12 惨(承前)
「おい、あれは何だ?」と怪物を発見した航空機事故関係者のひとりが言う。
「あのヌメヌメしたのは一体何だ?」と怪物を発見した航空機事故関係者の別のひとりが言う。
「何だあれは? おれは疲労で夢でも見ているのか?」と怪物を発見した航空機事故関係者の別のさらにひとりが言う。
「皆さん、近づいてはいけません。正体は不明ですがあれに近づいてはいけません。理由は説明できませんがあれに近づいてはいけません。危険ですから近づかないでください。皆さん、危険ですからあれに近づかないでください」と思わずぼくが叫んでいる。叫ばずにはいられないぼくがいる。「そして、できればあれを見ないでください。できればあれがいることを意識しないでください。皆さんがあれがいることを意識すれば、皆さん方があれの方にも意識され、その後きっと惨劇が生じますから……」
山下理緒菜がついさっきぼくに告げた内容には一縷の真実が隠されているようにぼくには思える。だからぼくはその考えに基づいて、ぼくたち二人の近くにいた事故関係者たちにそのように告げる。だが、そんなぼくの言葉は存在の前には紙切れでしかない。確固とした怪物の存在感の前には薄くていまにも破れてしまいそうな紙切れでしかない。
「何だ。お前はあれを知っているのか? あれの何かを知っているのか?」
ぼくの背後からそんな言葉が鋭く跳んで、その一瞬後、「うがあぁぁ……」という複数の悲鳴が聞こえてくる。そんな耳を覆いたくなるような複数の悲鳴が聞こえてくる。怪物を認識した事故関係者たちが怪物の身体の中に捕らえられた悲鳴が聞こえてくる。怪物の表皮の中に捉えられた悲鳴が聞こえてくる。怪物の表皮の中に捉えられて論理を破壊された悲鳴が聞こえてくる。怪物の表皮の中に捉えられて成す術なく論理を吸い取られた者の悲鳴が聞こえてくる。怪物の表皮の中に捕らえられるそれ以前に怪物と被害者との間に物理的な接触はない。もしかしたら怪物側の論理からすれば物理的な接触があったのかもしれないが、この世界の住人であるぼくたちの目には被害者が瞬間的に怪物の体内に吸収されたとしか映らない。まったくそうだとしか考えられない。
「駄目です。皆さん、パニックを起こしてはいけません。怪物に恐怖を感じてはいけません。怪物に対する興味や関心は皆さん方を怪物の餌候補にするだけです。怪物のマーキングを後押しするに過ぎません」
「だったら一体どうすればいいんだ?」
「そう説明するあんたは誰だ。飛行機事故の遺族ではなかったのか?」
「以前にあれと出遭っているのか?」
それに答えてぼくがいう。
「怪物のことは忘れて早く山頂まで逃げるのです。わたしは今回の事故の遺族です」そして『ええ、数日前にあの怪物を目撃しています』とぼくが言葉を発する前にぼくの言葉が遮られる。
「上原さん、そこまでです」
そして身体をやんわりと拘束される。
「あんたは誰だ?」とぼくは口にするが、そのときには既に相手の正体に気づいている。「アメリカ軍か? 日系か?」
「まさか、こんなに早く出番が来るとは思いませんでしたが、その通りです」
「怪物の被害者がいるんだぞ。他の目撃者がいるんだぞ!」
「残念ながら、わたしは自分の任務に従うだけです。けれども早く怪物から逃げろという、ミスター・上原の意見には賛同します。わたしが時間を稼ぎますから、早く皆さん方と一緒にヘリコプターの所まで逃げてください」
そういうが早いか流暢な日本語を話す所謂醤油顔の年の頃二十五歳くらいのアメリカ軍関係者の青年が怪物に向かって走っていく。怪物の関心を自分ひとりに惹き付けるために走っていく。
「そんな無茶な……」
ぼくはその日系アメリカ人青年の勇敢な行為に驚きを隠せない。かつ、その無謀な行為に目を蔽いたくなる。
「皆さん、早く山頂まで非難してください。あの青年の好意を無にしてはいけません」
ぼくの傍らで山下理緒菜がそう叫んで周りの人間の関心の向かう先を避難第一に誘導する。既に呆気に取られていた人々は、その誘導に上手く乗って我先にと燕岳山頂の簡易ヘリポートに向かって一気に走る。
「さあ、わたしたちも早く行きましょう」
「だが、あの青年が……」
「上原さん、武器を持たないわたしたちに一体何が出来るんです。戦いは戦いの専門家に任せればいいんです」
「しかし怪物と戦う専門家なんていやしない」
「そんなことをいって上原さんまで死んでしまったらどうするんです。先に亡くなられた奥様と娘さんが天国で悲しむだけです。それに、それにわたしだって堪えられません」
だがそのとき既にアメリカ人青年は怪物の中に捕らえられている。先に逃げて行ったはずの何名もの人々も怪物の中に捕らえられている。それが今日この場所に集まっていた全員なのかどうかはいまのところ確認できない。だがおそらくそれは、ぼくと山下理緒菜を除く怪物を目撃した全員だろうとぼくは直感する。突然の怪物の出現よりも早く怪物を見ることなしに燕岳山頂の簡易ヘリポートに向かった人間以外の全員だろうと直感する。
「なんてことだ!」とぼくは叫ぶ。ぼくは叫んで無常観に捕らえられる。
「ああ、なんてこと……」と呟いて山下理緒菜が沈黙する。そして静かに涙を流す。
そんな山下理緒菜をそのままに、ぼくは怪物に近づいていく。ぼくと山下理緒菜を体内に取り込まなかった怪物の方に近づいていく。怪物に向かって叫んでいる。
「おまえは何故ぼくたちを取り込まない。何故ぼくたちを飲み込まない。何故だ! 何故なんだ? 答えがあるなら教えてくれ!」
目のない怪物の何処に注意を向けたら良いのかさっぱり判らなかったぼくは、そのとき一番大きくプリプリと震えていた怪物の半透明部分を睨みながら叫ぶ。一番大きくプリプリと震えていた、その表皮の中に揺蕩う人間の姿が見える怪物の部分を睨みながら叫ぶ。
「なんとかいったらどうなんだ!」
だが当然、怪物からの答えはない。けれども怪物がそんなぼくの行動に関心を示したことはだけは伝わってくる。関心を示しながら――怪物の論理なのか、あるいはこの世界の論理なのかはわからなかったが――不思議に感じているらしいことだけは伝わってくる。ただそれだけが伝わってくる。
「くそう!」とぼくが悪態を吐く。そして背後に温もりを感じる。山下理緒菜の温もりを感じる。その温もりがぼくに語る。あなたをひとりだけでは行かせませんと……
「おい、怪物よ! どうしておまえはぼくを喰食わない。どうしてお前はぼくたちを喰わない。ぼくたちがこの地球上で最初のお前の目撃者だからなのか? それとも他に理由があるのか?」
だが次の瞬間、怪物は音も立てずにその場から消え去る。ぼくとその背後に立った山下理緒菜の二人を残してその場から消え去る。直後、辺りの空気の温度が下がる。辺りの空気の温度が急激に下がる。だが今回は爆発は起こらない。不意の怪物の消失がこの世界に齎したものは物理的な気温の低下だけだ。
そのとき無線機の呼び出し音がビーッと鳴る。いまは持ち主が消えてしまった航空機墜落事故対策隊のメンバーが現地に用意した無線機の呼び出し音が鳴る。出ると、それは燕岳山頂簡易へリポートにまだ停まっていたヘリコプター操縦者からだと判る。
「こちらはあと十分でここから飛び立ちますが、今回は本当に帰還者二名で宜しいんですか?」と問いかける。ぼくは操縦者を怪物の事件に巻き込まないように現状を告げる方法を咄嗟に考えるが思いつけない。それで仕方なく限定された事実を多少の嘘を交えて伝えることに決める。
「航空機墜落の事故現場で別の事故が発生しました。わたし=上原祥と雑誌記者の山下理緒菜以外、全員がこの場から消え去ってしまいました。詳しい理由はわかりません。とにかく全員が消え去ってしまったのです。なので、ヘリコプターは待機をお願いいたします。わたしと山下の二人がそちらに向かうまで待機をお願いします。約一時間の待機をお願いします。あるいはわたしたちが山頂を目指しているその間に一旦飛び立たれて現場の状況を確認されても構いません。聞こえましたか? いま現在、航空機墜落事故現場にはわたしたち二人の他には誰もいません。判りましたか? わたしたちはこれからすぐに燕岳山頂に向かいます。この無線器材は重量があるのでここに残して燕岳山頂に向かいます。宜しいですか? これからすぐにそうします」
そういってぼくは相手に応える隙を与えずに無線機のスイッチを切る。そして無言の山下理緒菜の肩を抱きながら燕岳山頂までの約一時間の登頂ルートに再び向かう。少し寒くなってきたなと感じて天空を見上げると曇天の雲間から細い雨が落ちてきている。そしてその雨がぼくたち二人の体温を刻一刻と奪ってゆく。(第一章・終)
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