13 静

「上原さん、目を閉じて。お気持ちを楽にしてください。はい、そうです。ご気分を安静に保ったままで、はい一回、深呼吸してください。そうです、はい。では、もう一回、ゆっくりと…… さて、上原さん。あなたはこれからわたしが手をパンと叩くと、とてもリラックスした状態に入っていきます。いまよりもっとずっとリラックスした状態に入っていきます。まるで緊張感のない状態に入っていきます。わずかの不安もない状態に入っていきます。自然のままに心と身体が落ち着いた状態に入っていきます。良いですか? よろしいですか? ご用意はよろしいですか? それではいきますよ。手をパンと叩きますよ。パンと打ち鳴らしますよ!」

 パン!

 そしてぼくは中川平信医師の両手がパンと叩かれる音を聞く。中川医師の両手がパンと叩かれる音を聞いて、すぐさま気持ちが楽になってくる。すぐさま気持ちが楽になってきて心も身体も弛緩してくる。心も身体が弛緩してきて心と身体がユルユルに融けて、これまでずっと続いてきた緊張感が嘘のように融けていく。これまでずっと続いてきた緊張感が嘘のように消えてなくなってくるのが実感できる。自分がそういった状態に入っていくのが実感できる。

「上原さん、あなたはいま大変落ち着いた状態の中におられます。落ち着いた気分を保った状態に置かれています。それに間違いありませんね。それに間違いなかったならば、「はい」と普通の声でわたしに返事をしてください」

「はい」

 ぼくは中川医師に「はい」と返事をする。普通の声で中川医師に「はい」と返答を返す。

「お返事を確認しました。上原さん、あなたはいま完璧に落ち着いた状態におられます。よって、これからわたしのする質問にも心が落ち着いた状態で答えられます。これからわたしのするいくつかの質問にとても気持ちが落ち着いた状態で答えられます。そうですね?」

「はい、そうです、中川先生」とぼくは中川医師に答えている。心が落ち着いた状態で中川医師に答えている。「ぼくはとても落ち着いた状態で先生のご質問に答えられるとお思います。心が落ち着いた状態でご質問にお答えできると思います」

「お返事を確認しました。上原さん、ではこれから質問をはじめます。よろしいですか?」

「はい、先生。用意はできています」

「お返事を確認しました。さて、ではこれから質問をはじめますが、わたしがこれからする質問に対して上原さんは、まず「はい」か「いいえ」でお答えください。それからさらに上原さんからわたしに伝えたいような付帯情報があれば、その後に続けてください。よろしいですか?」

「はい、先生のご質問に対する回答の仕方は理解しました」

「お返事を確認しました。では、これから質問をはじめます」

 そこでぼくは一瞬の間を感じる。だが、それは一瞬でしかない。だからその間は一瞬のうちに過ぎ去っていく。

「最初の質問です。上原さん、あなたはS社の正規社員で現在のお仕事はGSジャーナルの雑誌記者ですか?」

「はい。ぼくはS社の正規社員で現在の仕事はGSジャーナルの雑誌記者です。この件に関しては、お伝えしたいような付帯情報はありません」

「お返事を確認しました。では第二番目の質問です。あなたは約一月前に雑誌の取材で小河内ダムに行かれましたか?」

「はい、小河内ダムに行きました」

「では第三の質問をはじめますが、これから先は特に断りのない限り質問には番号を付しません。よろしいですか?」

「はい、ご説明の趣旨を理解しました」

「お返事を確認しました。では第三番目の質問です。あなたは小河内ダムに当初、雑誌社の東京近傍に故郷を発見するという目的の取材で向かわれましたが、その後、雑誌編集者村上卓の命令で取材目的が変更になりましたか?」

「はい、取材目的が変更になりました」

「それはどのような変更でしたか? この質問に関しては、最初に「はい」「いいえ」と答える必要はありません」

「数時間後に小河内ダム近傍に落下する予定の人工衛星に関する取材への変更です」

「そこであなたは何を目撃されましたか? この質問についても先ほどと同じ形式でご回答をお願いします。以下、同様にご回答ください。さて質問を繰り返しますが、あなたは小河内ダムで何を目撃されましたか?」

「人工衛星の落下です」

「その人工衛星は地表に落下しましたか?」

「ぼくの感じた限りでは地表には落下しなかったようです」

「しかし何かが落下をしませんでした?」

「はい。何かが落下をしたようには感じました」とぼくは言い、さらに以下の言葉を紡いでいる。「音も衝撃波もありませんでしたが、お腹にズウウンと来るような感覚があったことは記憶しています」

「あなたはそれが何だとお思いになられますか?」

「ぼくにはそれが何だかさっぱりわかりませんでした。ただ不思議なことがあるものだと思っただけです。ただ違和を感じただけです。ただ胸の悪さを感じただけです。ただ辺り一面に胃の内容物をぶちまけてしまいたくなるようなえずきの感覚を感じただけです」

「あなたはそのえずきの感覚が何に由来すると思われますか?」

「はっきりいって、ぼくにはそのえずきの感覚が何に由来するのかわかりません」

「では、ご想像で構いませんので、その感覚が何に由来するのかをお答えください」

「はい。理由は不明ですが、ぼくにはその感覚はこの地表に落ちた何か得体の知れないものが原因ではないかと直感しました。でもそれは単なるぼくの直感に過ぎません。確証も証拠もない単なるぼくの直感であるに過ぎません」

「けれども上原さんは先ほどの胸を悪くする感覚と小河内ダム近傍に落下した何かに関連があると直感されたわけですね」

「はい。しかし繰り返しますが、それは単なるぼくの直感であって理屈も論理もありません」

「わかりました。では、別の質問に移ります。何が落下したのかは不明ですが何かが地表に落下した後、上原さんはアメリカ軍と接触されましたね。アメリカ空軍の一小隊と?」「はい。ぼくはアメリカ空軍の一小隊と接触しました」

「上原さんがアメリカ軍の小隊との接触後に起こったことをお話しください」

「はい。まず軍用ヘリコプターで人工衛星墜落現場――実際に何が地表に落下したのかは不明ですが仮にそう呼ぶことにします――に向かいました。アメリカ軍小隊が人工衛星回収ミッションをはじめました。ですが墜落地点に降り立った第一分隊は何も発見することができませんでした。そして、その後……」

 そこでぼくは言葉を噤んでしまう。ぼくの中の何かがぼくの言葉を止めてしまう。ぼくの中の誰かがそれ以上のぼくの発言を禁じてしまう。

「これ以上、中川先生にお話しすることはありません」

 ぼくの中の誰かが言って中川医師との催眠を通じた質疑応答は閉ざされてしまう。中川医師とぼくとの催眠を通じた質疑応答が閉ざされて何故だかほっと感じているぼくがいる。そして何故だかほっと感じているそのぼくを感じているぼくがいる。しかしそのぼくは緊張感に包まれていて、中川医師の催眠誘導によって一旦は取り除かれたはずの緊張感がこのぼくの中にまた戻ってきてしまう。

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