15 狂
中川精神クリニックの中川平信医師をぼくに紹介したのは、ぼくの高校時代からの友人の村瀬靖典だったが、彼が日本国政府の――あるいはそれとはまったく無関係の――諜報機関に関わっているとはぼくには思えない。偶然か必然かは不明だが、中川医師が最初からそういった活動に携わっていたか、または誰かが中川医師にそれを要請したのだろうと思うしかない。中川医師が拒絶できないような何かの条件を提示して、または中川医師を社会的に抹殺してしまえるような何かの情報で脅して…… それともそうではないのだろうか?
人工衛星の落下以来、そしてアメリカ軍のミッションに同行して以来、ぼくは自分の精神が狂いはじめていることを感じないわけにはいかなかった。だが、最初に精神科医を訪れるには結構高い敷居がある。それでああでもないこうでもないとひとり思い悩みながら雑誌社の帰りに行きつけの六本木のバーで山下理緒菜の同行を無碍に断ってひとりきりで飲んでいたとき不意に村瀬靖典が現れる。こちらは終わりもはじめもない堂々巡りの複数の考え事をしていたので普通に考えれば彼が店に入ってきたことに気がつくわけがないのだが、何故か倦んだ思考の切れ目にふと店の入り口を眺めやったぼくの視線が村瀬の姿を捉え、「はて、どこかで見たことがある奴だが一体誰だっただろう?」と考える間もなく彼の方がぼくの座ったカウンター席の方に近づいてきて、不躾にもぼくの目の前で眼鏡を外すとぼくの顔をしげしげと見つめ、それからにやりと不適に微笑むと「よう、上原!」とぼくに向かって声をかける。もちろんそのときまでにぼくは彼が高校時代からの付かず離れずの友人の村瀬靖典だと思い出していたので「ああ、村瀬か。久しぶりだな」と返答し、続けて「いつ東京に戻ってきた」「戻ってきたんじゃなくて韓国から本社までの出張だよ」「頭の良い奴は大変だな。いつまでも海外に派遣されていて……」「まあ、確かにおれはお前よりは頭は切れるがね」などと、最後に彼に会ってからの数年が嘘のように消え去った会話が続き、やがて何がきっかけだったか忘れたが、互いの近況報告に入り、ぼくがぼくの近況を告げ、彼が冷静にそれを聞き流してくれて、ぼくが話の流れで「一遍精神科医に見て貰おうと思うがどうだろう?」と弱音を吐くとすぐさま村瀬が「実は東京に残している妻の精神状態が不安定で……」という結構深刻な打ち明け話になり、その際彼が「いまは精神科に通う敷居はそんなに高くはないよ。もしそれがあるとすれば、それはお前自身の気恥ずかしさだけだろう」とぼくの踏んでいる二の足を一歩押し進めてくれて、さらに最終的に彼が奥さんの通院先に選んだ中川クリニックを紹介してくれたのだから。
そんな経緯でぼくは――もちろんネットや口コミなどの個人的取材を経てから――中川クリニックの門を叩いたわけだが、村瀬が勤めている大企業はたとえば自衛隊とも外国の軍隊とも繋がりがあり、また村瀬自身の仕事はコンピューター関連のシステムエンジニアだったが、それに関してさえ「口にできない言えないことが多すぎてね」という言葉を過去に数回聞いたこともあり、そう思うと彼がぼくに中川クリニックを紹介したのが既に政府か何処かの諜報機関の策略だったと思えてくるので困ってしまう。ただ仮にもしそうだったとしても、中川の性格からして、自分で納得いかなければそれを拒んだだろうから、ぼくとしては彼との友情は続いているものと信じたい。それともそう思うこと自体、既にぼくは誰かの手中に捕らえられてしまったということなのだろうか?
雑誌記者には休日はないが、それはそこまで仕事に入れ込んでいる人間に関していえることだ。いまのぼくは使えない。いまのぼくは最低だ。いまのぼくは言葉の本来の意味で雑誌記者とはいえない。事情はすべて知っていたので上司でしかも大学の先輩でもある村上卓はぼくを一時的に内部勤務に切り替える。さすがにその程度の仕事はぼくにも出来たが、実は自分でミスに気が付いていないだけなのかもしれない。そんな仕事的にも自分的にも不安定な状態がもう一月あまりも続いている。ぼくと山下理緒菜がアメリカ軍の小隊とともに目撃し、さらにぼくが妻子を一度に亡くした航空機事故現場にも現れた怪物のことは――またそれに伴う瑣末なしかし面倒な諸々のことも――すべて村上に告げていたが、その事件に関する村上からの指示は「いつでも提出できるように纏めておけ」だけであり、それから今日までの間にその指示は更新されていない。アメリカ軍、というよりはアメリカ政府関係者から直接村上に働きかけがあったのか、あるいは単に村上の独断なのか、ぼくにはまったく見当がつかない。村上編集長はあの事件以降も事件以前と何ら変わらぬ冷徹さとそれと通低する諧謔精神で自身の雑誌を切り盛りしている。
世間は事件で一杯だ。大小構わずそれらは溢れ、絡まりやがて消えて去ってゆく。よって、人工衛星落下事件は既に世間からは忘れられた事件である。いまに至るも、警察・消防、自衛隊、アメリカ軍によって奥多摩湖と雲取山頂と太平山頂を結ぶ三角領域内部の半径十数キロメートルは厳しい監視が行われていて、その真の理由もいまだは報道されてはいなかったが、世間はそんな絵空事よりも芸能人のゴシップや若い人気女子グループの枕営業の噂の方に関心があるらしく、人工衛星落下事件のことを憶えているのは実際に商売に影響を被っている地元観光団体と山好きの人間たちくらいだと思える。
本日は休日だったが、中川クリニックを出て、遺骨のない妻子の骨壷の待つ家に帰ろうか、それとも雑誌社に顔を出そうかと迷いながら最寄りの地下鉄駅まで歩みを進めていると背後に強い気配を感じる。それで気になって振り返るが特に怪しいと思える人影はなく、どちらかといえば怪しいとはとても思えないような人の群れがあるばかり。やれやれ、今度は視線恐怖の症状まで現れたかと諦めたようにそう思っていると、やはり背後に鋭い視線がある。それでアメリカ軍の誰かだろうと無理やり考えてみるが、これまで彼らの監視にぼくは気づいたことがない。あのときのライス空軍中将の言葉通り、ぼくと山下理緒菜には常時彼らに見張られているのだろう。そうには違いなかったが、そこはプロの仕事、何か異常事態でも起こらない限り、彼らはぼくたちの前には姿を現さない、ぼくたちにとっては透明人間のような存在だ。これまで数回厚木基地で怪物に対応するための会合を持っているが、その報せも電子メールで送られて来る。見知らぬ誰かと擦れ違いざま不意に掌を開くと秘密指令が握られていたなどということは起こらないのだ。例えば、ぼくか山下理緒菜が秘密裡に命を狙われることがあったとして、それが実際に実行されていたとしても、事が起こる以前に彼らは迅速にその実行犯を拘束して犯行を未然に防ぎ、そしてぼくたちは何らそれを知ることなく帰路につくのだろう。だが――
「上原さん、あなたとお話がしたいのだが……」
突然、ぼくの耳に声が聞こえる。
「われわれは政府関係者ではない。もちろんアメリカ軍と関係するものでもない。われわれは言うならば真実の探求者だ。どうか我々の話を聞いて欲しい。そしてあなたからもお話を伺いたい」
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