第一章【名前】2
ほどなくして、掃除の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。もう何度も耳にし、聞き慣れているはずのそれは、何故かこの時だけは種類が違うように思え、残響がくるりと内耳の底で一巡りする。まるで、今、その瞬間から、それまでとは異なる毎日が始まろうとしているかのような。変化、あるいは決別を示す鐘の音のように、私には思えてならなかった。
掃除道具を片付けて理科準備室を出る。隣室である理科室の掃除にあたっていたクラスメイト達の姿は、とっくに無かった。私は急いで渡り廊下を走り抜ける。窓から差し込む、夕方を間近に控えた太陽の光が、斜めに私に降っていた。
教室に戻ってしばらくすると、いつものように帰りのホームルームが始まった。そして何事も無く終わる。赤いランドセルを背負って黄色い安全帽子をかぶる。そうして今、まさに帰ろうと教室を出たところで、私は担任教師に呼び止められた。
「都筑さん。ちょっとお話したいことがあるから職員室まで来てくれるかしら」
どうやら何事も無く帰れはしないようだった。その内心の思いに反応するように、
『ほらね』
と、どこか得意そうにも聞こえる様子で彼女が短く言った。
担任のその言葉は私も全く予測していなかったわけでは無いので、それ程に驚きはしなかった。しかし、その後に予想される展開に見合う言葉を準備してはいない。
仕方無しに担任の後ろに付いて歩きながら、私はどうしたものかと考えていた。おそらくは職員質で、先程に彼女が言っていたようなこと――つまり、どうしてアンケート用紙に何も書いていないのか――などを尋ねられるのだろう。それに対して私は、一体、どう答えたら良いのだろうか。視線の先にある廊下は掃除を終えたばかりのせいだろう、私の心とは正反対に白く美しく光っていた。私は、それを目でなぞりながら考える。
アンケート用紙を白紙で提出したことについては後悔はしていない。しかし、どれ程に考えても、これから向けられるであろう担任からの質問への回答が思い浮かばない。思い浮かばないまま、私はやがて職員室の扉をくぐってしまう。押し黙ることで時間が過ぎ去るのを待とうかとも思った。けれども、それでは質問責めに合うかもしれないし、何より私自身がひどく疲れてしまいそうであった。あまり得策とは言えないだろう。何より私には、この後に約束があった。ここで時間を取られるわけにはいかないのだ。
あの時、担任の言葉に振り向かず、聞こえなかったふりをして帰ってしまえば良かったのかもしれない。いや、そもそもアンケートに適当にでも答えを書き込んでおけば、こんな面倒なことにはならなかったのだろう。
しかし、それよりも今、考えるべきは、これから来るであろう問い掛けにどう答えるかだ。後悔していないと思いつつも、色々な思考がぐるぐるとメビウスの輪のように際限無く巡る。私は、それらを断ち切る術が分からないまま、ランドセルを下ろし安全帽子を脱いで、担任の勧める椅子に座った。如何にも何年も使われていそうな、古ぼけた灰色を呈している椅子が軋んだ音を立て、その悲鳴にも似た音が私の心情と静かに重なった。職員室には幾人かの教師の姿がちらほらと見える。すぐに、私の目の前の椅子に担任が座った。そして、ほとんど間を空けずして、さっそく尋ねて来る。
「都筑さん。さっきの時間に配ったアンケートについてなんだけれどね。どうして何も書かれていないのかしら。良かったら先生に教えてくれないかな」
予想していた通りの質問だった。私は溜め息を吐き出しそうになるのを堪え、内心で行う。そして、何かしらを言わなければと考えを巡らせる。だが、それはここに来るまでの間、既に試みたことだ。そこでも、現在でも、良い案は浮かばない。じりじりと時間だけが過ぎて行く。私は、いつの間にか心なし俯いていた。スカートの上で両手を強く握り締める。あのアンケートと向き合っている時に右手に感じた嫌な汗と同じものが、それぞれの手の中に少しずつ生じ始めたことを感じた。そんな私を知ってか知らずか、担任が再び私の名前を呼ぶ。
「黙っていたら分からないわ。怒っているわけじゃないのよ。ただ、どうして何も書かなかったのかを知りたいの」
私は心底から困り果てていた。どうしたら良いのか、本当に分からなかった。まるで追い詰められた手負いの獣のように、樹木を背にして後退することも出来ずにいる。困惑と混乱が徐々に、しかし確実に極められて行く中で、今まで沈黙を守っていた「彼女」が私に言った。
『あの時に思ったことを言えば良いのに』と。
あの時。私が心の中で彼女の言をなぞると、それを引き継ぐように彼女は更に私に告げる。
『仲の良い友達、嫌いなクラスメイト。それを聞き出してどうするというのか、どうしてそれを告げなくてはならないのか。そう、思ったのでしょう?』
そうだ。確かに私はそう思った。
『そのまま伝えれば良いだけのことではないの? この人間はそれを知りたがっているのだから』
――そんなことは言えない。
『何故?』
――言えないよ、そんなこと。
『どう思われるかを心配しているの?』
私は黙したままだったが、彼女はそれを肯定と受け取ったようだ。
『この人間に良く思われたかったのなら、たとえ嘘でも良いから回答欄を埋めておくべきだったわね。白紙で提出した時点で、こうなるであろうことは分かっていたはずでしょう?』
私は、またも黙っていた。全て彼女の言う通りだった。
「都筑さん?」
俯き、黙り続ける私を心配してか、あるいは答えを促そうとしてか、再び担任は私の名を呼んだ。私にはその声が、ひどく遠い空の彼方からでも降って来ているように思えた。まるで現実味を帯びていない。
『この人間に良く思われたいのなら弁解すれば良いのよ。私のことを「好きな友達」として名前を書いてくれる子がいるかどうか不安に思った、それを考えたら手が止まってしまった、とか。まるっきりの嘘でもないし。きっと同情して納得してくれる。少しばかり気が弱い子なのね、ぐらいに思って、適度に教師らしい諭すような言葉を告げて。そしてここから解放してくれると思う』
彼女は一度言葉を切り、でも、と続けた。
『それは自分を偽ること。別に悪いとは言わないわ。だけど、あのアンケート用紙を白紙で提出した、それはちゃんとあなた自身の考えに基づいて実行したことではないの? いい加減な気持ちでそうしたのではないことを私もあなたも知っている。それでも、この人間にどう思われるかということを優先したいのなら、私はもう何も言わないわ』
私は、どうするべきかを早急に決断しなければならなかった。今、この場で。
「都筑さん、大丈夫? 気分でも悪いの?」
今度こそ担任は心配そうに私の肩に手を掛け、告げた。その体温が、私にはどうしようもなく気持ちの悪いものに思えてならなかった。いつものように細く高い声も同様だ。私は、やはりあのような問い掛けをアンケートとして撒いた、この目の前にいる女性に憤りを覚えているのだと、この時にはっきりと自覚した。しかしながら、それをどう言葉に換えて良いのかが分からない。
『――仕方が無いから助けてあげる。このままだと約束に遅れるでしょう』
小さな溜め息の後で、少々、呆れ気味の彼女の言葉が心内で響いた。その声に私は思わず顔を上げる。職員室の中央の壁に掛けられている時計、その長針が、かちりと動いた。時計は、あと一歩で四時半を示そうとしている。担任が、何度目になるだろう、私の名前を呼ぶ。
『話す時は相手の目を見ること。目が無理なら顎の辺りでも構わないわ。それだけでも毅然として見える。声は、はっきり。けれど相手を責めるようなのはいけない。冷静に、感情的にならずに話すこと。それじゃあ、私の言うことを復唱してね』
私は心で一つ頷く。
『まず、相手を見て』
彼女の言う通り、私は担任を正面から見た。おそらく、職員室に来てからは初めてであろう、担任の顔を見たのは。目の前に見える表情は、強い戸惑いと憂慮とを明らかに広げていた。だが私は却って、そこに役者めいたものを感じてしまう。まるで舞台劇のようだと。本当に気遣いの出来る人間が、あのような問い掛けを文章に起こすはずがないと。そう、私は意識の底で理解していたのだ。
『アンケートに何も書かなかったのは意図が分からなかったからです』
「アンケートに何も書かなかったのは意図が分からなかったからです」
私は正しく彼女の言葉を復唱した。
「どういうこと?」
それを受けて担任の顔が先程よりも、曇る。
『あのアンケートは何の為に実施したのでしょうか?』
「あのアンケートは何の為に実施したのでしょうか?」
「何の為って、それはクラス全体の雰囲気を知る為よ。みんなが普段、どんな風に過ごしているのかを知りたかったの」
担任は如何にも、もっともらしく教師らしい口調でそう言った。しかし私にとっては、到底、納得出来得る答えでは有り得無かった。
「でも」
私は、はっとして口を閉じた。彼女が話し出す前に言葉を紡ぎ始めてしまったことに気が付いたからだ。だが、彼女がそれを言い咎めることは無く、むしろどこか愉快そうに小さく笑った。
『もう大丈夫ね。くれぐれも落ち着いて話すのよ』
そして彼女は黙ってしまった。私はそれを正直に言うと心細く思ったのだが、既に言うべきことは決まっており、また、ここでやめるつもりは毛頭無かった。私は軽く息を吸い込み、発言を続けた。
「でも、それならもっと別の方法だってあったはずです。本当に私達生徒のことを考えるなら、あんなに残酷な質問は出来無いはずです」
「残酷って……私は、みんなのことを知って、これから更に良いクラスにしていこうと思ったの。だから、あのアンケートに答えて貰ったのよ」
その諭すような口調が、余計に私を苛立たせる。まるで私は何一つ間違ったことなどしていないという口調。あたかも生徒に正しさを説くかのような声音。尖り切った黄色の色鉛筆の先端のように、ただ一色に染まっている声の高さ、そこに存在している思惑。だが、その一部は私にも言えるのだろう。私も、私が正しいと信じている言葉を他者に告げているに過ぎないのだから。
「ですから、それなら別の方法があったはずです。私は不安でした。好きな友達の名前を書いても、相手が私を書いてくれなかったら。嫌いな子の名前を書いて、あとで私がその子にぶたれたら。その子が先生に怒られたら」
私と担任教師の間には沈黙が流れ、静寂が互いを押し包む。そう、静寂。いつの間にか職員室内は、しんと静まり返っていた。視界の端々で教師数名がこちらを見ていることが分かった。私は、もしかしたら間違っているのかもしれないと、少しばかり怖くはあった。しかしながら、もう後には引けない。それに、やはり、あのアンケートに素直に回答する気には今も尚、なれない。それが私の答えであり、心情に他ならないのだ。私は目を逸らさず、瞬きすら極力抑えて、ひたすらに担任の目を真っ直ぐに見続けていた。
「都筑さん。あなたを傷付けてしまったのは分かったわ。ごめんなさい」
やがて担任はそう言い、表情を少し柔らかくした。
「いいえ、私は傷付いたのではありません。ただ、あのアンケートは私のプライバシーを侵すものでした。無遠慮なものでした。だから私は記入しなかったんです」
そして再び沈黙が流れる。まるで時間が止まっているかのような緊張と静寂が職員室全体を包み込み、おそらくそこにいる私以外の誰もが皆、こちらに耳を、意識を傾けているであろうことが容易に予測出来た。その折、かちりと時計の針が進む音が響く。それは終局を告げる合図のようでもあった。同じように感じたのだろう、私の内側で「彼女」が静かに言った。この空間を壊さないようにとでもするかのように、とても静かに。
『もう充分でしょう。時に正論は悪意にも成り得る。それに約束の時間が近いわ』
私はその言葉に心から同意する。そこでようやく私は担任の顔から目を外し、乾いた目を労わるかのように幾度か瞬きを繰り返した。安全帽子をかぶり、床に置いていたランドセルを手に取る。
「つ、都筑さん」
慌てたような、少なからず動揺の滲んだ、上擦った声が響く。それは静まり返った職員室内を思いのほか震わせるようにして拡散した。私にはそう思えた。しかし、私はもうここに留まるつもりは一秒とて無かったのだ。
「ご面倒をお掛けしました。失礼します」
歩きながらランドセルを背負う。背中で、教科書とペンケースのぶつかり合う音がした。職員室を出て、扉を閉める。
「疲れた。やっぱり、あの人は嫌い」
『そうね』
私と「彼女」は、きっとその時、同じ気持ちで笑った。そして私達は足取りも軽く、正面玄関へと向かうのみだった。
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