第一章【名前】3
――今、思えば幼かったのだろう。事実、私は小学四年生だった。決して、大人と呼べる年齢ではないだろう。
落ち着いて考えてみれば、たかがアンケートなど、適当に書いておけば良かったのかもしれない。そうすれば、あの時にも思ったように、面倒にも担任教師に呼び出されることなど無く、私は真っ直ぐに帰路に着けたはずだ。だが、私はそうしなかった。用意された質問に何の抵抗も無く答えられる素直さや無防備さによるところの子供らしさは持たず、その場限りだと割り切り偽りを記述する周到さやあざとさによるところの大人らしさも持たず、中途半端な存在だった。今は半端では無いのかと聞かれると、それこそ答えを持たないが。
私に友人がいなかったわけでは無い。望まない限り、休み時間に一人きりになることは無かった。移動教室の時も同様だ。だが、それらは、ごく表面的な事柄で、おそらく私は無意識下で分かっていた。彼らとの付き合いが一過性のものに過ぎず、つまり彼らは私の人生において縁遠い人々で、小学校を卒業すれば、ほどなく疎遠になって行くであろうことを。そして、私はそれを回避すべく行動する気にはなれなかった。積極的に交友関係を深めて行く意思が、当時の私には無かったのだ。それは何故か。
私には彼らが、失礼な言い方になるが、ひどく楽観的で刹那的な生き物の集合に見えていたのだ。そこに混じり合う気にはなれなかった。言葉にしてみればそれだけの、単純至極なこと。このように考えてしまっていたのは元々の性格に起因するのか、あるいは育った環境によるものなのか、今も私には良く分からない。
しかし、人がいれば人の数だけ環境や事情は存在する。そして誰もが、それらを曝け出して他者と交流しているとは決して限らないのだ。その点を小学四年生の都筑有来という人間は思い当たってはいなかった。ひとえに幼かったのだ。子供には良くあることかもしれないが、自らの状況が世界の中心であり、ものさしであり、全てで有り得る。私はまさにそれだった。そして私はきっと、皆とは違うという、良くある優越意識のようなものを持っていたと思わざるを得ない。これは、早く大人になりたいという心情の顕れだったかもしれない。そう、私は早く大人になりたかった。
皆とは違う。確かに私は一般的な「皆」とは異なっていたかもしれない。私には私だけの理解者であり共犯者であり保護者めいた存在が有った。その彼女には名前が無かった。子供だったからだろうか、私は「彼女」を容易に受け入れていた。だが、それ以上に私が奥底で望んでいたという、この心が基盤となっている――なっていたように思う。人は望まないものを容易く受容することは難しい。
小学四年生の、とある日。私の自覚なき願い事は、こうして形となって叶えられたのだ。
私は、背に翅が生えたような心持ちで、とんとんと靴を履いた。どうしたら良いのかが分からず、ひたすらに思考を続けた自分自身は、もうとっくに遥か後方へと流れ去って見えなくなっていた。意気揚々と正門を抜けて家路を辿る。既に下校時刻を過ぎているせいだろう、ランドセルを背負った姿は私の他には誰も見当たらなかった。
『機嫌が良さそう』
「彼女」が話し掛けて来る。それは私の心情を知った上での、確かめるような口振りだった。
「それは同じだよね、きっと」
私は口に出して言った。
『そうね。それにしても、ああやって本当に言いたいことはいつもちゃんと伝えれば良いのに』
どうして、そうしないの? と言外に彼女は尋ねているように思えた。
私はその言葉を受け、思考を巡らせる。確かに、私はあまり思ったことを相手に言ってはいないように思う。正確には、言えない、という表現が正しいのだろうか。ほぼ絶対的に相手を不快にさせないであろうと分かっている時だけだ、私が臆すること無く話せるのは。しかしながら、なかなかそんな機会など無い。よって、私はあまり思ったことを相手に伝えられない。こうして改めて考えてみたところで、結局、辿り着く事実は変わりはしなかった。
私が黙り込んでしまったのを気に掛けてか、彼女は先程よりも幾分、柔らかな風のような口調で言った。
『時と場合によるのよ、思ったことを発言すべきかどうかというのは。あなたのそれは、もしかしたら自己防衛の一種なのかもしれないわね』
「自己防衛?」
『そう。自己、つまり自分自身。あなた自身を守っているということ。それは人間に与えられた本能の一つ。誰もが持っているわ』
「初めて聞いた」
彼女の言葉の端々には知性が感じられた。それは単純に知識を持っているということだけではなく、それに基づき自らの思考を成立させているという、決して機械的なものや一辺倒なものでは無いという印象を、幼い私にでさえ与えた。そして、私の知らないことをきっと沢山知っているのであろうという予測を生まれさせる。それは一層のこと彼女を輝かしい存在として私に認識させるに至る。
『自分を守るということは本能であるし、必要なこと。例えば自分を殺そうとして来た者がいたとして、それを殺しても罪には問われない。正当防衛になる』
「それは少し聞いたことがあるかもしれない」
『これこそが自己防衛本能が強く働く瞬間。でも、人間は毎日、その本能を働かせているの。本当はね。程度の違いに過ぎないのよ』
「物知りだね」
『あなただって小学四年生にしては聡いと思う』
「そうかな。良く分からない」
良く分からない。それは正直な気持ちだった。確かに私には、早く大人になりたいという強い願望があり、その為と思い、学校の勉強には積極的に取り組み、多く読書をすることを心掛けている。
だが、今の私には勉強と読書以外の方法が思い当たらないというだけに過ぎず、最近ではそれらの行為に気休めめいたものさえ感じられるようになってしまった。焼け石に水のような。私は、もっと具体的、かつ、確実な方法で大人に近付きたい。毎日は連続した活動写真のようで、水流のように緩やかに弛まなく流れているように思える中、それは目に見えない熱源となって私の足先からをじりじりと焼いているようにも思えた。
「ねえ」
ふと私は彼女に呼び掛けて気が付く。私はまだ彼女の名前を知らないことに。
「名前、何て言うの?」
『聞くの遅いわ』
半ば呆れたように彼女は言った。
「ごめん」
『名前、付けてくれる?』
「無いの?」
『失礼な物言いね』
「あ、ごめん」
『謝ってばかりね。良いから付けて』
名前。急に言われたところで思い付くわけが無いと内心で私は慌てたのだが、少しばかり機嫌を悪くしたように思える彼女のそれを回復させたいこともあって、私は懸命に考えを巡らせた。彼女に相応しい、似合う名前を。
「小さな姫君、はどうかな」
いつもの帰り道を辿りながら私は告げる。まるで、その「いつもの道」が急激に彩色されたかのような錯覚を覚えてしまうくらいには、私は自分自身に高揚を感じていた。しかし、予想に反し、返す彼女の言葉は少々、冷たかった。
『それは代名詞よ。固有名詞じゃないわ』
「え?」
『名前は人名、固有名詞のはず。今、あなたが言ったのは、私だけに当て嵌まるものではないでしょう?』
彼女の言っていることは何となく分かったが、それでも私はせっかく考え付いた名前を諦め切れずにいた。何より、とても良く似合っていると思ったのだ。だが、そんな私の心情を知ってか知らずか、彼女は更に追い打ちを掛けるように言い放つ。
『百歩譲って「姫君」が名前だとしてもよ。「小さな」なんて連体詞が添えられた人名なんておかしいでしょう。「小さな都筑有来」とか、変だと思わない?』
私は僅かに噴き出してしまった。確かに彼女の言う通りである。
『自分でも笑うような法則の名前を付けないで』
彼女は憤慨したように言った。仕方無く私は別の名前を考えることにしたのだが、一度「小さな姫君」が似合うと思ってしまった脳味噌は、そう簡単には考えを変えてはくれない。歩きながら思考しているせいもあるのだろうか。これというものが浮かばないまま、もう自宅が近くなってしまっていた。焦燥が強まる。私は家に帰り着くまでに彼女に名前を渡したかったのだ。
それまでずっと互いに無言だった私達だが、ここに来て不意にぽつりと彼女が口を開き、言った。
『良いわよ』と。
「え、何が?」
『さっきので良いわよって言ってるの』
「でも」
なかなか他の名が思い浮かばないことは事実だが、本人が気に入らないそれを贈るというのはとても気が引ける。名前というものはずっと付いて回るものであるし、やはり気に入っているものが望ましいだろう。普通、人間の赤ん坊は名前を自分で選ぶことは出来無いが、今、こうして選び取ることの出来る彼女には、是非、気に入ったものを選んでほしい。そう思っている内に、幾らかぼそぼそとした声で彼女が言う。
『気に入っていないわけじゃあないの。ちょっと、おかしいかなと思っただけ』
そして黙り込む。彼女には私の心情が分かるのだろうか。だが、私には彼女の心情が流れ込んでは来ない。それでも、その訪れた沈黙の中には照れ隠しのようなものが見えた気がして、私はそんな彼女を可愛らしいと思った。
「小さな姫君?」
『……はいはい』
彼女の意思を確かめるように私が尋ねると、半ば投げ遣りにも取れる声音で彼女が返事をする。やはりそこには照れを誤魔化すかのような響きが含まれているように思えた。私よりも数段は大人びていると感じられる、聡明な彼女の――と同時に少女のようにも思えるのだが――意外な一面を垣間見られたような気がして、嬉しさを覚える。
小さな姫君。私は今一度、その名を心の中で繰り返す。指で辿るように。彼女――小さな姫君は、私の考えた名前を受け取ってくれた。言葉にすれば、ただそれだけの単純な事柄だが、その時の私は、ゆっくりと込み上げる暖かな感情を大切に味わっていた。彼女がそれを気に入ってくれたことが、とても色鮮やかな喜びとなって私の内側から視界を染め上げて行くかのようだった。
だから、家の扉を開けるいつも通りの憂鬱な瞬間も、ほんの少しだけ、この時は和らげられていた。だが、それが棘である現実に差分はない。私は息を詰めて、扉を開ける。
今年で四十三を迎える母との二人暮らしは、正直に言うまでも無く、まさに息が詰まるものだった。台所とテーブルがある部屋、その隣のテレビやソファがある部屋、廊下を挟んで存在する私の部屋、その隣の父が使っていた部屋の四つから成る、狭くも広くもない公共団地の一階の一室。ここが私の帰るべき場所であり、帰らざるを得ない場所だった。
私は、この扉を開ける瞬間がひどく嫌いだ。かちゃりというドアノブの音も、がしゃんという扉の閉まる音も、冷たく、遠く、まるで囚人になったような心持ちになる。誰かに「もう出られないよ」と宙から囁かれているような気がする。
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