しっかりしたお姉さんのようなところがある。良く話すようになってから、私は密かに憧れていた。
「鉱物って、石とか岩とかのこと?」
不思議そうに沙矢は尋ねる。
「うん、そんな感じ。図鑑を借りたから結構良いのが書けそうなんだ」
私達は気が合った。とは言っても、クラスメイトの多くの女子のように、ほとんどいつも一緒にいるわけでは無かった。
彼女達は、たった十分間の休み時間にでも、一つの机に集まって話していたり、お手洗いへも連れ立って行ったりしていた。私も初めの内は流されるままにそうしていたのだが、学校にいる間、いつもそうしていることにだんだんと疲れ始めた。そして、やがて私はその流れから抜けた。それを良く思わず、陰口を言う子もいた。逆に気にせず、普段通りに話し掛けて来る子もいた。沙矢は後者だった。
「私は、まだ決めてないんだ。作文用紙五枚以上でしょ?」
隣でそう言う沙矢は、面倒そうな顔付きで前を見ていた。
「何が良いかな。何でも良いって言うんだから、ヨーグルトについてとかにしようかな」
「ヨーグルト?」
意表を付かれて聞き返すと、
「好きだから。ヨーグルト」
沙矢は私を見て、笑いながら言った。
「ヨーグルトはとてもおいしいです、ビフィズス菌が、みんなでヨーグルトをおいしくしてくれているのです、とか。どう?」
「何だか童話みたいだね」
私も笑った。私と沙矢は、他愛も無いことを話しながら帰り道を歩いた。夏を間近にした真昼の日差しは若干強く、暑さを感じる。それでも私は、この時間がもっと長く続けば良いと思っていた。
「良し、私はヨーグルトについてにする」
別れ道、沙矢は決意したかのように私に告げた。その様子が何だかおかしくて、私はまた笑った。
「とりあえず今日は暑いから、ヨーグルトを凍らせて食べてみるよ。実験してみる」
「おいしそうだね。私もやってみようかな」
私達は少しの間、別れ道で立ち止まって話をした。そして、またね、と言う。手を振って別れる。沙矢は左へ。私は直進。沙矢と別れて少しすると、姫君が話し掛けて来た。
『本当にヨーグルトについてにするのかしら』
「多分。本気みたいだったし」
学校からは、一人で家まで帰ることもあったし、先程のように友達と途中まで一緒に帰ることもあった。学校から家への帰り道の途中で、友達と別れてしまえば今までは一人だったけれど、昨日と今日は姫君がいたので寂しくなかった。一人で帰り道を歩くことが特別寂しいわけでは無かったけれど、何となく気分が沈む時はあった。けれど、もうそんなことは無い。そう思うと、気持ちに羽が生えたような気がした。
『今日は作文を書くの?』
「うん、そうする。来週の金曜日までだし」
私の足取りは、今までに比べれば決して重くは無かった。姫君と話しながら帰り道を辿れることが、とても嬉しかったのだ。たとえ辿り着く先が、いつもと変わらない、あの家だとしても。
『そういえば、琥珀って綺麗だったわね』
思い出したように姫君が言う。確かに図鑑で初めて見た琥珀は、夕暮れ時の太陽のように綺麗な赤い色をしていた。まるで吸い込まれてしまいそうな程に。
「琥珀、落ちてないかな」
思わず、私は辺りを見回した。こんな道端に琥珀が転がっているわけは無いとは分かっていたのだが、写真では無く、実際に手に取って見てみたかった。
『石が好きな有来の気持ちが、少し分かった気がするわ』
「そう? 嬉しいな」
押しボタン式の横断歩道を渡り、私達は家に帰り着いた。いつも通り、そうっと玄関扉を開け、静かに閉める。靴を脱ぎ、自室への扉を開けて部屋に一歩入り、私は、やはり扉をそっと閉めた。そこで私はようやく安心し、息を洩らす。
『本当に難儀な帰宅ね』
「うん」
私はランドセルを下ろし、帽子を脱いで、さっそく慧から借りた鉱物図鑑を机の上に広げた。途端に色とりどりの石の写真が視界に飛び込んで来る。慧の部屋での時のように、やがて私は図鑑の世界に引き込まれて行った。分厚いそれは、読んでも読んでも終わりなどないかのように次のページがあった。数多くのカラー写真と解説文とで構成された図鑑は、私に時の流れを忘れさせた。
だが、その幸福に亀裂を入れるかのようにして、唐突に居間と廊下を繋ぐドアが開く音がした。続いて慌ただしい足音と、玄関扉の重たい開閉音。
『出掛けたのね』
姫君が、私の様子を窺うように言った。
「そうみたいね」
私が答えると、
『お昼ご飯を食べてしまったらどう?』
と、姫君が提案する。
確かに、今がチャンスだった。私は、母と同じ部屋で食事をすることが苦手だ。母といると、その空間が持つ重苦しい重圧に負けてしまいそうになる。なるべくなら接する回数を減らしたいのが本音だった。だから私は頷き、部屋を出る。居間へのドアを開けると、木製のテーブルの上には、お茶碗と箸とコップだけが置いてあった。
『何、これ』
「お茶碗と箸とコップ」
『そんなことを聞いているわけじゃないわ』
姫君の言わんとしていることは分かっている。けれど、私は敢えて見たままを告げたのだ。そうして自分の気持ちを誤魔化すことが、ここで私が生活して行く為には必要なことだからだ。
『いつもいつもこんな感じじゃない。特に、ここ数年』
「良く知ってるね。見てたの?」
冷蔵庫を開けながら私が聞くと、
『だから、私はずっと一緒にいたの。有来は覚えていないみたいだけど』
と、少し皮肉っぽく姫君が返して来る。
「そうだったね、ごめん」
『失礼しちゃう』
機嫌を損ねてしまったらしい姫君へ、私はもう一度、ごめんねと言った。すると思いのほか、早くに姫君は機嫌を直したらしく、調子を取り戻して私に言う。
『まあ、良いわ。それより早くしないと彼女が帰って来るんじゃない?』
「うーん、多分、遅いと思うよ」
母の気に入りの黒いバッグが定位置に無かったし、三面鏡の前には色々な化粧道具が散乱していた。加えて、開け放たれたままのクローゼットからは、数着の洋服が零れ落ちている。
「こういう時は、大抵、帰りが遅いの。朝方の時もあるし」
私が言うと、
『ああ、そういえばそうだったわね』
と、姫君が答えた。
私はそれに若干の引っ掛かりを感じ、尋ねた。
「ずっと私と一緒にいたんだよね? 知らなかったの?」
不意に沈黙が流れた。そのことに何故か、私は言い知れない不安を感じる。
「姫?」
『――私は、有来のことしか見ていなかったから』
ぞくりとした。いつもとは違った声音。小さな声なのに、静まり返っていた居間に、冷たく鋭く降り落ちた氷の塊の如くの大きな存在感があった。私は、思わず息を飲む。それは、今までで初めて聞いた声だった。
冷蔵庫を開けたままで私が固まっていると、トゥルルルルルと、高らかに電話の音が鳴り響いた。私は驚き、慌てて冷蔵庫を閉める。電話機のディスプレイには、慧の電話番号が表示されていた。
「もしもし」
「あ、有来? 今から来ない?」
慧の明るい声に、私は思わず安堵する。
「有来?」
「あ、ごめん。えっと、遊びに行っても良いの?」
「都合が良いなら遊びにおいで。実は、スパゲティを作りすぎてさ。お昼食べた?」
「まだ」
「良かった! 食べに来てよ」
慧は嬉しそうに言う。その様子に私は少しだけ笑った。
「うん。じゃあ今から行くね」
「待ってる」
私が受話器を置くと、再び居間は静けさに包まれる。その静寂が、ひどく怖かった。さっきの姫君の声音が、言葉が、頭の中に浮かび上がる。
『有来?』
「えっ」
思わず、私の体がびくりと震えた。
『どうしたの? スパゲティ、食べに行くのでしょ?』
「あ、うん。そうだね」
返事をしながらも、私は先程に感じた違和感を拭えなかった。姫君の声は既にいつもの調子に戻っていて、先の冷たく静かな声音はかけらも感じられない。しかし、逆にそれが私に更なる違和感を与える結果となっていた。そして、さっきの言葉の意味を、聞きたくても聞けなかった。まるで、それを許さないかのような雰囲気さえ、私は姫君から感じ取っていた。釈然としないまま私は玄関へと向かう。靴を履いていると、姫君が話し掛けて来た。
『良かったわね、昼食をご馳走になれて』
「うん」
姫君の声は、いつものように穏やかで柔らかい。それでも、私の不安感は頭に張り付いたまま動かなかった。それを振り払うかのように、私は勢い良く扉を開けて外へ飛び出す。昼過ぎ、強さを増した陽光が、とても眩しい。公園を抜け、慧の家に着いた時には、私はうっすらと額に汗を掻いていた。太陽は、これから夏が始まろうとしていることを確かに力強く告げていた。
「冷たいオレンジジュースも用意してあるよ」
私を迎えてくれた慧は、いつも通りの優しい笑顔だった。私の頭の中に未だ強く残されている姫君の言葉と声音は、それによって少しだけ影を潜める。
「うん、ありがとう」
慧の後を付いて廊下を歩く。居間に入った瞬間に、とても良い香りがした。テーブルの上には、丸く白いお皿に盛り付けられて湯気を立てているトマトスパゲティが置かれている。
「つい、作り過ぎたんだよね。良かったよ、有来が食べに来てくれて」
勧められるまま椅子に座り、いただきますと告げてから、一口、トマトスパゲティを食べた。
「おいしい!」
「良かった。ありがとう、嬉しいよ」
スパゲティには薄切りにした玉葱とマッシュルーム、小さく切られたトマトの果肉が沢山入っていて、塩味もちょうど良い感じだった。
「この緑のものは何だろう」
そしてスパゲティ全体に、二、三ミリの小さな緑色の葉っぱが散りばめられていた。
「バジル。良い香りだろう?」
確かに、トマト以外の香りがすると思っていた。居間に入った時にも、そう感じた。
「バジル?」
「ハーブだよ。トマト料理に、とても合うんだ」
私は、初めて聞いた「バジル」という響きがとても気に入り、そして、ハーブの入った料理なんて食べたことが無かったので少し驚いた。
「ハーブって聞いたことはあるけど、もっと世界が違うものだと思ってた。こうやって料理に使えるような、身近なものなんだね」
慧がハーブを使った料理をすることにも驚く。今まで何度か慧の料理を食べたことはあったが、ハーブの話は一度も聞いたことが無かった。そんな私の心を見透かしたかのように、慧は笑って言う。
「実は、これがハーブ入り料理の試作品第一号。バジルがトマトに合うっていうのも、最近、知ったんだよ」
そして、慧は透明な細いグラスにオレンジジュースを注ぎ、私に差し出す。
「ハーブって難しいものだと俺も思っていたけど、全然そんなことは無いよ。スーパーの食品売場に沢山の種類が並べられていたし」
「知らなかった。何だか楽しそうだね」
私はトマトの果肉を口に運び、確かにトマトと塩だけの風味ではないことを改めて実感した。爽やかなバジルの風味、それがトマトの味を、より一層に引き立てている。私は、こんなにおいしくて新鮮な印象を与えるスパゲティは初めて食べた。夢中でもぐもぐと口を動かし、ストローでオレンジジュースを飲む。良く冷えたオレンジジュースが喉を滑り下り、お腹の中に流れて行く感じが分かった。一息ついて私が顔を上げると、慧と目が合う。
「実は、有来に食べてほしくて二人分、作ったんだ」
その言葉が、私の心の中にひたすらに真っ直ぐに落ちる。まるで地面に雨が染み込むように、ごく自然に私に辿り着く。
「ありがとう、すごくおいしいよ。こんなにおいしいスパゲティ、初めて食べたよ」
「バジルを使うのが初めてだから、おいしく出来るか分からなくてさ。でも、食べてみたら結構おいしいと思って。それで、電話したんだ」
慧の声が途切れると、空間に静寂が訪れる。私は、何か言わなければと思うも、何をどう言えば良いのか良く分からなくなっていた。ただ、慧の言ってくれたことに対するお礼を。それだけは、きちんと伝えたいと思った。
「あの、ありがとう。スパゲティ、とてもおいしいよ。それと」
どうしてか、私は一度言葉を切った。いつも慧に話すように話せなかった。
「電話してくれて、ありがとう」
伝える。それだけの行為が、ひどく私を緊張させた。
「良かった。喜んでくれて」
慧は、いつも以上に優しい顔をしているように思えた。それがますます私を緊張させ、どうしようもない焦燥感のようなものを生まれさせる。その時だった。唐突に、姫君が私に尋ねる。
『有来は、この人が好きなの?』
「えっ」
私は驚き、思わず大きな声を出した。すると慧が不思議そうに私を見る。
「どうかした?」
「ううん、何でも無いの」
私は慌ててそう答え、食べかけのスパゲティに手を伸ばした。助かったことに、慧はそれ以上には追求して来なかった。そして、姫君も口を閉ざす。
やがてスパゲティを食べ終えた頃には、午後二時を回っていた。慧は、遊んで行くかどうかと聞いてくれたが、私は作文を書き始めたかったので、そう告げる。
「有来の作文、楽しみにしてるよ」
と、慧は笑顔で見送ってくれた。私はもう一度、スパゲティのお礼を言い、手を振って慧の家を後にした。
ふと空を見上げると、先程よりも陽光の強さが更に勢いを増しているように思える。公園内の木々の全てには色濃い緑の葉が宿り、夏の太陽の光を求めて手のような枝々を伸ばしていた。地面には、まだら模様の葉の影が落ちている。木々の間を抜けて歩く私に、姫君が先程と同じ質問を繰り返した。
『有来は、あの人が好きなの?』
「さっきは本当にびっくりしたんだから。どうしたの、急にそんなことを聞いて」
私の言葉に返事をすること無く、姫君は少しの間、押し黙る。しかし、すぐにまた同じ質問を繰り返した。
『ねえ、有来はあの人が好き?』
それは強い口調では無かったが、曖昧な答えは許さないような、はっきりとした強い意思を感じた。
私は、少し考える。確かに、慧のことは好きだ。慧は、私にとても優しい。いつも私の喜ぶことを自然にしてくれる。柔らかく笑ってくれる。私は慧と一緒にいると、私自身すら知らない、心の奥底のようなところが温かく満たされるような気がする。それは、他の誰といても味わうことの出来ない感覚だった。母は勿論、教師、クラスメイト。友達でさえ、対象から外れる。沙矢や姫君と話していると温かな気持ちにはなるが、それは慧といる時の気持ちとは少し違うような気がした。
「良くは分からないんだけど、慧といると嬉しい。もっと一緒にいたいと思う。慧が笑ってくれると、私も笑顔になれる」
私は、考えつつ話した。私の今の心にぴったりと合う言葉を探しながら。慧のことを頭に、心に思い浮かべながら。
「慧は、とても優しいから。とても温かいから。いつも、ありがとうって思ってる。慧が喜ぶことを私も贈りたいって思ってる」
知らず私は俯き、自分の靴のつま先を見つめていた。
「何も返せていないけど。うまくありがとうって言えていないかもしれないけど。慧がいなかったら、私は毎日をどうやって過ごしたら良いか分からない。苦しい気持ちの逃がし方を、きっと知らないままだった」
風が吹き、葉ずれの音がする。その音が何故かとても大きく聞こえ、そして私の気持ちを後押しした。
「慧は、私のことを考えてくれる。私が悲しまないように、落ち込まないようにしてくれる。とても温かい気持ちにしてくれる。私は……慧が好き」
言い終えて顔を上げると、太陽の光が目に飛び込んで来た。私が思わず目を細めた時、それまでずっと黙って私の言葉を聞いていた姫君が口を開く。
『有来が幸せなら、良いわ』と。
それはひどく優しく、どこか切なさすら感じさせる声だった。だから、私は慌てて姫君に言う。
「姫君のことも大好きだよ」
決して嘘偽りない、正直な私の気持ちだった。実際、私は姫君がいてくれるおかげで、一人きりの時の寂しさをあまり感じなくなって来ていたのだから。聡明なところに憧れや敬意も感じたし、アドバイスも貰った。私は確かに姫君に助けられている。
『ありがとう』
「本当に大好きだからね」
重ねて告げると、姫君は小さく笑い声を零す。
『二回も言わなくても分かるわ』
私達は夏の始まりの太陽を浴びながら緑の間を歩き、公園を抜けた。その日は、初めて私が慧への気持ちを自覚した、私にとっても始まりの日となった。
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