16 乖
半端な知識しか持っていなかったとしたら、ぼくは自分の精神障害が実は乖離ではなくて統合失調症だと思ったかもしれない。あるいは半端な知識を持っていたがために自分の疾患を統合失調症だと判断してしまったかもしれない。何故かといえば、自分の頭の中で他人の声がするのは統合失調症の代表的な症状だったからだ。頭の中で声がして、それが何かにつけて捕えた者の思考を妨害するのだ。しかし統合失調症の場合、その声は謎めいていて威圧的であり、例えば「テレビがわたしに○○さんを殺せと言う!」などといったようにその声を聞いた張本人に何かを強制的に行わせようといった類の声であり、明らかに自分の外側から聞こえてくる。だが乖離の場合はそうではなくて、どちらかといえば自生思考であって、頭の中に次から次へと考えが浮かんできてそれが自分でまったく止められなくて手がつけられなくて頭の中が一杯になってしまってどうすることも出来ないといった類の声なのだ。もちろん、ぼくが聞いたのはそのどちらでもなく――あるいは自分が狂っているがために声を聞いたという前提に立てばそのどちらかなのかもしれないが――声には意味があり、また明らかにぼくに向かって語られていたように思える。
こういうときにはつくづく自分が雑誌記者であって本当に良かったとぼくは思う。自分の理想と現実の狭間に落ち込んでいたその昔のぼくを拾い上げ、曲がりなりにも一般誌の雑誌記者として育ててくれた村上卓はその意味でもぼくの命の恩人と言える。その村上に命令されて自分の知らない知識を、あるいは聞いてはいても生半可しか知らなかった知識をそれこそ山のように自分の頭の中に詰め込んだことが今回の場合、少しは役に立ったようだ。
おそらく、ぼくに聞こえてきた声はパラメトリックスピーカーを用いてぼくに指向するように当てられた音声なのだろう。
パラメトリックスピーカーについて簡単に説明すれば、超音波を用いることで鋭い指向性を持たせた音響システムであって、今回の場合のように狭い範囲にいる人間に選択的に音を聞かせることができるスピーカーとでも表現すればわかってもらえるだろうか? またの名をオーディオ・スポットライトあるいはハイパーソニック・サウンドともいう。パラメトリックスピーカーには、大きく分けて二つのタイプが存在して、ひとつは二つの超音波の周波数のずれを用いた方法で一定の周波数を持つ超音波とAM変調をかけた超音波を同時に発生させて、超音波の交差する空間に可聴域の音を再生する方法であり、その方法を使って二つの超音波の周波数差のうねりを聞かせるものだ。そしてもうひとつの方法は超音波に幾種もの変調をかけることによって達成される。一一〇デシベルを超える強い音圧で変調された超音波を発生させると空気中を超音波が伝播する際の非線形特性によって可聴音が出現する。超音波に限らず、空気中を伝播する振動は空気分子集団の濃淡が伝播することに起因するので、音圧が高く周波数が高い場合、圧縮されて戻り切らない空気分子に後から来た空気分子が衝突することによって衝撃波が生じ、可聴音となるのだ。纏めると、パラメトリックスピーカーは超指向性を持ち、またその音声は対象となった本人のごく近く、例えば耳元から聞こえてくるという特性を持つということになる。
ということで、まだ誰かはわからないがぼくに語りかけてきた誰かはパラメトリックスピーカーを用いることによってアメリカ軍関係者を出し抜こうと考えているようだとぼくは推察する。しかし、そう簡単に彼らを出し抜くことができるかどうか? というのは、この技術は元々アメリカの民間会社で開発されてはいたが、開発後直ちにアメリカ国防総省の国防高等研究計画庁に関心を持たれ、軍のプロジェクトとして推進されたからだ。ソニック・プロジェクターと冠せられたアメリカ軍の計画の目標は、他人には聞こえない音声を一キロメートルほど離れた場所にいる特殊部隊に聞かせることで、その技術を用いて人質救出作戦を有利に展開したり、また敵に物音を聞かせて誰かが傍にいると錯覚させるなどしてその活動を混乱させたりすることだという。
「上原さん、あなたとお話がしたいのだが……」
そしてまたぼくの耳に声が聞こえる。
「われわれは政府関係者ではない。もちろんアメリカ軍と関係するものでもない。われわれは言うならば真実の探求者だ。どうか我々の話を聞いて欲しい。そしてあなたの話を伺いたい」
声は先ほどと同じようなメッセージを繰り返している。だが、ぼくは――そして声の送信者も――ぼくの声を同じ方法で相手に返す手段を持たない。だから声の送信者にはぼくに自主的行動を促させる必要がある。
「上原さん、聞いてください。そしてわたしの声が聞こえるならば、そのまま不審な行動は取らないでください」
声は言って、とりあえずぼくはそれに従う。
「その先の地下鉄の階段を降りて、右に曲がってください。歩く速度は同じです。いまの速度で歩き続けてください」
声は言って、とりあえずぼくはそれに従う。ぼくの目の前に中川クリニック最寄り駅の地下鉄の階段が迫る。声に促されようが、促されまいが、ぼくはこれからその階段を降りる予定でいる。よって、ぼくはその階段を降りる。アメリカ軍関係者の気配はない。しかし本当にこんな簡単な方法でアメリカ軍関係者を出し抜けるのだろうか? ぼくはつい不審な表情を浮かべる。つまり歩道を歩いていれば近くのビルの上からでも超指向性の超音波を出す特殊なスピーカーをぼくに向ければ良いので、前もってその場所を知らなければ、それはそれほど目立つ行為と言えないだろう。だが一旦地下道に入った後で、おそらくは複数あるだろうそのスピーカーを複数の誰かがぼくに向けるとすれば、それはあまりにも目立つ光景となるに違いない。奇怪なほどに目立つ光景に…… それともそうではないのだろうか?
階段の角で蹴躓いて無様に転ばないように気をつけながらゆっくりと確実に階段を降りながら自分と擦れ違う人たちを観察してみると、皆一様に携帯電話かゲームモバイルを手に持ちそれを睨みながら歩いている。携帯電話かゲームモバイルを手に持ちそれを睨みながら平衡感覚良く皆が歩いている。とするならば、携帯電話かゲームモバイル程度の大きさのパラメトリックスピーカーを作ることが技術的に可能であれば、先にぼくが抱いた疑念は解消される。まったく不可能というわけでもなくなるだろうとぼくは思い当たる。
「階段を右に曲がったらその先のコンビニエンスストアに入ってください」
その証拠にぼくに声が届いている。ぼくの周りにいる人たちには特に誰かの声を聞いたというような表情の変化はない。すなわちその声を聞いているのはぼくだけというわけだ。そしてぼくは階段を降り切って、とりあえず声に従って地下の通路を右に曲がる。そして赤とオレンジと緑のマークが輝いているコンビニエンスストアを見る。それが嫌でも目に入る。
「コンビニエンストアに入ったら喉飴を買ってください。とりあえず今日わたしたちに出来ることはそれだだけです。上原さん、今日あなたに望むことはそれだけです。では、またいずれ」
そういって声が聞こえなくなる。アメリカ軍関係者に守られているという安堵感からか、ちょっとした冒険のような展開に密かにワクワクしていたぼくの期待はそこで裏切られ、思わずがっかりしてしまう。だからそこから先の自分の行動をぼくはぼくに接触してきた誰かに捧げる必要はなかったわけだが、あのときアメリカ軍の軍用ヘリコプターの中で山下理緒菜に貰った喉飴のことを思い出して、ぼくはそれを買おうという気になる。店内に入っても何の指示もなかったので適当に棚を探し、あのとき山下理緒菜がぼくに与えてくれたものと同じ銘柄の喉飴を買って代金を払って店の外に出る。そしてそれをいつも背負って持ち歩いている手持ち鞄にもなる簡易リュックサックの中にしまうと、地下鉄の改札を目指してぼくは歩く。何となく芝居がかった足取りでぼくが歩く。ぼくがついさっきまで聞いていたのが本当にぼくの妄想ではなかったのかと訝りながら、地下鉄の改札を目指して歩いて行く。
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