14 誰

「あなたは誰ですか? 上原さんですか? それとも別のどなたかですか?」

 本来精神障害の一症状である乖離には詳しくないはずの中川医師が突如現れたもうひとりのぼくに向かって冷静に対応する。その対応に感心しているぼくがいる。その対応に不快を感じているぼくがいる。

「わたしは上原祥の一部ではありますが上原祥本人ではありません」と突如現れたぼくの中の誰かが言う。「上原はいま深刻な心のダメージを負っています。あなたの……いや、あなた方がこれから行おうとしてる質問は上原の精神状態を安らぎから遠ざけてしまいます。不安や惑いの中に落とし込んでしまいます。だから、わたしからあなた方にお願いします。どうか、いま上原に対するご質問はお控えなさってください」

 それに答えて中川医師が言葉を紡ぐ。

「仰ることはわかりました。だが、わたしたちも情報を必要としているのです。これまでのところあの事件以降、日本や世界に大きな変化は生じていません。ですが、この先もそうであるという保証はどこにもありません。よって問いますが。しばらく時が経って上原さんの精神が安定状態を取り戻されたら、彼はわたしたちに情報を開示してくれるのですか? その点について教えてください」

「その質問に対する回答は現在のところありません。わたしにいま答えることができるのは上原の心の状態だけです。繰り返しますが、上原は現在深刻な心のダメージを負っています。よっていま現在、あなた方のご質問に上原はお答えすることができません」

「では上原さんに代わってあなたに尋ねてみることにします」

「はい、どうぞ!」

「まず、あなたのお名前は?」

「現在のところ、わたしには名前がありません。わたしの有り様は人格乖離障害の分類からいえばイマジナリー・コンパニオン(想像上の友だち)に分類されると思いますので、その頭文字を撮ってICとでもしておいてください。あるいはイコンとでも……」

「ICさんかイコンさんですか? 了解しました。では最初のお名前を取ってICさん、あなたは上原さんがアメリカ軍小隊とともに目撃された内容についてご存知ですか? それともご存知ありませんか?」

「上原の精神障害の主原因は航空機事故による妻娘の死ですが、彼がアメリカ軍とともに体験した一連の出来事もその症状に少なからず影響を与えているようです。通常ならば精神病患者は己の人格を分離させて交代人格を作り出し、その交代人格に主人格である自分を救うためにトラウマとなった記憶を引き継がせます。そして同時に主人格からはその記憶が失われます。だが今回の場合、上原は交代人格を作り上げはしませんでした。その代わりにわたしというイマジナリー・コンパニオンを作り上げて自身の精神状態を守ることにしたのです。よって、わたしには上原が本来持っているはずのその記憶はありません。その記憶は上原が継続して引き継いでいます」

「なるほど。本来ならばこのような精神の危機的状況では主人格のトラウマを引き受ける交代人格が登場するはずなのに、上原さんの精神はそれとは別の対応をした。それであなたには上原さんのトラウマとなった記憶が引き継がれていない。そういうことですね」

「はい。基本的にはそういうことです。ただし精神病理学的な詳細については、精神科医ではないわたしには手に負えません。専門家ではないわたしには、わかりかねます。よって誠に遺憾ながら、わたしにはあなた方に上原の見た光景をお話しすることはできません」

「わかりました。そのことはわたしたちに双方にとって非常に残念なことだとは思われますが、まあ、致し方ありますまい。……ということは、もうこれ以上の対話は望めないということになりますな。本日の催眠療法は残念ながら、これで終わりということになります。ですがその前にICさん、何か仰っておきたいことはございませんか?」

「いえ、特にありません」

「そうですか。では、これから上原さんをこの場所に呼び戻します。それともあなたの方でその工程を行われますか?」

「中川先生に誘導していただいた方が確実だろうと思われます」

「わかりました。ではICさん、さようなら。上原さん、出てきてください」

「はい」

「あなたは上原さんですか?」

「はい。ぼくは上原祥です。間違いありません」

「上原さん。あなたに対する今回の催眠療法は終了しました。わたしはこれからあなたの催眠を解こうと思います。ですが、あなたの心のリラックスした状態は維持したいと考えています。あなたはそれに異存がありますか?」

「いいえ、異存はありません」

「お返事を確認しました。それでは催眠から覚醒した際にあなたはとてもリラックスした状態で目覚めます。心と身体にまったく不安のない状態で目覚めます。心と身体に何ひとつ緊張感のない状態で目覚めます」

「はい」

「ところで、その前にひとつだけ質問させていただけませんか?」

「どうぞ。構いませんが……」

「ありがとう。では伺います。上原さん、あなたにはこれまでの催眠療法の最中に、あなたのイマジナリー・コンパニオンであるICさんの存在を感じられましたか?」

「はい。ぼくには彼の存在が感じられました」

「では重ねて伺いますが、彼の存在が感じられたのは本日がはじめてのことですか? それとも本日以前からのことですか?」

「それについては大変お答えし難いのですが、当初ぼくは彼がぼくの心の中から現れたのは今日がはじめてだと思っていました。けれども先生と彼の会話を聞くうちにぼくの中に徐々に記憶が蘇ってきたのです。当時はもちろんICともイコンとも名乗っていませんでしたが、子供の頃、確かにぼくにはイマジナリー・コンパニオンがいたはずです。彼は確か『スリー』――三を意味するthree――という名前でぼくに呼ばれていたと記憶しています。何故彼がスリーだったのか、またそれに先立つ「ツー」がいるのかいないのか、ぼくにはわかりません。しかし、少なくともスリーは子供の頃にぼくの友だちだったはずです」

「わかりました。上原さん、貴重なお話をありがとうございました。それではあなたの催眠を解きます。わたしが両手をパンと打ち鳴らしたとき、あなたはとてもリラックスした状態で目覚めます。準備はよろしいですか?」

「はい。準備は出来ています」

「お返事を確認しました。それでははじめますよ」

 パン!

 中川医師の両手がそう打ち鳴らされて、ぼくの耳がその音を聞く。ぼくの耳がその音を聞いて、ぼくの目蓋が開く。ぼくの目蓋が開いて、ぼくはこの世の中に戻ってくる。苦悩に溢れたこの世の中に戻ってくる。愛に溢れたこの世の中に戻ってくる。イマジナリー・コンパニオンの存在感は消えている。ぼくの中の何処にも彼のいる感覚はない。そうやってぼくはこの世の中に目覚めていく。苦悩と愛に溢れたこの世の中に目覚めていく。

「上原さん、ご気分はいかがですか?」と中川医師がぼくに問う。

「ありがとうございます。大変リラックスしている感じがします」

「そう、それは良かったですね。では確認のためにお尋ねしますが、あなたは催眠中のわたしとの会話を憶えていますか?」

「はい。憶えていると思います。ただ、その記憶に欠損があったとしても、ぼく自身にそれを確認することはできないと思いますが……」

「ええ、それはそうですよね。わかりました。では、これで今回のわたしとあなたのセッションは終了です。お疲れさまでした」

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