第二章【幼馴染】1

 部屋にランドセルを置き、帽子を取る。名札も外した。ランドセルから宿題をするのに必要な教科書とノート、筆記用具を出して、机の上の参考書などと一緒に手提げへ詰める。そして、静かに部屋から出て、居間にいる母の元へと向かった。何故、私はこのようなことに、こんなにも緊張しなければいけないのだろう。どうして私の心臓は、こんなにもうるさく鳴るのだろうか? まるで、これから狩られる獣のように。


「あの、ね」


 いつもの通り、母は居間で洗濯物を黙々と畳んでいた。私は意を決して、もう一度、話し掛ける。


「あの、宿題をやりに出かけて来る」


「いってらっしゃい」


 姿勢を崩さず、私を見ず、母は言った。すかさず私は母に背を向け、足音すら立てないようにして息を殺し、そっと玄関へ向かう。これで儀式は終わった。しばらくはここを離れ、私は私になれる。いつもの約束に出掛けられる。


 靴を履き、入って来た時と同じようにして静かにドアノブを捻り、一歩を踏み出した。そして、そうっと扉を閉める。そこで私はいつものように、ほっと一息をつく。


『……毎回のことながら難儀ね』


 姫君が呟く。


「うん、そうだね」


 私は返事を返す。そして、地面までの僅かな階段を一段飛ばしに下りて行く。そうすればきっと、きっと少しでも体が軽くなって忘れられる気がした。


 私は、まだ小学四年生だ。だが、来年は五年生に進級する。階段を上るように、私は大人に近付いて行く。生きて行けば自然と大人になる日は必ず、やって来る。そうしたら、私は私として歩いて行ける。だから、それまでに沢山の知識と教養を身に付けて行くのだ。私は、この頃ではそう思うようになっていた。


 近くの公園を目指して走る。季節は、やがて初夏を迎えようとしている。昼間は、両手を広げてそれを待っているかのような植樹された木と草の多い公園も、今は薄く夕方を控えた色に染まり、どこか郷愁を誘う。木々は、さわさわとひそやかに揺れていた。その公園の中央に配置された木製のベンチの一つに、彼は座っている。私の足音に気が付いたのか、彼は顔を上げてこちらを見た。


 少しだけ息を切らせて私が彼の前に立つと、


「そんなに慌てなくても良かったのに」


 と、手元の本を閉じながら言う。


 そして彼はベンチから立ち上がると、軽く後ろを払って私に笑い掛けた。


「じゃ、行こうか」


「うん」


 私と彼の家は、歩いて十五分程の近い距離にある。私達は、最近、こうして会うことがほとんど日課のようになっていた。


「今日は何を持って来た?」


「国語の宿題と、英語の参考書」


 私達は並び、比較的、ゆっくりと歩いた。夏を間近に控えた夕暮れに近い時間帯は柔らかく、ほんの少しだけ物悲しい光に満ちている。だが、私は、二人でこうして公園を歩いて彼の家に向かう、この時がとても好きだった。緩やかに流れているかのような時間を錯覚させる、このひと時が。


「英語をもう勉強しているの? 小学校ではまだだよね?」


 私の答えを受け、彼は驚いたように言った。


「うん、でも中学校に入ったらあるんでしょ? それに、小学校で英語を学ばせることも考えられているみたいだし。早くは無いと思う」


「有来は勉強家だね」


 そう言って、彼は微笑む。薄い夕陽に照らされた優しい横顔が、とても綺麗だと思った。


「国語の宿題は何が出た?」


「作文なの。作文用紙、五枚以上は書いてって。題材は何でも良いって言ってた」


 私達は公園を抜け、いつもの細い路地を歩く。


「もう何について書くか、決めてある?」


「うん。実はね、その作文を書くのに図鑑が見たいの。慧は沢山持っているから見せて貰いたいんだ」


「何だ、それが狙いか」


「ありがたく見せて頂きます」


 私達は、顔を見合わせて笑った。たったそれだけのことが、私にはひどく幸福なことだった。学校よりも、家よりも。私には慧といる時間が一番大切だ。反面、私は彼に幸せな時間を与えて貰うばかりで、何も返せていないような気がしていた。


 けれど、以前にそう言った時、


「そんなことは無いよ。俺だって有来といて楽しいんだから、そういう風に思うことなんて無いよ」


 と、言ってくれた。


 私は、その言葉にとても安心し、それからは慧に対して「悪いな」と思うことをやめた。慧の言葉を、信じることが出来たから。学校の教師や同級生や母に覚える、作り物めいた言葉や雰囲気を感じなかったから。本当にそう思ってくれていると思うことが出来たから。そしてそれからは、慧との時間が、より一層、楽しい時間に変わった。私の全ての幸福は、ここにあった。


「ジュースとか持って来るから、図鑑、見ていて良いよ」


「うん、ありがとう」


 やがて慧の家に着くと、彼は私をいつものように二階の部屋へと促した。私は階段を上り、慧の自室の扉を開ける。慧の部屋には大きな本棚が二つあり、一つには漫画や小説が、もう一つには図鑑や参考書などが綺麗に並べられている。私は少し羨ましく思いながら、図鑑が収められている棚を眺めた。


 国語の宿題である、作文の題材は既に決まっている。以前、慧の部屋に来た時の帰り際、気になって見せて貰った図鑑があった。それは「鉱物解説図鑑」だ。色々な鉱物や岩石が、カラー写真付きで詳しく解説されている。今度、良く見せて貰おうと思っていたので、ついでにそれで作文を書いてしまおうと考えたのだ。図鑑を手に取り、ぱらぱらとページを捲っていると、姫君が話し掛けて来た。


『この図鑑、好きなの?』


「うん。前に見せて貰った時に、すごく気に入ったの」


『これのどこが良いの?』


 姫君は、心底から不思議そうに尋ねた。


「どこっていうか、全体的に、わくわくするの。写真も綺麗だし。解説は難しい単語があって全部は分からないけど」


 私は、小さい頃から石が好きだった。勿論、今も。道端に普通に転がっている小さな石でも、何となく目に留まることがある。気に入ればポケットに入れて持ち帰る。それは、つやつやとした光沢のある真っ白な石だったり、ただの黒ずんだ石だったり、縄のような模様の入ったものだったり、様々だ。


 今でも良く覚えているのは、幼稚園のお泊まり保育の日、先生と皆が川で遊んでいる時に、私は川底の綺麗な石を拾い集めることに夢中だったことだ。先生から貰った透明なビニール袋いっぱいに集まった、まんまるな石ころ。それらは宝箱に詰まった宝石のように思えた。帰りの荷物が、かなり重くなってしまったけれども後悔は無く、それどころか幸せいっぱいの気持ちでそれを抱えて帰ったことを覚えている。


 どうして石がこんなに好きなのかは分からないが、私は改めて鉱物図鑑を見ながら何とも言えない幸福感に浸った。


『あら、これは綺麗ね』


 開いていたページには、美しい赤い色の石が載っている。


「琥珀、って書いてある」


 解説には、「絶滅した針葉樹の化石樹脂。樹脂、あるいは透明から半透明な光沢を持つ。虫や小さな脊椎動物が、中で化石化しているものもある」と書かれていた。


「虫が、石の中に入っているものもあるんだね」


 私が言うと、


『太古のロマンね』


 と、姫君は呟いた。


 その時、こんこんとドアがノックされ、慧が入って来た。


「目当ての図鑑はあった?」


 ジュースやお菓子の載ったお盆を部屋の中央にあるガラステーブルに置き、慧は私の手元を覗き込む。


「有来は石が好きなの?」


 私が広げている図鑑を見て、慧は少し意外そうな声を出した。


「うん。うまく言えないけど、好き。石ころを拾って帰ったりもするよ」


「知らなかったな。あ、琥珀が好きなの?」


 開かれているページを見て、慧が尋ねる。


「初めて見たけど好きになった。綺麗な色だよね。しかもね、中に虫が入っていたりもするんだって」


 私は、知ったばかりの事実に少しばかり興奮しながら話した。


「この写真は赤い石だけど、透明なものもあるんだって。良いなあ」


「本当に好きなんだね、石」


「うん。わくわくする」


 私は、図鑑のページを更に捲ってみる。見たことのない石の写真が沢山あり、聞いたことのない名前がそれぞれに付けられていた。解説文には、難しい単語が沢山、連ねられている。私は、時間を忘れてそれらに見入っていた。思えばこの時、慧との会話も無かったように思う。夢中になっている私に気を遣ってくれたのかもしれないと、あとから私は思った。


 そして、鉱物図鑑を見ている私を夢から引き戻すかのように、やがて、夕方六時を知らせるメロディーが流れた。「ふるさと」の曲だ。少し切ないその音色は、私に帰宅を促すものだった。名残惜しく顔を上げると、慧と目が合う。


「あーあ、って顔をしてる」


 苦笑気味に慧は言った。


「そう思ってる。良いな、慧は。こんなに素敵な図鑑を持っていて。こんなに沢山、本があって」


 私は、背後にある二つの本棚を見遣りながら答えた。


「その図鑑で作文を書くんだよね? 貸してあげるから家でゆっくり読むと良いよ」


「本当!」


 私は自分でも驚く程に大きな声を上げてしまい、慌てて謝った。


「ご、ごめんね。あんまりびっくりしちゃって」


「俺は有来の声にびっくりしたよ」


 笑いながら慧は言った。私は、もう一度「ごめんね」と重ねる。ふと見ると、慧の部屋の窓からの景色は本格的に濃い茜色に染まろうとしていた。それはとても綺麗な色なのに、とても悲しくなる色だ。きっと、「ふるさと」のメロディーと同じように、私に帰る時間を知らせるからだろう。


「勉強、見てあげられなかったね」


「私が図鑑ばかり眺めていたから。でも、大丈夫。帰ったらちゃんとやる」


 そう、私はもう家に帰らなければいけない。


「図鑑、本当に借りて良いの?」


「良いよ。でも、作文が出来たら見せて」


 慧の言葉に、私は頷いた。


「あ、ジュース、飲んでいったら?」


「うん。いただきます」


 私の大好きなオレンジジュース。細く透明なガラスのコップの中に湛えられたその液体は、太陽の色に似ていた。慧は、家まで送ると言ってくれたけれど、私は一人で帰ることにした。まだ外は暗くないし、大丈夫だからという私の言葉に、慧は仕方無くといった感じで頷く。


「寄り道しないで、気を付けて帰れよ?」


「うん。大丈夫だよ、近いんだから」


 またね、と手を振って、私は慧の家を出た。来た時よりも外は濃い夕陽影に染まっていて、沈み掛けている太陽が見えた。まだ星は見えなかったけれども、遠く上空に、うっすらと白い三日月が出ていた。


『月が見えるわね』


「うん」


 姫君の言葉に、私は小さく返事を返す。不意に、さらさらと乾いた風が吹き、木々の枝や葉、そして私の短い髪を静かに揺らして行った。まるで黄金色に包まれたとも言える公園を、一人で、ゆっくりと歩く。その時、私はどうしてか悲しくなった。胸が苦しくなった。反射的に私は胸の辺りを強く押さえる。


『有来?』


 私は返事をする余裕をなくしていた。何故、こんな気持ちになるのか、自分でも良く分からなかった。慧に会って楽しかった。嬉しかった。図鑑を貸して貰えた。私の好きなオレンジジュースを出して貰えた。そして、またね、と言って手を振った。そう、また明日にでも慧とは会えるのだ。図鑑を借りたから、きっと良い作文が書ける。初めて見た琥珀の写真。とても綺麗だった。


「悲しい」


 誰に言うでも無く、私は言った。声に出すつもりは無かったけれど、気が付いたら、もう言葉になっていた。そして、実際に声に出したことで、悲しさが急速に加速したように思える。間を空けず、微かな涙が落ちて消えた。


『有来、泣かないで』


 私は公園の中で一人立ち止まり、強く目を擦った。


「どうしたんだろう」


 風が私の後ろから駆け抜け、先程よりも強く私の髪を揺らして行く。


『ねえ、有来。星って、昼間は見えないのよ。こんな夕暮れ時もね。知ってるでしょう?』


 その唐突な話題に、私は不思議に思いながらも頷く。


『でも、昼間でも星は、そこにあるのよ。聞いたことない?』


「ある、けど」


 少し掠れてしまった声で返事をすると、姫君は続けた。


『ね、見えなくてもそこに星はあるのよ。それぞれちゃんと輝いている。有来の未来だって、それと同じように』


 その言葉で、私は姫君が言おうとしていることに気が付く。


『分かったみたいね。有来の未来だって今は見えなくても、ちゃんと輝いている。ちゃんと有来を待っている。今は見える時ではないだけ』


 私は自分のつま先から視線を剥がし、空を仰いだ。今、まさに沈もうとしている太陽と儚げな白い小さな三日月が見える。星は、まだ一つも見えなかった。いつの間にか涙は止まっている。少し冷たさを感じる風が、静かに頬の上を滑って行った。


『帰りましょう』


「そうだね」


 私は、残り僅かの帰路を歩き始めた。右手には図鑑の入った手提げを持って。きっと良い作文を書いて、慧に読んで貰うのだと決めて。重く感じる足取りは、きっと気のせいだと思い込んで。

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