第一章【名前】1
学校というものは往々にして人を苦しめる。それが義務でなければ投げ出すことも出来よう。だが、日本というこの国では、小学校の六年間と中学校の三年間の学習は、国民に義務付けられている。勿論、私にもだ。
その日の五時間目は「学級活動」の時間だった。いつも始業のチャイム音とほぼ同時に教室に入って来る担任教師は、この時もやはり始業開始のチャイムの鳴り始めに重ねるようにして教室の前扉を開けたのだ。
「今日は簡単なアンケートに答えて貰います」
担任の登場と共に静かになっていた教室全体が、再び花が開くようにざわめきを生む。私も少しばかりの興味を持ち、担任が持っている白い紙束を見つめた。
「難しく考えないで正直に書いてね」
座席の一番前に座る生徒それぞれに用紙が渡され、順繰りに後ろへと回されて行く。前から三番目に座っていた私にもやがて用紙は渡り、残りを後ろの席へと回した。
「上に名前を書くところがありますね? 忘れずに名前を書いて、下にある質問に正直に答えていってください。思ったままの答えをね」
担任教師の声は、ほとんど常に高く鋭い。この時も例外ではなく、そして私もまた例外なく、その声の音に辟易を覚える。正直に言うと耳障りであった。いつまで経っても私がそれに慣れることは無く、卒業を迎えるその日まで、終ぞ私が許容をすることは無かった。鋭角な刃物、あるいは細く硬いピアノ線を思わせるその声は、「正直、思ったまま」というところを心なしか強調したように思う。
『四年二組
私は名前を書き、そのまま下にある質問内容を見る。
――仲の良い友達は誰ですか? 三人まで名前を書いてください。
次の質問を見る。
――あまり好きではない友達はいますか? いたら三人まで名前を書いてください。
更に次の質問をも見る。
――あまり好きではない友達については、どうしてそう思いましたか?
私は、鉛筆を固く握ったまま氷になったかのような心持ちでそこにいた。一番最初の質問に目を戻し、そこからまた順に三個の質問を読み返す。だが、読み返したところでそれが変わるわけも無く、また、私の心情も変わるわけが無かった。用紙を睨む。暗い緑に染まっている鉛筆と手のひらとの間に、いつの間にかじっとりとした嫌な汗が滲んでいた。
私は皆の様子が気になり、少しだけ顔を上げて周囲の様子を窺う。そこには、それぞれに真剣な顔付きで鉛筆を動かし、アンケートに取り組むクラスメイト達の姿が、整然と、当然のように存在していた。
「急がなくて良いからね。この時間までに書き上げてくれれば良いから」
机と机の間の通路を歩きながら、担任教師が生徒の様子をまるで監視でもするかのように見ている。不意に顔を上げていた私と担任の目が、かちりと合った。私は慌てて下を向き、鉛筆を持ち直す。右手の内側には、鉛筆の持ち手の形に、くっきりとした跡が付いていた。
アンケート用紙が配られてから十分程は過ぎたのだろうか。しかし私は、未だどの質問にも答えられずにいる。私は、ひどく困惑していた。仲の良い友達がいないわけでは無い。嫌いなクラスメイトがいないわけでは無い。だが、それを聞き出してどうしようというのだろうか。私が友達と思っているクラスメイトの名前を書いても、相手もそうしてくれるとは限らない。私が嫌いなクラスメイトとして名前を書いたら、あとでその子は担任に怒られるのだろうか。もしかしたら私が書いたと相手に知られて、私がぶたれたりするのかもしれない。
何故、皆は躊躇うことなく、これを書けるのだろう。向き合えるのだろう。何故、担任教師であるだけのあの大人に、私の交流関係を明らかにしなくてはならないのだろうか。
私は今度こそ、氷のように冷たくなった。動けなくなった。ややあって何となく右手を広げてみると、またも力強く握ってしまっていたらしく、鉛筆の跡が、先程の跡に連なるようにして、しっかりと刻まれていた。私は、ぼんやりとその跡を見つめる。どうしたら良いのだろう。このまま時間が過ぎ去るのを待とうかとも思った。だが、真っ白なアンケート用紙が、先に私が睨み付けた仕返しのようにして私を責めるかの如く物言わず、じっと睨んでいるように思えて、やはりこのまま何も書かずというのは罪悪感が残る。だが、何をどう書けば良いのか分からない。思考が行ったり来たりを繰り返すだけで少しも進みを見せない。進むものは時間ばかりだった。
――「彼女」が囁いたのは、その時だった。幼い私の幼い脳味噌が困惑と混乱で満ち満ちた、まさにその瞬間をまるで狙ったかのように、彼女は私に言葉を掛けた。
『早く書かないと時間になるのに、一体、何をしているの?』と。
心臓の音が一際強く、大きく鳴ったように思えた。私は再び周囲を窺うように左右をちらちらと見たが、誰も会話など交わしていず、先程同様にアンケートに取り組んでいる。現実逃避したいがあまりに幻聴でも聞こえたかと思い、私は視線を元に戻す。しかし、そうして私がアンケート用紙で視界を埋めた途端、またもその声は響いたのだ。
『もう一回だけ聞くわ。何をしているの? 白紙で提出するつもりなら止めないけれども』
決して気のせいでは無かった。確かに声が脳裏で廻るようにして聞こえている。しかしながら誰も話をしていない。私は突然の出来事によって与えられた不安と緊張を大きく抱え込み、思わずまたも鉛筆を強く握り締めた。
『心拍数が上がった。そんなに驚かなくても良いのに。それより、今はそのアンケート用紙を何とかすることが最優先事項じゃないかと思うんだけれど、どう思う?』
その声が指摘した通り、私の心音は自分で良く分かる程に速度を増して打っている。だが、私に不安と緊張はありこそすれ、恐怖は無かった。説明は出来無い。けれども、ともすればほんの微かではあるが、それは懐郷に似た感情を心の奥底から湧き起こす、呼び起こすように思えた。その遠い昔日の甘さを掻き消すようにして、更に声は私に問い掛ける。
『あと十分しかないのよ。良いの?』
――良い。
私は、ほとんど反射的に返事をしていた。
『意外に豪胆なところもあるのね。でも、賛成。こんな質問は愚の骨頂。プライバシーの侵害。いくら何でも小学生だからって馬鹿にしているとしか思えないもの』
私は心から同意した。
やがて時計の針は進み、五時間目の終了を告げるチャイムの音が高らかに教室内に響き渡る。アンケート用紙はそれぞれ裏返され、席列の最後尾の人が順に回収して行く。全ての用紙が担任の手に渡ると、いつもの調子で彼女は言った。まるで何の問題も無い、当然のような調子で。
「はい、みんなありがとう」と。
間を空けずに終業の挨拶をして、担任は心なしか満足そうにアンケートを抱えて教室から出て行った。私は、何故かその姿を見送ってホッと息をついた。それはまるで、大きな災厄がようやく去ったような、そんな気分だった。
私は、ふと自分の心の内側に意識を向けてみる。しかし、先程に聞いた声はうんともすんとも言わなかった。だが、聞き違いとは決して思えない。もしも幻聴であるならば、私は幻聴と会話を成立させたことになるだろう。
――結論から言えば、その思考は杞憂に終わる。この日の掃除の時間中に、またも同じ声が私に話し掛けてきたのだ。
『ねえ。さっきのアンケートのことだけれど。きっと担任に呼び出されるでしょうね』
声には揶揄の含みがあり、ふわふわと軽く宙を舞う花びらのような印象を持たせるに至っていた。少なくとも私にとってはそう聞こえた。
私は一人で黙々と理科準備室の掃除をしていた。そこには所狭しと色々な物が置かれ、準備室というよりも物置のような様相を呈している。小さな部屋にも関わらず、古びた木製の机が三台も置かれている為、床に関しては見えている面積の方が少ない程だった。私は、その床を出来る限り箒で掃いた。少々、埃が舞う。症状の程度が低いとはいえ、喘息を持つ私にはあまり好ましくない状況だ。その間も、声は話を続けている。
『おそらく、こう言われるんじゃないかしら。「どうしてアンケートに何も書いていないの。何か理由があるなら先生に教えてくれる?」って』
床を掃き終えた私は、うっすらと埃をかぶっている机や椅子、鏡や実験器具などの空拭きに取り掛かる。
『何か対策、考えてあるの? 絶対にしつこく聞いてくると思うけど。悩みがあるなら話してちょうだい、とか』
壁に掛かった丸い時計を見上げると、掃除の終了時間まであと少しとなっている。私は手早く空拭きを進め、ある程度は綺麗になったであろう理科準備室を軽く見回す。そして思わず、小さく溜め息をついた。
「誰?」
実際に声に出して、私は姿も見えない「誰か」に尋ねる。どうせここには私しかいないのだから構うことは無いだろう。
だが、それ以前に私は少なからず不安を覚えていた。確かに先程の授業中、私は、その声に微かではあるが懐郷に似た感情を見出した。それは、今、こうして聞こえている声にも覚え続けている。しかしながら冷静に考えてみるに、幻聴ではないかという思いの方が遥かに強い。私は、未だかつてそのようなものを自覚したことは無かったが、今までに一度も無かったからといって今後も無いとは限らないし、物事や事象の全てに何らかの前兆が存在するとも限らない。事のほとんどは唐突に生じ、そして、それらを受け止めるだけの充分な準備が出来るとも限らないのだ。
『誰、か。がっかりね』
やはり私の問い掛けに応える声がある。しかし、その声音は今までと比べて深い溜め息のような悲嘆に満ちており、落胆していることが明らかだった。私は幼心にも自分がひどく残酷なことを言ってしまったのかと思い、理由も良く把握していないままではあったが、反射的に謝罪の言葉を口にしていた。
「ごめん」
『……忘れても無理は無いけど。でも、がっかり』
「ごめん」
『それしか言えないの?』
「他にどう言ったら良いか分からないから」
『まあ、良いわ。こうして話が出来るんだから。忘れてしまっているかもしれないけれど、私達は今までにだってこうやって話はしてきたの。本当に覚えていないの?』
嘘をついているようには思えなかった。少なくとも私には。それに先程から生じている自身の懐かしさめいた感情が、その発言の裏付けをしているように思えて、私はその言葉を無碍に否定する気にはなれなかったのだ。
ただ、明確な思いでは無い。懐かしいとは言っても、記憶の川の奥底、もう目には見えない忘れ去られた川の底で、あたたかい泥に包まれて眠っている記憶を思い起こすような、それは遠く不確かな感触に過ぎない。本当におぼろげで頼り無く、不確実なものだ。すると、まるで思考を読み取ったかのようにして、その声は私に告げた。
『小さい頃の記憶なんて、曖昧で、かつ、不確かなものよ。だから覚えていなくても仕方無いの。だけど、少しでも懐かしいと思ってくれたんでしょう?』
私が肯定すると満足したように彼女は言った。
『それなら良いの』と。
そう、声は女性のものだった。成人した女性のようでもあり、少女のようでもある、そのはっきりとした声の高さ、口調、音。それらはひどく澄んでいて意思の強さが感じ取れた。高い声とは言っても、担任教師のような耳障りなものでは無い。むしろ、凛とした、耳に心地好いものだった。加えて、落ち着いた声で、彼女は私に言う。
『私は有来の友達』だと。
「友達?」
『そうよ。小さな時から一緒だった。思い出さなくても構わない。でも本当のことなの』
まるで姉のようだと、私はこの時に思った。私に姉弟はいないが、きっと姉がいたらこのような感じではないだろうかと。説得力を持つ声の深さ、包むような慈しみ。それらが混じり合い、緩やかな安堵を自然と私にもたらす。
「うん、ありがとう」
与えられた安堵の大きさからなのか、私は不意に、そう口にしていた。また、その感覚が、彼女の存在感をゆるゆると明確にして行く。
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